#beat15 仕事が暇すぎて幽霊が普通に出勤してきます
これは草食系ブラック企業(職場)のリアルなドキュメンタリーだ。草食系ブラックは社員の能力・やる気・成長機会を根こそぎ奪い、廃人同然にしてしまう。まるでこの世の果てのような理外の空間には、様々な怪現象が現れる。
【登場人物】ひろし:部長(※別名「怪鳥」)、仕事をしない。たつお:課長、仕事をしない。のぞみ:中堅社員(n.nozomi)。トシ:中堅社員(j.yabuki)。
◇ ◇ ◇
帰り道、のぞみからレスポールの話を聞いている。しばらくその話題が出ていなかったので、興味をなくしたものと思っていた。彼は、熱しやすく冷めやすいところがある。
「あの丸みがまたエロいんだよなあ」感嘆の溜め息を洩らすようにのぞみが言った。
彼のエロはそこにぶつかっていたのかと、トシは半ばあきれた。思えば、女に不自由していないことにプライドを置く男が、会社でアダルトサイトを見るはずがない。
聞けば、楽器店のサイトを5分ごとにチェックしているらしい。
そこまで……。暇で仕方がないとう事情もあるのだろうが、度を超している。
「楽器って、見てるだけでいいものなの?」トシは指摘する。
「ありでしょ。芸術品だからね」
「うーん」
トシはギターに関して言えば、見た目にスッキリとした、フェンダーのテレキャスやストラトを好む。レスポールは装飾が行きすぎていているように感じるのだ。しかし壁にかけるオブジェとして見た場合は、たしかに話が違う気がする。レスポールの、光沢のある虎目は美しい。
トシが納得しかけたとき、
「わからないかなあ、ああ、エロぉ!」
いや、それって芸術品に抱く感情じゃないよね……。
「買うの?」と訊くと、のぞみは我に返ったように首を横に振る。「いやいや、金がない」
かと思えば、数分後に話題を戻して、「今、けっこう安くなってるんだよな」と言う。ギターの価格もリアルタイムで変動しているらしい。
「安くなってるっていってもさ、元が高いんだから、やっぱり高いでしょ」
トシが指摘すると、のぞみは「そうそう」と今度は首を縦に振る。
大丈夫だろうか。
欲しいとはちょくちょく聞いていたけど、まさかそこまでとは。病んでいる……。
二人は、帰り道のハイライトと言うべき高台に立って、街を見下ろした。
九月になり、日は少し低くなっている。
◇ ◇ ◇
「15時55分」を、彼らは魔の時刻と呼んでいる。
疲労は溜まっているのに、まだ16時にも届いていない。そう思うと、ますますつらくなる。定時までの道のりを考えると、今度は絶望すら覚える。
今日は、魔の時刻の後もお互い立て直すことができず、心身ともにぼろぼろであった。帰り道にかずやさんの話題が出ないのも、魔の時刻によるところが大きい。
かずやさんが現われたのは、15時ごろ。結局、彼が発したのは、あのひとことだけだった。二人が反応できずにいるうちに、かずやさんは消えていた。たつおはたつおの顔で、寝起きの気の抜けた目でモニターを眺めていた。
怪鳥が戻ってくると再び殺伐とした空気になり、やがて魔の時刻にいたる。そこからはあまりにもつらく、あれだけ驚いたかずやさんのことも、17時を過ぎたあたりでどうでもよくなっていた。
業推の異空間では、すべての事象がうやむやになる。
無責任に残された、「参加するぞ」のセリフ。
二人は一応、その後に解決を試みたことを、ここに記しておく。
j.yabuki《この人、「参加するぞ」って言ったよね? 聞き違いじゃないよね?》
h.nozomi《うん、言ったと思う。うおお、怖えええ。どうする?》
j.yabuki《かずやさんのほう? 参加するぞのほう?》
h.nozomi《どっちもだけど、あの流れから言うと、コンテストに参加するぞってことだよね?》
j.yabuki《発言した人に話を聞かないと。たつおが瞑想状態に入らないと、かずやさん出てこないし……》
h.nozomi《いや、あの人でてくんの、おれ怖いよ》
怪鳥がトイレに行った隙に、のぞみが訊いてみる。
「課長、ここんとこ体調がおかしかったりしません?」
たつおは、額をてからせながら、笑顔で答える。「こんだけ昼間寝てんのに、ぐっすりだよ」健康的な笑顔だ。
「一度お払いとか行ったほうがよくありませんか?」
