虹をつかもう ――仙――
2
教室のなか、もうひとつ足音が近づいてくる。軽快でテンポがいい。
そして予想どおりの声――、
「なあ、昨日のお笑いライブ観た?」これは舟木。ぼくは顔を上げた。
正直、舟木が話しかけてくれるとたいへん助かる。
浮世絵にあるような、細く直線的な目に、眉と口。顔がきゅっと引き締まっている。美形ではないが、全体的にさわやかな印象で、女子にもモテそうだ。
「もちろん。あれ、すっげーウケた」ぼくはコントのワンシーンを、手振りを加えながら芸人の台詞をまねて再現する。舟木がそれを見て笑う。
「あの間が最高なんだよな」と続ける。
「うまいうまい。雰囲気でてる」
会話らしい会話。舟木にはときどきこうして、お笑い番組のコントを再現して披露する。そのやり取りは、藤沢のときとは違い、まったく苦にならない。
舟木は戻っていく。ぼくはまた雑誌を広げる。舟木の後にはついていけない。なぜなら、あそこのリーダーとぼくは親しくない。そのグループのリーダーは、いわば、スポーツマン的な不良。ただ、彼の場合、不良といっても、スタイルだけなのだと思う。
ガラの悪い集団のなかでは、自衛のため、そういった側面は必要だ。グループのメンバーはみな、体育会系のクラブに所属している。一番健全な集団である。
ぼくは何のクラブにも所属していない、いわゆる帰宅部であり――これには事情があるのだが――とにかく、このグループに入ることはむずかしい。
男子19人、女子17人。
男子に限って言えば、すでに不登校の生徒が2人おり、よって残りは17人。そのなかで、5、4、5のグループが出来ている。
足すと、14人。3人余る。
どのグループにも所属しない、残りその他が3名おり、不名誉なことにぼくは、そのひとりになってしまったのだ。
というのも、不良グループとスポーツ集団を除けば、あとは、不良二軍というべき、半端な奴らのグループしかない。彼らは、屈折しているというか、チンピラ根性というか、ある意味もっともタチの悪い集団だ。
このクラスにはどういうわけか、学年の多くの不良が集ってきた。ぼくにとって、この春のクラス替えは、不運だったとしか言いようがない。
舟木のような、ある程度、自衛可能な体育会系の連中は、体育会系同士で固まってしまったし、はじめは割と普通だと思っていたやつらも、おそらくは普通でいることを怖れ、キャラに合わない不自然なイメチェンをし、不良二軍に入ってしまった。
大きな流れというべきか、そういう空気ができてしまったのだ。学年でも悪名の高い、クラスのトップ、ワンとツーの存在が大きいのだと思う。
以上を踏まえ、グループをランキングと関連付けた上でまとめると、こうなる(数字は、何番目の権力者という意味)。
不良一軍:1、2、3(藤沢)、5、6
不良二軍:9、10、12、13、14
スポーツ:4、7、8(舟木)、11
その他 ぼく、仙人、ビリー
不良一軍と二軍は、きっちりと実力の上下で分かれている。スポーツ組のトップは、ぼくの呼び方で言うなら、フォー氏であり、不良一軍に食い込む実力がある。彼は野球部のエースであり、喧嘩の強さを表す〈腕力〉でも、瞬発力や俊敏さを考慮すれば、藤沢より上かもしれない。
スポーティ集団は、リーダーであるフォー氏の他を見ても、ほぼ不良二軍より序列が上だ。彼らは、チャートの〈イカレ〉が低いだけで、〈腕力〉も〈頭脳〉も〈コネ〉も、ポイントが高い。これらの項目だけで言うなら、多くは、不良一軍をも上回っている。逆にいえば、不良というブランドが、クラスの力関係を築く上で、いかに強いかを表していると言える。
「イカレ」ている。切れると何をするか分からない。この項目は、学校という閉鎖空間に限り、たいへん重みがある。極端な話、どんなに強い人間だって、うしろから刃物で刺されてしまえば終わりなのだ。ぼくがもっとも警戒するのが、この〈イカレ〉。
そして、こう言っちゃなんだが、二軍なんて〈イカレ〉をファッションとして着た、恰好だけの吹きだまりだ。さすがにそこに混じるほど、落ちぶれることはできない。もっとも彼らは、一軍の命令には絶対服従であり、しんどい面もあるようだが。
――時間が長い。
我ながら、不毛な思考である。
チャイムはまだだろうか。藤沢がふざけたのか、今、すごい音がしたのだが。ぼくはただ漫画を読んでいるように見えて、近づく足音に神経を澄まし、見えない敵と戦っている。
なんせ、下から三番目の15位なのだ。そうとう立場は危うい。
いま一度、生きるための現状分析をする。友人もどきの藤沢は3位、唯一の友人、舟木は、8位。つまりぼくの〈コネ〉は、単発ながら、上位の人間を押さえており(しかも、ひとりは一軍だ)、悪くはないのだ。
