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魔法少女はメタルを聴く 第7話「自分があってのことなんだよ」

――デイブ・ムステインを思う。
メタリカの元ギタリスト、旅の途中でメタ「リカ」から放逐された彼を。
わたしの足元を支えてくれていたはずの大地は、一瞬のうちに消えてしまった。……こんな、気持ちだったのだろうか。

わたしは走った。のどの渇きも忘れて走った。
おぎわらさん、おぎわらさん――。
もう頼れる人は彼女しかいない。

黒い感情が、渦を巻く。わたしはこんなもののために、三年半もの時間をついやしてきたわけ? 友人づきあいも、恋愛もサークル活動も、就職のための準備だって押しやって、たいして好きでもない音楽を聴きつづけて――。

息を切らし、それがようやく落ち着いたと思っても、電車のなか、まだわたしの心は駆けていて、気持ちはいっこうに収まらない。
自暴自棄の気分だった。しかしわたしは、非行にひた走る十代のように、夜の街で遊びふける方法も知らなければ、お酒だってたいして飲めない。できることといえば、せいぜい、憎き対象から距離を置くくらい。

もうこんな音楽聴くものか。
把握できないほどの音源を蓄えたウォークマンのなかに、昔好きだった流行りの音楽を探してみる。アルバムがひとつだけ残っていた。高校のころいつも聴いていたアルバムで、魔法少女研究会に入ったあとも、思い切れずに残しておいたのだ。
が、再生して愕然とする。
これ、耳が受けつけない! 再生した懐かしい音楽は、あの当時とは違う曲になっていた。音も軟弱なら、ボーカルの声が甘すぎて鳥肌が立つ。どういうこと!

待てよと曲をスキップさせ、またスキップさせる。アップテンポな曲も、当時はやかましいと思っていた曲も、まったく違ったものになっていた。
変わったのは……、わたしだ。
メタルの音が標準になってしまっている。次元がいくつかずれてしまった。つまり、みんなにとってのポップスはわたしにとってのポップスではなく、それよりもずっと激しいハードロックでなければならないのだ。

どうしよう? どうしよう? わたしの味方は、もう、おぎわらさんしかいなかった。
――そんなにいいもんじゃないよ。
今になってわかる彼女の言葉の意味。誠実さ。
天を向いたベリーショートの髪。細身の身体に似合うタイトなシャツ。鋲のついたリストバンド。決してパンクのスタイルを崩さない信念の人。おぎわらさん……。

そこはまさしく駆け込み寺。
駅から、わたしはふたたび走った。おぎわらさんの店を目がけて通りを走り、その十メートル手前で、なかに彼女の姿を見つけたとき、緊張の一部が溶けて、涙があふれそうになった。よかった。彼女がいてくれてよかった。彼女もわたしの姿を認め、並々ならぬ様子を感じ取ったようだった。
そんなわたしの第一声。
「わたし、どうするべきでしょうか」
わたしの正面に立った彼女はタバコを持つ手をとめ、無言でそれを受け止める。
「わからないんです。魔法のことも進路のことも、ぜんぶわからなくなって」
動じずにわたしを見つめるおぎわらさん。その様子は、無言のメッセージを発しているようだった。それからややあって、実際に彼女が発した言葉は、「まあ、買っておいでよ」だった。
わたしの手に何かを置く。金属と金属が当たる音がした。百二十円……。