「なんで」
「できれば、今晩中に」
「だからなんで」
たつおがあれから眠りに落ちることはなかった。よって話はここで止まっている。
帰宅してひと息つき、冷静になったトシは思うのだった。
午後はもう思考がおかしくなっていた。たかが「コッツォ」で笑い狂っていたのだ。社内報を読んで、てっきり持ち直したと思っていたが、蓄積したダメージは相当残っていたはずだ。あれは今考えれば、夢か幻だったのかもしれない。
たしかに自分だけではなくて、のぞみもかずやさんが社内報を読む姿を見た。その声を聞いた。が、自分がのぞみにそう伝えたから、そう見えた、そう聞こえたとは考えられないだろうか。
のぞみだってあのときは相当キていた。
極限の労働環境で、二人の人間が軽い錯乱状態に陥る。集団催眠という言葉もあるくらいなのだから、それくらいは充分あり得る。
もっと現実的な線としては、単に、たつおが寝ぼけていたことも考えられる。寝ている人間が、無意識に行動をして、それを本人は覚えていない。こちらも充分に起こり得る話だ。
のぞみのギターの話じゃないが、業推の人間はみんなどこかおかしくなっている。
現実を直視しよう。この現状こそが由々しき問題なのである。
◇ ◇ ◇
翌日、トシ、のぞみ、たつおの三人は、席に座りながら仕事をしている感じで会話をしている。いつものことだ。決定的に違うのは、怪鳥ひろしが席にいるというのに、普通に会話をしている点――。
「参加の申し込み用紙に記入してくれる?」見た目、たつおの人が言う。
「いや、ちょっと」ぎこちなくトシが答える。
「俺まだうまく指が動かせねえんだよ」
「いえ、そういう問題じゃなくて」
声も表情も、話し方も、たつおとはまったく違う。
彼は今朝、普通にかずやさんの状態で出社してきた。どういうわけか、口をぎゅっと結んだままである。口は閉じているのに、中から声がする。こもった感じはなく、はっきりと声の通る様子は、まるで腹話術のようだ。
この怪奇現象に気づいていないはずのない怪鳥は、知らんふりを決め込んでいる。さっきからキーボードと電卓を交互にカチャカチャ鳴らしている。
「いくつか質問があるんですけどいいですか」
低血圧のトシは、朝方のテンションのためか、妙に冷めた調子を保っている。
かずやは凛々しい目をトシに向けた。
「あなたはかずやさんで間違いありませんか」
「おう」
トシはうなずく。どうやらこの腹話術は、たつおの宴会芸というわけではなさそうだ。
「では、いつからかずやさんなんですか」
「朝からだよ。こいつ、日中だといつ寝るかわからんしな」
ここまで沈黙していたのぞみも、「その、通勤とか、大丈夫だったんですか」と控えめに突っ込んだ。
「なんとかな。この身体もだいぶ慣れてきた」
こっちは慣れないけどな、とは突っ込めない。
かずやの顔は、目元の周辺だけがやけに生気があり、残りのパーツは、死後硬直してしまったような無表情。アンバランスでとても怖い。
突っ込む代わりにのぞみはこう訊く。「どうやって声を出してるんですか」
「声帯と横隔膜!」力のこもった声だ。「そこさえしっかり動かせば、声がでるんだ。こいつ食意地張っててよ、口のまわりの筋肉だけは譲らねーんだよ」
二人は納得した。たつおらしい。
「ほら」とかずやはまた、トシに申し込み用紙を押しつける。
せっかちだ――。先走り過ぎているようにも思う。たつおの双子の兄と聞いていたが、弟とはかなり性格が異なるようだ。
この状況、怖いというよりは、不可思議である。トシは早々に核心をつくことにした。
「かずやさんは、その、たつおさんのお兄さんなんですよね。だいぶ前に風邪をこじらせて、亡くなったと聞きましたけど」
トシはもちろん幽霊の相手などしたことはない。だが、「あなたは、死んでしまったことに気づいていますか?」という問いは、最初のうちに、訊いておくべき事項の気がする。
「ああ!」かずやが声を荒げた。
しまった、直接的すぎたか。
その音量に呼応するように、怪鳥がいっそう激しくキーを叩き出した。
「なんで、たつおのほうがたらたら長生きしてんだよ! まさか俺だって、たかが風邪でこんなことになるとは思いもしなかったよ。というかな、元はといえば、たつおからもらった風邪なんだぜ」
