人間失格、雪山に行く(「人間ルール」に殺される……)
意味がわからないと思うが、大学1年生のわたしは、上着を着ないで雪山へ行った。
どうなるかわかるだろうか? 死ぬ。
ふつう人間は、上着を着ないで雪山へ行かない。逆にどうしてそのようなことが起きてしまったのか。このミステリーに挑みたいと思う。
人間失格、田舎の呪い、心の弱い人間を食い物にする悪党。このあたりが謎を解くキーワードのような気がしている。
当時のわたしは人間というものがよくわからなかった。太宰治の「人間失格」に出てくる主人公のようなものだ。
人間は、未知のものを恐れる生き物だ。人間のわからないわたしは人間を恐れた。
世の中には何か自分の知らないルールがあり、そのルールに従わなければ、社会から処罰されるくらいに思っていた。
ルールを知っているだろう他人は常に強者。わたしは常に弱者、裁かれる側だった。
この考えは非常に危険だ。当たり前だが、「人間ルール」なんてものは存在しない。
だが、人間ルールを振りかざす人間はいる。一方的に自分の考えを押し付け、他人をコントロールしようとする。
その手口はこう。自分に都合のいいルールを、「そんなことはみんな知っている」「知らないのはおまえだけだ」などと大げさに言い、人間ルールに格上げする。
◇ ◇ ◇
大学の同級生の「しゃくれ」がまさにそうだった。こういう人間は、わたしのような心の弱い人間を狙う。
しゃくれは、不可解な持論を繰り広げた。彼の人間ルールに、わたしの言動はますます制限された。
しゃくれの人間ルールには衣服も含まれ、当時、わたしが着服可能な衣服は、数着にまで限定されていた。
だが、まだ上着を着ないで雪山へ行くまでは距離がある。上着を着ないで雪山へ行くと死ぬからだ。
いくらマインドコントロールされようが、その理屈がわからない人間はいない。もう一段の呪いを必要とする。
呪いの話をする前に、ここで言う雪山とは何かという話をしたい。
◇ ◇ ◇
大学の同級生たちからスキー合宿に誘われたのだ。
関西からバスで長野県の雪山へ行く。行きのバスの中で1泊、雪山の簡易な宿で1泊、帰りのバスの中で1泊。1泊3日ということになるのだろうか、なかなかハードな旅だ。
中心人物たちは慣れていて、完全にイメージができている。スキー未経験のわたしはまったくイメージができていない。
そういう不利な状況ではあった。だが問題は、わたし以外にも未経験者がいたことだ。彼らはしっかりと防寒にふさわしい格好をしている。
気候の温暖な九州出身の人間がコートを着ているのに、北陸のわたしがコートを着ていない。この矛盾を解く鍵が田舎の呪いだ。
信じられないかもしれないが、寒い地域の田舎の中高生は、コートを着ていると、生意気だと言っていじめられるのだ(わたしは衣替えの日に長ズボンを履いただけで石を投げられた)。
すべての地域がそうだとは言わないが、某バラエティ番組で、東北の中高生がコートを着ない件がおもしろおかしく特集されていたのを見て、少なくとも、この田舎の風習は点在していることが確認できた。
彼らはコートを「着ない」のではなくて、「着れない」。
「上着を着ないで雪山へ行く」は、この田舎の呪いを土台として、そこにしゃくれの人間ルールが乗っかり、わたしが人間失格だったために、自分の生存まで他人や社会に委ねてしまったことで発生した。
◇ ◇ ◇
行きのバスの中でわたしは凍死しかけた。雪山に到着後、発熱で寝込むことになる。そして帰りのバスの中で、このまま行けば、わたしは死ぬはずだった。
バスで隣の席だったしゃくれは「寒いから、おまえが窓側に行ってくれ」と要求した。
死を確信したわたしは「それなら、スキーウェアで防寒したい」と言った(今の感覚でもそんなに違和感はない。雪山からの帰りのバスなのだから)。
そのとき、奇跡が起きた。
わたしの発言は、しゃくれの人間ルールに引っかかる。わたしを不利な立場に置くはずの人間ルールにバグが起きた。
なぜか、しゃくれの人間ルールにあまりに強烈に引っかかってしまったようで、「一緒にいるのが恥ずかしいから、それならこの位置でいい」としゃくれが譲歩した。
わたしはなんとか雪山から生還することができた。
雪山の件は、いろいろな解釈ができると思うが、わたしを殺しかけたのは、わたし自身であり、わたしが見た「人間」や「社会」という幻想だ。
アホだったとは思うけれど、人間や社会という幻想に殺されるのが人間という生き物だから、今のわたしから見ても何とも言えない。
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