店の近くの自動販売機でコーラを買った。よほどのどが渇いていたのか、その場で一気に半分ほど飲み干す。それから缶を持って、来たときよりはずっとゆっくりした足取りで、おぎわらさんの待つ衣服店に戻った。
缶の残りを少しずつ口に含みながら、今日の出来事を洗いざらい話した。何度か、げふっと言った。駆け込んだ当初とくらべれば、気持ちはだいぶ安定している。
「まず、耳の話な」
おぎわらさんがようやく話しはじめる。「それだけ長いあいだメタルばかり聴いてたら、そりゃ耳もそういうふうに慣れてくる。ちなみにわたしも軽い音楽は無理だ。これは昔からの嗜好だから、あんたとはまた違うけどな」
うなずくわたしに続けて言う。「あんたの場合、以前に戻れないってわけじゃなくて、なんだ、そのよくわからん音楽を聴きていれば、そのうちに耳は元に戻るだろう」
たしかにそうだ。言われてみればもっともな話で、いかに自分が冷静さを欠いていたか分かる。
「けど、いいのか?」
「いいのか、というのは……」きょとんとした。
「せっかくここまできたのにだよ。あんた、魔法少女になれるんだろ」「で、でも」
「耳は時間をかければ戻る。断言できる。けど、魔法少女の力は確実に失われる。ちょっとやそっとじゃ戻らない」
わたしは、頭をぶんぶんさせる。強く左右にふった。肯定の意味でも否定の意味でもなく、ただ、わからなかったのだ。
それに、とおぎわらさんは言う。「いまはメタルが嫌いなわけじゃないんだろ」
今度は、はい、の意味で首を動かした。でも直後に認めたくない気持ちが湧いてきて、また大きく頭をふった。「分からないんです、ぜんぶ。こんな魔法なんていりません。ただ、ただ、わたしのキャンパスライフを返してほしいんです。こんなだってわかっていたら、魔法少女になろうなんて思わなかった」
バカだ。今さらこんなことを言ってもどうしようもないのに。だけど止まらない。「わたしはだまされた! こんな力が何になるっていうの!」
自分の言葉に反応して、また涙がでてきた。

対するおぎわらさんは冷静だった。慰めるでも、いっしょに怒ってくれるでもない。その理由は彼女の口からすぐ告げられる。
「……なんとなく分かってたんだよ、こういう日がくることを」
わたしが彼女を見つめると、そこには、澄んだ彼女の瞳があった。「自分の意志で魔法少女を目指しているあんたを、部外者のわたしが止めることはできなかった。それに、その力が役に立たないとは言えないんだ。あんたも知ってるはずだ」
「え」
「だろ?」
そうだ!
「ディーパさん……」ぽつりと言葉が滴った。
「あいつに会ってみろよ」
水泳の金メダリスト。そう、彼女の力はたしかに本物だ。「でも」
「あんたの話はしてあるんだ」そう話す彼女の口調には淀みがない。「わたしにできるのはそれくらいだからな」
おぎわらさん……。

彼女はレジの横のメモ用紙を一枚ちぎり、そばのボールペンで文字を書きつけた。そしてわたしに手渡す。「OB訪問だって言えよ」
携帯の番号だった。こういう、雑だけど、親友の番号をそらで覚えているようなところは、とても彼女らしかった。
「とりあえずあいつに会ってみろ。どうするにしても、それからだって遅くないだろ」
「はい」
わたしは涙をぬぐった。そうだ、まだ遅くはない。
すぐお礼を言って店を出た。
――ありがとう、おぎわらさん。ほんとうに。

わたしとレイの関係と同じく、おぎわらさんのかつてのパートナーで、今は競泳選手として活躍する、その実、魔法少女のディーパさん。

彼女こそが、わたしに残された最後の道標――。

○  ○  ○

これが最初で最後かもしれない。いや、きっと最後だろう。この先こんなに好きな人が現われるなんてこと、ちょっと想像できない。
わたしの恋の話は、現在進行形だ。
現在地はオフィス。わたしの席から見える、空の一部を映した窓ガラス――知的水晶体にそっと話しかける。「最近かまってあげられなくてごめんね」
彼はご機嫌斜めなのか、空の暗雲を反映させ、濁った色をする。目を離し、視線の先を移した。

職場の様子をよく観察すると、わたしと同じ派遣社員のさち子は、立っていても座っていても目立たない存在なのだが、ハルキとたしかに接触していた。それも、動き出すまでに何度かそわそわして、タイミングを見計らって話しかけにいく。
平均して、1日に3回くらいだろうか。それはいかにも露骨な態度だった。これまで気がつかなかったのが不思議なくらいの。

