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#beat9 仕事が暇すぎて職場が深夜の居酒屋と化しました

これは草食系ブラック企業(職場)のリアルなドキュメンタリーだ。草食系ブラックは社員の能力・やる気・成長機会を根こそぎ奪い、廃人同然にしてしまう。まるでこの世の果てのような理外の空間には、様々な怪現象が現れる。

【登場人物】ひろし:部長(※別名「怪鳥」)、仕事をしない。たつお:課長、仕事をしない。のぞみ:中堅社員、以下同文。トシ:中堅社員、以下同文。

◇ ◇ ◇
口の中がしゅわしゅわする。炭酸入りキャンディをひっきりなしに舐めている。16時に差し掛かったあたりから、トシの思考は完全に停止した。目が疲れて、頭が痛い。つらい、つら過ぎる。

午前中は、いつもように、手帳に謎の音楽記号を書き込み、新しく仕込んできたリズムパターンを手足で刻み、比較的順調に過ごすことができた。ところが昼過ぎの中盤戦で、インターネットを見過ぎた。飛ばし過ぎたのだ。

※ 自席の音楽トレーニング(↓)

同僚ののぞみからチャットが飛んでこないところを見ると、彼も似たような状態なのかもしれない。暇でつらいときほど、彼のチャットは饒舌になるのだが、つらさが度を越えると、今度は逆に沈黙する。

追い討ちをかけるように、怪鳥がキーボードをカチャカチャやり出した。エンターキーを力いっぱい叩きつける。ターン! カチャカチャ、ターンっ! 
ああ、頭に響く。
ひろしは時々、「おう」「あ~れ~」と小芝居を入れる。
あいつ、本当にすげえな。何もすることがないのに、よくあんだけ打てるな。まさか、適当に打ってるだけなのか? あり得る。

というのも、以前のぞみが、怪鳥が電卓を操作する様子を、横目で観察していたことがある。なんと、怪鳥は、数字のキーを叩いていただけだったそうだ。はじめ、トシはそれを聞いてもピンと来なかった。

「電卓って計算するためのものでしょ。だから、+とか×とか押さないって、あり得ないんだって。でないと、ディスプレイに数字を表示させてるだけってことになる。それってなんの意味があるの?」
「おお」とトシは目から鱗が落ちた。「たしかに。じゃあ、あの人なにやってんの!」
よく頭が変にならないものだ。いや、なってんのか。

のぞみにキーボードの話題をしようとチャットソフトを立ち上げ、リストから「h.nozomi」を選択したところで止める。今は、やりとりを続けるだけの気力が残っていない。相手だってそうだろう。

代わりに、リストの別の部分を見つめる。「hikaru」――、ひかる、だ。
いつかの座談会で出会った、赤い服の子。トシは、彼女が社内ライブでキーボードを弾いているのを観て、そこから名前を割り出すことができた。

ペンタの社内報はなかなか凝っており、毎月、カラー印刷されたものが社員に配布される。そのなかには、毎回音楽のコーナーがあって、社内ライブのレポートなども載る。そこに、出演バンドの詳細が書かれており、彼女の所属と名前を知ることができた。おそらく「hikaru」が、その子だ。

「hikaru」を選択してみた。連絡をとってみたい。だが、なんと書く?
顔を合わせたのは、座談会に出席したときの一度きりで、向こうはトシのことなど覚えていないだろう。しかもあの場では、ひとことも会話を交わしていない。

顔も思い出せないような人間から突然連絡がきたら、彼女はどう思うだろう。
いやでも、もしかしたら――。
そんなことを考えているうちに、時間は17時をまわっていた。
トシはチャットソフトを落とした。

バス道に沿っていつものように、駅までの道をのぞみと歩いている。トシは瞼が重く、しっかりと開けられないでいる。
「活字を読むからでしょ。絵を眺めればいいんだよ」
のぞみは、的確なアドバイスをする。
「さすがインターネットマスター」
「いやいや、業推にきてからだよ、こんなにインターネット見てるの。普段ぜんぜん見ないし」