相当たまっていたのだろう。かずやが一気にまくしたてる。
「人生これからって時期だったんだよ。若いうちの苦労は金を出してでも買えっていうだろ。がむしゃらに頑張ったさ。勉強して、バイトして、ばりばり働いて。これ以上ないくらいストイックに生きてたんだ。あ、たつおがよく自己啓発本読んでるのは俺の影響な」
たつおのあれは、そういうことか。
ひと息ついたかと思いきや、かずやの語りはまだ止まる気配がない。
「たしかにはじめのうちは成果はでなかった。失敗して、挫折したよ。だがな、繰り返すうちに、ようやく自分に自信が持てたところだったんだ。これまでの俺は、やはり正しかったんだと思ったね。ここから一気に快進撃がはじまるはずだったんだ。その結果がこれだろ。あんまり腹が立って、一時期悪霊になりかけたわ」
かずやの語りにますます熱がこもる。それは選挙の街頭演説のようであり、その声はすでにフロア中に響き渡っていた。
トシは止めるタイミングを計りかねている。
「けど俺だって大人だ。やんちゃは止めて成仏しようとも思ったさ。それなのに……、たつおだよ! こいつ、すんげー腹立つ生き方してんだよ。何の目標もなく、ちゃらんぽらんに生きやがってさ。小ずるく要領だけで立ち回って、女の尻ばかり追いかけて。昔から知ってたつもりでいたけどよ、死んでからこいつの生活のぞいて愕然としたわ。あるのは、性欲と食欲だけ。欲望のまま動いてるだけなんだぜ。そんで、精力だけはすげえんだ。そこだけ十代ってあきれるわ!」
「あの、かずやさん、そのへんで」
「こいつ、こんな顔して外に愛人いるんだぜ。地方の営業所長のころなんて、経費でキャバクラいくわ、海外赴任したら現地で女買うわ」
「かずやさん、そのへんで」しー、しーっ。トシは指を口に当てて、視線をあたりに泳がせる。
他の部署の人間は、一見変わらず仕事をしているように見えた。
顔を上げているものは誰もいない。仕事に没頭しているのか、怖い人と目を合わさないようにしているのか。
「ああ、本題がまだだったな。俺もこの状態でいるのが、そろそろ限界だ。締め切り今日だから、これだけは言っとくわ。ぜってー、申し込んどけよ。申し込んでなかったら、すっげーたたるからな」
たたるって、あんた……。「すいません、突っ込みどころが多すぎます。できない約束をすると、あとでもっとたたられそうなんで」
「おお、おまえなかなか優秀だな」
「社内コンテストに申し込むってことは、当然バンド演奏をすることになると思うんですけど、その……、ぼくらでどうやってバンドやるんですか」
「おれ、ベース」
「答えになってません」
「のぞみ、ギターできるんだろ」かずやは唐突にのぞむのほうを向いた。
「え、ええ……」のぞみが動揺する。
最近はほとんど弾いていないのだと、言い訳をしたいところだが、かずやの迫力に押され、言葉が継げない。
「あとトシ、俺をごまかせると思うなよ」
なんのことだ? 業推で、なにか楽器について発言をしたことがあっただろうか。
いや、ない、と結論を出しかけたところで――思いいたる。
ひょっとして、あのことか。
「ですけど」
トシは、別の角度から反論を試みる。「募集してるのは、『大人のバンド』ですよ。募集要項によると、メンバーが社員であることと、」
「五十歳こえてんの、いるじゃねーか」
まさか。
ひろしの動きが一瞬、止まった。またキーボードを叩き出す。そのがむしゃらな叩き方は、何かから必死に逃げている姿のように見えた。
「さすがに疲れたから、今日は消えるわ。ぜってー、申し込んどけよ」
嵐が去ったあとのようだった――。
たつおは椅子の上で安らかな顔をして目を閉じており、トシの机の上には、申込用紙が斜めに置かれていた。
それを手に取るトシ。
現実感が感じられないまま、何かに操られるかのように、メンバーとパートを記入する。
たつお、ベース(リーダー)。
のぞみ、ギター。
とりあえず、ひろしをボーカルと書いて、トシはすこし考え、自分の名前の横に、ドラムと書いた。
【作者コメント】
自分で言うのもなんですが、わたしはnote創作大賞の発表を受けて、しばらく創作意欲を失くすと思うのです……。本作の継続のために、何かしらリアクションをいただけるとありがたいです。なんだかんだ、また書きはじめるとは思いますが……。