しかし、ただ指をくわえて見ているわけにはいかない。こちらも話しかけるきっかけを作らなければ。わたしは考えるが――、
やばい! ぜんぜん思いつかない。その類のノウハウは、わたしのなかに一切ない。
彼女はよく臆面もなく行動に移せるな……。同じ目線に立つと、いかにすごいことか分かる。体面を気にしたり、プライドが邪魔したりはしないのだろうか。
「はるきくん」課長が呼ぶ。「いま忙しい?」
「いえ、だいじょうぶです」
ハルキが素早く立ちあがり、あとにさち子が残される。
集まったいくつかの視線。さちこのまわりに気まずい空間が出来上がる。彼女は恥ずかしそうに、自分の席に引き上げていった。ほら、言わんこっちゃない。
けど彼女は、性懲りもなく繰り返すんだろうな……。
強い。
わたしにはないものを持っている。
しかし、彼女はそもそもライバルなのだろうか? 顔も服装も、とても地味で、性格だっておとなしく、ただぼんやりとして見える。
傍目からは、ハルキに相手にされていないようにも見えるし、それどころか、彼は内心、迷惑しているかもしれない。
それでも油断はできない。
わたしはこの子に負けたくない。

そうして背中を押す気持ちがある一方で、コンプレックスゆえに育ち、大きく肥大化したプライドが邪魔をする。身体の数センチ先に、窮屈な檻が張り巡らされているようた。わたしはまったく動けない。悲しいことに、あのリカさんの不吉な予言(というか、体験談?)は当たっていたわけだ。
けれども、さち子のように下出にでるのも、それはそれで違うと思うのだ。きっと、軽い女に見られてしまう。ただでさえわたしはクールなキャラを確立してしまっている。
つまりだ。
――わたしにはわたしのやり方がある。
まずはあいさつ程度のちょっとした会話から。それでいい。チャンスは絶対にあるから。

そのときパソコンのモニターに、メールの受信を告げるポップアップが出た。また山内か? 露骨に顔をしかめてしまう。けど差出人を見ると、なんと、「Haruki」の文字が見えた。どきりとする。え? え?
……よく見れば、わたしに宛てたものではない。
わたしは「CC」。すなわち、ご参考までに、という位置づけだ。CCにはここの課と、仕事に関連する他の社員のアドレスが、ずらりと並んでいた。ああ、このまえ幹事からきた懇親会の件の返事か。
みんながよくやるように、彼は関係者全員に返信をしたのだ。「出席します」とある。これは……、
参加するしかないよね。キーボードを叩く。

○  ○  ○

その日の夕方、ディーパさんの番号におそるおそる電話をかけて、つながらなくて夜にかけ直して、またつながらなくて、あきらめて切ろうとしたときのこと。
「……はい」
ようやく出てくれたはいいが、彼女の口調は予想外に事務的だった。
わたしはぎこちなくも用件を告げる。けっきょく彼女と会う約束をとりつけられたのは、電話の翌々週だった。
それはそうか……。彼女は、有名人という以前に、会社員であり、同時にプロのアスリートでもある。そう簡単に時間をとれるわけがない。おぎわらさんのツテがあったからこそ、こうして都合をつけて面会してくれるのだ。

面会までの期間はとても変な感じがした。魔法少女の真相の衝撃はいまだ鳴り止まず、ディーパさんと会うことを思って緊張もして。
さらに、ヒステリックに笑いながら去ったリカさん、魔法少女になれば接触がさけられないだろう元凶のロウィン、今後のこと……、いろいろなものが頭で渦を巻いた。
そして指定された日時、わたしは、都内の競泳用プールのある建物の、二階のスタンドにいた。

床にがっちり固定されたプラスチックの椅子が、階段状に並んでいて、降りていった端は、一面がガラス張りになっている。ガラスの際に立って眺めると、テレビ中継で見るような競泳の画が展開されていて、練習にもかかわらず、緊迫感が伝わってきた。
どれがディーパさん? おっと、水島選手だろう。

本来なら関係者以外立ち入ることはできないが、OB訪問ということで、特別に許可をもらっている。わたしは忠実に設定にしたがい、リクルートスーツを着用してきた。よって、ここでたいへん浮いている。むこうはわたしを見つけやすいだろう。

もう少し待たされるかと思っていたところ、ほぼ時間どおりのタイミングで、スタンドの上の扉が開いた。ガラス際――すなわち観覧席のもっとも底の部分にいるわたしは、そちらを振り仰ぐ形になる。