のぞみがそういう性格ではないのはよく分かる。彼は、早朝から波乗りをするようなアクティブな人間だ。
「最近、海には行ってるの?」
「それがさ……」浮かない顔だ。実はもう三週間も出かけていないのだと彼は言う。気力が湧かなくて、と。

他人事ではない。トシもこのところDTMのソフト(音楽制作ソフト)をまったく立ち上げていない。せいぜい通販で買ったライブのDVDを観るくらいだ。
「わかるよ」

トシだけではない。のぞみも相当ダメージが蓄積しているのだ。
空を見て、目を細める。こんなに日の高い時間に帰れているというのに、なにも行動を起こせない。心が疲弊している。なにもかもが億劫になる。

「絵を眺めるって、どんなサイト見てるの? あんまりイメージできないんだけど」
「最近見てるのは、楽器屋のサイトかな」
「へえ」
「大きい楽器屋のサイトだとさ、ギターの写真を一本一本アップしてるんだよ。中古フェアとかもけっこうやってるし」
「興味あるの?」
「うん、やっぱ、レスポールいいなあと思うよ。同じスタンダードでも、ものによって全然雰囲気が違うんだよ」
「ああ、木目の縞模様は、ばらつきがありそうだね」
「そうなんだよ。本当にいいなって思えるのは、案外少なくてね。まあ、あれは天然の木材だから、なかなかイメージ通りのものには出会えないよね。でも見てるだけで楽しいよ」
「はは、欲しくなっちゃうんじゃない。それにきっと、写真と現物じゃ違うよ」
「ちゃんと楽器屋で確認するけどね」
ん……?
「買うの? 高いんでしょ」
「いや、買わないよ」
「だったら」
二人で、はは、と笑う。
「フェンダーのストラトとかテレキャスもけっこうあったよ」
「今度、俺も見てみるよ」

そんなことを話しているうちに、ぱっと視界が開ける。高台に出た。
音楽好きに悪いやつはいない――。
頭上の木の葉が揺れる。生温い風に吹かれながら、トシはそう思った。

ここで彼らは重要な話をしている!
このときならまだ、手遅れにならなかったかもしれない……。

◇ ◇ ◇
「さすがにもう、こんなことはできねえな」
現在のフロアに移動する直前の週、これが最後の居眠りだというふうに、たつおは目覚めの伸びをして、そう言った。「他の部署の目もあるからな」

それは居眠りにだけに限らない。そのころ怪鳥が不在のときの業推は、怪鳥とは別のやり方で、やりたい放題であった。業推にあてがわれた会議室は、まるで学級崩壊した中学校の教室。三人は、ゲラゲラと大声で馬鹿話をし、机の上でうまい棒を食い散らかし、箒を振り回して野球をしたりもした。

たつおは、習慣化してしまったこれらの行いに、危機感を抱いているようだった。状況把握はできている。果たして彼は改心するのだろうか。業推は、優等生クラスに生まれ変われるのだろうか。

結果は八月の今日、すでにある。
朝礼が終わってすぐ、トシは怪鳥と二人っきりになってしまったため、堪らず席を立った。残りの二人は何をしているのだろう。

給湯室から、品のないバカ笑いがする。戸が閉まっていても、すぐに分かった。おいおい、これじゃあ用のある女子社員も、引いて入れないんじゃないか。

業推のメンバーは、他の部署の人間から見れば、怪鳥も誰も大差ない。存在が迷惑でしかない。トシが引き戸を開け、そこに加わる。そこでまた笑いが起こる。「全員集合じゃん」とのぞみ。これにはトシも笑わざるを得ない。

給湯室は、人がすれ違うのも一苦労なほど狭い。そこに、大の大人が三人。
バカ笑いの余熱が冷めやらないのか、たつおの顔が赤い。この男は本気で笑うと、顔を真っ赤にする。