最大のウィークポイントは〈腕力〉。とにかくぼくは、身体能力に自信がない。身体が小さく、肉付きが悪いため、ケンカで勝ち目がないことなど、誰の目から見てもあきらか。藤沢、舟木との〈コネ〉のほかには、ほぼ〈愛嬌〉で稼いでいるという、いびつな形のチャートの持ち主。
そこまで考えたところで、ようやく授業開始のチャイムが鳴った。
しかし喧噪はやまず、不良どもが席につく様子はない。だけど、ぼくは少しほっとする。
思うにこのクラスには、極端な人間が集まりすぎじゃないだろうか。
二流とはいえ、一応は進学校。制服だって、男子は未だに黒の学ラン、女子は白を基調としたセーラー服、とても地味だ。校風は本来なら、そこまで柄が悪くないのだ。なぜかクラスには、ぼくのような中間層がいない。
教室の引き戸が開けられた。年配の男性教師が申し訳なさそうに入ってくる。細身というよりはひょろ長く、髪に力がない。力がないのは、髪の毛だけじゃなく、目に光りが点っていない。初めての場所に入るように他人行儀だ。そして、これが担任なのだから泣けてくる。
さすがに皆、席には着くが、音量はさっきの三分の一のいったところ。教室の中央は、不良一軍、二軍で固まっており、彼らは、これが不良の特権とばかりにしゃべることを止めない。堂々としたものだ。完全になめている。
この状況、教師のキャラクターによるところも大きいが、教科にも問題がある。二年生になってはじまった世界史が、まったく面白くないのだ。
今日は、先週の――、周王朝から春秋戦国時代――、ですね。
教師は、生徒にかまわず淡々と話す。大きな声でもないのに、どういうわけか、騒ぎ声をくぐり抜けた音の波が、一番後列のぼくにも到達する。「最低限、仕事してますから」と、そう言っている。恐ろしいスキルだ。授業としては成立するのだろうけど、いかんせん、ぼくにも興味がない。中国の歴史などどうでもいい。
「今を生きる」ためのサバイバル戦略を考えることにする。
3
幸いなことに、クラスには、自分よりも馴染めていないやつが、少なくとも三人いる。ひとりは、その他に分類されるビリー。
最下位のビリから名づけた。なんだかいじめてやりたくなる奴というのは、世の中に、たしかにいる。色白ぽっちゃりのビリーは、それを絵に書いたような奴だ。冴えない外見に加え、挙動不審。いつもビクビクしていて、話し方もぎこちない。
クラスにビリーがいます。同じクラスには、毎日、退屈で仕方のない不良たちがたくさんいます。方程式の変数に彼らを代入します。解は、「ビリーがイジメの標的になります」
――そのころの思想として――、老荘思想があり――、
歴史教師の声が、教室の喧騒のなかでわずかに響いている。
教科書を棒読みするだけの大人。こいつも、随分とイジメに貢献している。
今、ビリーが五番に頭をはたかれた。気づいてるんだか、見て見ぬ振りなのか。
ビリーは、ぼくのことを「その他」の仲間と認識しているのか、折を見て、近づいてきそうな気配がある。とんでもない。距離を置くようにしている。
彼にはレーダーチャートのポイントをつけようがない。彼とぼくの最大の差は〈愛嬌〉。大事なのは、相手をどう楽しませるか。刺激が欲しくて仕方ない連中を前に、おどおどするなんて、いじめてくださいと言っているようなもの。
なお、彼は成績は悪くないようだが、チャート上の〈頭脳〉とは、そういう頭の良さではなくて、要領に近い。すると、これもゼロ。
しっかりしてくれよと、ぼくが思う。どうも彼は、不良一軍二軍から、身体的な暴力を受けている節もある。悪化しないことを願うばかり。
――儒教と並び、――そのひとつに道教があります。
そんなのいいって。異国の宗教を教えてくれる前に、まずは生徒を救ってくれよ。
ビリーのことを心苦しく思わないわけではないが、自分は、非難されるべき、いわゆる傍観者ではないと思う。というか、そんな優位な位置になど立っていない。
ぼくが標的になる順番は、序列からいって次の次に控えている。
あなたは17番、ぼくは15番。
彼には、15番のぼくにすがっても仕方がないと、どうか分かってほしい。狙うなら、もっと上。それが「コネ」じゃないか。こちらに来られても、ぼくを引きずり込むことにしかならない。ぼくだって自分を守ることで精一杯……。
そのとき、教室に、大きくはないが、まとまりのある笑いが起きた。
――仙人
ぼくも歴史教師の口から、たしかにその言葉を聞いた。
教師は、クラスの反応に少し驚いたようだったが、こちらを振り返りもせず、話を続ける。「――不老長生を目指したとされています」
そこで終わり。
なんだそれ。不老不死のことか。
中国の思想と、仙人や不老不死が、どうつながるのかはよく分からない。
言えるのは、みんな単に「仙人」という言葉に反応しただけだ。