彼女は、競泳水着のうえに一枚上着をはおり、タオルで髪をふきながらの登場だった。
写真や映像で見たとおりの印象ではない。だが彼女が水島選手なのだろう。彼女の視線の方向は真っ直ぐこちらを向いていた。
競泳選手らしく、身体つきががっちりしている。精悍な顔つきは、これまでに会った魔法少女研究会のだれとも違っていて……、また、フレンドリーには思えなかった。
ほんとうに彼女は味方になってくれるのだろうか――。
不安な気持ちになる。ついでにいえば、特に天然パーマというわけではないようだった。

わたしは頭をさげた。「はじめまして、佐々木ほのかでふ」
かんだ。「……すいません」
最上段からじろりとわたしを見て、彼女はこう切り出した。「あなた、最強の魔法少女なんですって」
「えっ」そんな情報が伝わってるの!
「にしちゃ、弱そうだね」
なんだか急いでる感じがする。それに挑発的だ。
「で、なんの用」
「え、あの、おぎわらさんから聞いてませんか」
「あなたは晴れて魔法少女になれた。それで、わたしに質問があるんでしょ」
「ええ、はい」
想像していた展開とずいぶん違う。彼女は、ここで余計なことを言えば、「そんな時間はないから」と、すぐにでも立ち去ってしまいそうな勢いだった。「わたし悩んでるんです」とは、とても言えそうにない。
端的に質問をしなくては。
「み、水島さんは」一瞬、先輩と呼ぼうかためらい、さん付けにした。「その、魔法少女ということでよろしいんでしょうか」
「そうだよ」
焦って、しょうもない質問をしてしまった。わかってるから来ているのに。「水島さんの魔法というのは」
「あなたなら、もう想像がついてるでしょ?」
一瞬迷ったが、「はい」と素直に答えた。
リカさんから秘密を打ち明けられたその日のうちに分かった。「……スピードキング。ディープ・パープルの曲ですよね」
「正解」
彼女の柱は、四大ブリティッシュ・ハードロックバンドのひとつ、ディープ・パープル。アメリカの広大なハイウェイをかっ飛ばすような疾走感あふれる楽曲が、伝説のギタリスト、リッチー・ブラックモアの独創的なギターとジョン・ロードの迫力あるオルガンサウンドに乗って、熱く、演奏される。コードネームは、だから略して、ディーパ。けっしてディープなパーマのことではない。

「魔法のことは、最初から知っていたんですか」
「いいえ」
「あの……」
先回りして彼女が答える。「わたしたち七期生のシステムは、あなたたちと変わらないはずよ」
そうじゃなくて――、
「魔法の秘密を知らされたとき、ショックじゃありませんでしたか」
「なんで」
なんでって……。わたしは二の句が継げない。
「わたしははじめからこの力を欲していた。そして手に入れた力に感謝している」
「けど、たった、たった0.01パーセントですよ」
「たった? わたしのいる世界では、コンマゼロ一秒がものを言うのよ」
「あっ」はっとした。トップアスリートの世界ではそうかもしれない。競泳の世界タイムは今ここでわからないが、0.01パーセントは、まさに頂点を左右する数値になるのでは。
「あなた、なにが不満なわけ」
気圧される。言葉が出てこない。その台詞の最後に彼女は、「――最強の魔法少女さん」とつけ足した。皮肉混じりの言い方は、わたしのことを敵視するかのようだった。
「わたしの魔法少女としての実力は、下位のほう」彼女は言う。「リカよりも下。ましてや、あなたの足元にも及ばないでしょうね」
「そんな……」
「いい? 世の中はそんなに甘くない。叶えたい夢があるとする。起こしたい奇跡があるとする。なら、99.9パーセントは自分の力でたどり着かなければならない。努力するしかない。それがなんであれ、トップレベルの世界にまで達するのは、あくまで自分の力なのよ」
「…………」
けど、トップレベルだなんて、そんなの、才能や環境に恵まれたほんのひと握りの人の話でしょ。そう思いはするが、言葉に出せない。
「あなたがその場所にいないからって、だれを恨むこともできない」
だけど……。
「いい? 先輩として言わせてもらうなら、魔法なんてもの、まず自分があってのことなんだよ?」
なにを……。
わたしは、本当は言うつもりのなかった、いじわるな質問をする。「あの、魔法を使って金メダルをとるって、それってどうなんですか」表情もすこし嫌な歪み方をしたかもしれない。
けれど彼女は、まったく臆するところがなかった。
「どうって? なにが? わたしは喜んで魔法を使う。だって、これはわたしの能力だもの。努力して勝ち得たものなんだから、引け目を感じる必要なんてない」
彼女は純粋に、前だけを見据えていた。
そして次に気になるひとことを言った。「これが魔法であろうが、暗示であろうが、わたしには関係ない。0.01秒でも速く泳ぎたい。ただそれだけ」
え――、
「練習があるんだけど、他に質問はある?」
もう時間? 慌てて口を動かす。「魔法について、もっと何か知りませんか? ロウィンについてでもいいです」
「知らない。他には」
そう言い切られてしまうと、「……いえ」と答えるほかなかった。
「じゃあね」
彼女は別れ際もあっさりしていた。義理は果たしたと、そう言っているようだった。
扉をくぐる寸前に一度だけふりむく。「おぎわらによろしく」
扉が、空気の圧で一瞬停止して、それからゆっくりと閉じる。わたしは立ち尽くしていた。
なに? この魔法を役立てるには、つまり、誰にも負けないような、それこそライバルと寸差くらいの何かが必要だってこと。――となると、
わたしには何もない。