トシの登場により会話が切れたようで、たつおに向き直ったのぞみが、別の話題を振る。「ところで、怪鳥ってコネなんですか」
驚いた。こいつら、こんなぶっちゃけトークをしてるのか。
「ああ、コネだよ」たつおはあっさり答えた。
「マジっすか」
「ええ、そうなんですか」トシも思わず、声を出す。
「だって、あの人の親父さん、大手取引先の役員だったんだぜ。完全にコネだよ」
そのまんまだな……。

朝っぱらから狭苦しい給湯室で、ギャハハと大声を出す三人。
扉のガラス部分に、女子社員の顔が見えた。扉側にいたトシが顔を向けると、女子社員は目を逸らして逃げていった。
俺たちっていったいなに?

始業の30分後、ようやく業推のシマに四人が揃う。のぞみとたつおに、先ほどの馴れ合いの気配は残っていない。空気が張り詰める。

怪鳥が、重そうな頭をぶんぶん振った。のぞみの表情は渋い。おそらく怪鳥とのあの距離では、意志を持った巨大なハンマーが、真横で荒れ狂っているかのような威圧感を感じているはずだ。たつおは目力を込め、ワンダの朝専用缶コーヒーのプルタブを引いた。おまえはそれをもって、何を頑張る?

四人が火花を散らす。フルメンバーは迫力が違う。
個々の卓越したテクニック。それぞれの想い。譲れないものがある。四人の技巧が、魂が、この空間に「仕事している体」を、大河の奔流のごとく織りなしてゆく。その様、まさに圧巻。

ガタっ。席を立つ音。あの男だ。怪鳥が、動いた。その手には手帳がある。
たつおの後ろを通る瞬間、「打ち合わせいってきまーす」と怪鳥がぼそりと言った。
「はーい」たつおが背を向けたまま答える。

怪鳥の後ろ姿を見送るトシ。
軸が、ぶれている。身体のバランスが悪い。ひろしは上体をぐらぐらさせながら、ドスドスと音を立てて遠のいていった。

その後、浮き輪から空気を抜いたように、ここにあった緊張が緩まっていくのが分かる。
「何の打ち合わせなんですか」のぞみが訊く。
「知らね」
「今、知ってる感じだったじゃないですか」
てへっとたつおは、悪ガキの顔をした。
「相変わらず、すごいコミュニケーション能力ですよね」トシも話に割って入る。「なんで朝礼でそういう話をしないんでしょうね。今さらいいですけど」できないんで、と言外に言う。

与太話はするが、本当に必要なことは話さない。給与明細や年末調整の書類など、配るべきものがあるときは、皆が帰ったあとで、机の引き出しにそっと入れておく。おまえは妖精か! 
 
おそらく怪鳥は、部長職が参加する、定例会に出かけたのだと思う。終了時刻は不明だが、三十分は戻ってこないだろう。

さっそくトシの前で、向かい合わせになっている二人が、身を乗り出してくっちゃべりはじめた。フロアは静まり返っている。なかでも、業推と最も近い経理の人間は、個々に黙々と作業をこなすため、まったく会話がない。

業推がなにかを話しているのは分かる。だが会話の内容までは聞き取れない。そんなボリュームで、二人は話す。あくまで最初だけ。

暇は潰せるうちに潰しておけ。これは業推の鉄則である。
トシも思い切って、前の二人に加わることにした。
「課長! 俺の机をこう向けましょうよ」たつおの横に並んで、空気椅子の恰好をする。
「不自然だろ」
「向かいにもう一個机を置いたら、バランスがとれますけどね」
向こう側で、のぞむが吹き出す。
「そんなもん置いてどうすんだよ」さらにたつお。
「新しい人が入ってくるかもしれないじゃないですか」
「入ってくるわけねーだろ」
顔を赤らめたたつおが、フロアの端まで届くボリュームで突っ込む。ボケれば乗ってくれる、陽気なおっさんだ。
「このノーガード席、もう嫌なんですよー」

怪鳥がまだ戻ってこない。今日は打ち合わせが長引いているようで、一時間が過ぎた。
それは何を意味するのか――?