窓側の、一番前の座席を見る。
代わり映えのしない光景は、静止画のようだ。その人は、明らかに教科書ではない、カバーのついた本を読んでいる。椅子にもたれるでも、前屈みになるでもなく、休み時間から、その姿勢は変わっていない。気怠そうな演技で漫画雑誌をめくるぼくとは違い、気負っている様子が見られない。
当然というべきか、彼にはなんの反応もなく、みんなの関心もすぐに逸れてしまった。
浮いた奴のもうひとり、その他の「仙人」とは、16番の渾名。その数字は下から二番目の位置であるのだが、実は、彼とは組んでもいいかな、と思っている。
チャートの〈コネ〉。完全にゼロ。
彼が序列をここまで落としている理由はこれに尽きる。
これまで、他人と会話をしているところを見たことがない。その点では、ビリーよりもひどい。なぜならビリーの声や話し方なら知っているけれど、仙人の声は、低いのか高いのか、こもるのか通るのか、それさえ想像がつかない。新学期が始まってからひと月が経つが、いまだ授業でも当てられていない。
語りはしない。だが、飄々とした身のこなしは、あえて孤独に身を置いている感じがする。動作のひとつひとつが落ち着いていて、ビリーとはまるで逆。
しかし、よくそれで平気でいられるものだ。賞賛に値する。彼が仙人と呼ばれる理由である。
なお、仙人と言っても、別に老けて見えるわけではない。
むしろ顔はあっさりとしていて、異様にバランスがいい。髪が少し跳ね、アクセントになっている。
まあ、男子の序列に関してルックスなんて項目はないので、得点にはつながらない。その代わり、〈オーラ〉には、多分に寄与しているように思う。
〈オーラ〉の項目は、彼のような特殊なケースに対応するために作ったところがある。
ひとことで言えば、近寄りがたい。他のグループも、この人の存在をどうとらえるか、迷っている節がある。少なくとも、仙人――七瀬がいる限り、自分が浮くということはないだろう。
彼と組めば、ぼくの〈愛嬌〉と〈コネ〉、彼の〈オーラ〉を足し、互いを補完できる気がする。
だが、相当な変わり者には違いないので、もう少し様子を見る必要がある。
それに、お互い、ひとりでいることで身を守れているのなら、しばらくはその状態でいたほうがいい。
4
ここまで、クラスの愚痴ばかりを言っているようだが、当たりもある。
通路側の一番前、仙人と左右対称の位置。この辺りは、休み時間、男子の人口密度が高くなる。ただし、ドーナッツ化現象というべきもので、机から一定の距離を空けて。
言い切る。学校一の美女がそこにいる。あっちが仙人なら、こっちは天女。そして彼女こそが、自分より浮いていると言ったうちの、最後のひとりでもある。
ここまで女子サイドの話は除外してきたのだが、浮いている人間という話になれば、彼女、木原愛を、登場させないわけにはいかない。それくらいの異様さがあり、強力な存在感を放っている。
「ヤクザの愛人」「組長のひとり娘」「あまり表にはできない芸能プロダクションとのつながり」
大きなところでは、そんな噂がある。
芸能プロダクションがどうこう――本来、この年齢であればふさわしいはずの「可愛い」なんていう言葉が間の抜けて聞こえるほど美しく、「神々しい」という言葉が合う。長い黒髪。スタイルも文句ない。
たしかに、芸能プロを呼び寄せるほどの引力の持ち主だが、それにしては明るさがまるでないというか、よく言う芸能界の光と影の、光の部分がいっさいないというか。
彼女は誰とも関わろうとしない。そして、神秘的であるのと同時に、いつも怒ったような表情をしている。
そこから出てきたのであろう、ヤクザの愛人。たしかに他人を寄せつけない迫力がある。
目元が、鋭い。生来の美貌が持つ引力も強いが、同じくらい斥力(弾き出す方向の力)も強い。その二つの力が拮抗するために、トーナッツ化現象が生まれるわけだ。四月の当初こそ、男子が話しかけもしたが、今では不良一軍でさえ、目線を投げかけるにとどまっている。
彼女の声は静かだが、ドスを利かせるヤクザのような迫力があった。
ぼくが聞いた数少ない彼女の台詞。
「うるさいんだけど」「殺すよ」
やはり火のないところに煙は立たない。妙にリアリティのあるヤクザの愛人という噂も、彼女を遠巻きにしている一因だ。
だが、ぼくは「組長のひとり娘」のほうがしっくりくる。
極道の妻には美人が多いと聞く。ならば、美人の娘も美人だろう。そして、一般人からは想像もつかない壮絶な生活環境が、あの氷の炎をまとわせたのだ。ぼくの妄想である。
話が長くなったが、いち男子として、ぼくもそれだけ、彼女のことを見ているということ。だけどそれは、雑誌のグラビアを眺めるのと同じで、恋愛感情ではない。それだけははっきりさせておきたい。
続きはこちらから。