トシ、のぞみ、たつおの三人は、飲みはじめてから一時間経過した状態に等しい。業推の一角は居酒屋と化す。
「なに、トシ、女いねえの? おめえ、情けねえなあ。とりあえず風俗行って鍛えてこいよ。いい店教えてやろうか」冗談とは思えない調子で、たつおが言う。
「俺、そういうのダメなんですって」ひとりでそんなとこに行ける甲斐性があったら、とっくに彼女いるって。
「しょうがねえな。のぞみ、連れてってやれよ」
「俺はそういうの分からないっスね。ずっと彼女いますもん」
「お、いくつ?」
「35。年上です」
「35なあ……。俺は40過ぎてないと駄目だな」
「僕は20代、できれば前半が……」小声になる。赤い服のあの子が脳裏をかすめていた。
「はあ」「けっ」
同時かよ。「あれ、若い子、だめですか?」
「二十代なんてガキじゃねえか」「つまらないって」
あんたらが、熟女好きなだけでしょ!

二人に結束されてしまったトシは、音楽の話に話題を変えようとした。
が、たつおは、「兄貴が洋楽好きだったんだけどなあ……。俺はよく分かんねえや」と興味がなさそうだった。
音楽好きが集まるこの会社で、そうはっきり言う人は珍しい。
「課長はなんでこの会社入ったんですか」
「そんなの楽だからだよ。俺ずっと営業やってたんだけどさあ、だるくなったら、14時で上がって、スポーツジム行ったりして。まあ、なんでもありだよ」
のぞみが食いつく。「給料泥棒じゃないですか!」
「俺に給料渡す会社が悪い」
悪い顔。開き直りやがった。たつおの裏の顔が全開だ。

その後、脈絡なく、話はふたたび熟女に戻る。
熟女の復元力は思いのほか強いようで、トシはまた弾き出される。

しかし――、たつおは元々そういう人だとして、のぞみは、こんなあからさまな下ネタを振りまく男ではなかったはずだが。
彼は、暇を潰すため、この頃どんどんエロに寄っていく傾向がある。
(ひかるたん……)トシにも覚えがある。たしかに妄想は、暇つぶしと相性がいいのかもしれない。
「ちょっと崩れた感じがたまんないんスよ」
けどなあ……、いいのか、のぞみ。
怪鳥の率いる業推は、人間性まで変えてしまうんだな。恐るべし。
 
二人の語り口は、熱い。二人の口から飛び出す女優の名前が、トシにはまるで分からない。
現在、時刻は、10時を回ったところ。
午後ではない、午前である。ボリュームは全開だ。

ディープな女の話についていけず、切なくなったトシは、「……やっぱり、風俗とか行かなきゃだめかなあ」と洩らした。
「おまえは、まじめか!」のぞみが言う。「考えすぎなんだって。女なんて『ヤらせてよ』くらいのノリでパーンといけばいいんだって」冗談っぽくだよ、冗談っぽく、と加える。
「こいつ、真面目な顔で言いそうだな、ぎゃっはっは」とたつお。
ヤらせてよ。軽いノリで言う自分が想像できない。

――つーか、ここひでえ。
会議室にいた頃より、ますますひどくなっている。他の部署の人間はどう思っているのだろう。
そのとき、遠くから、パチパチと音が聞こえてくる。音は次第に大きくなる。
パチパチパチパチ。
指ぱっちんだ。怪鳥が戻ってくる。こいつ、首輪に鈴をつけた猫みたいだな。

コの字のレイアウトから少しはみだした位置にいるトシは、自然と怪鳥の見張り役を務めるようになっていた。サインも決めてある。指で机を、「タタタ、タタタ」と三連譜のリズムで叩く。もっとも、「タタタタ」でも「タンタン」でも、何かしら叩けば事足りるのだと後で気づいた。

トシは、おしゃべりに夢中で、怪鳥の接近に気づかない二人のために、机を鳴らした。
タタタっ。

【作者コメント】
こいつらひどすぎる……。ぜったいにバンドをやる気がないと思います。

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