帰りの電車のなかで、茫然と座席にもたれていた。空虚がわたしを支配してゆくのがわかる。
……わたしには何もない。もはや終わりかけのキャンパスライフから、ディーパさんの言葉を解釈したところの、「微弱な補助魔法」を除けば、なにも残らない。

ただ魔法少女になることを目的とし、その魔法が補助すべき、中核になるものを見つけられなかったことは、わたしの責任でもある。
けど、けど、それは魔法少女研究会のせいでもあるでしょ。
魔法少女になるための、漠然とした、しかも終わりの見えない修行のために、その他いっさいの活動を犠牲にしてきたのだ。
やり場のない怒りがこみ上げる。
向かいの席に座る、楽しそうな女子大生二人組――明るい髪のツインテールと、長い黒髪――に思わず絡みそうになる。わたしのキャンパスライフっていったいなんだったの? 教えてよ。ねえ、いますぐわたしに教えてよ。でないと、わたしどうかなっちゃうよ。
彼女、ディーパさんは、大学入学以前に、インターハイでの優勝経験だってある。もともとが水泳の素質に恵まれた彼女の言い方は、ちょっと傲慢だと思う。

○  ○  ○

ようやく残暑がおさまりつつある。カレンダーは十月のものになっていた。お昼休み。わたしの好きなビル街の一角では、木漏れ日がスポットライトのようにあたりをぱらぱら照らしている。頭上には鮮やかな青空が広がって、とても爽やかだ。
気候もよく、屋内に籠もっているのはもったいない。
わたしはお昼のお弁当を食べるために、この通路と公園を兼ねたような場所に、ひさびさに出てきたのだ。
ベンチがいくつか固まったスペースの、いちばん手前のベンチに座った。

このごろ、いろいろなものがよく見える気がする。
たとえば、いまの場所。後方にはジャングルジムのような、緑色をした骨組みが覆いかぶさっているのだが、それはただの意匠ではなく、イベントごとがあるときの照明用の構造物でもあると気づいた。見れば、ライトがいくつも付いている。
昼間は目立たないこの場所が、夕暮れどき、ちょっとしたイベントステージに早変わりするさまが想像できた。ふむ、機能的。
なにかいいことがありそう――そう思っていた矢先だった。

そこに待っていた絶好のチャンスが訪れる。なぜもっと早く思いつかなかった? わたしは以前この場所で、ハルキが通りすぎるのを見たではないか。まだ彼が背景だったころの記憶。
ともかく現在、通路の左端に、ハルキがこの場所に向かって歩いてくるのが見えた。彼もひとりだ。

この通路兼公園はそれなりに人の往来があり、このままでは、やや凹になっているわたしの場所を通りすぎて、気づかないまま、向こうの端に消えてしまいそうだった。
躊躇してる暇はない。話しかけよう。
「あれ?」
たまたまいま気づいて声を上げてしまいましたよ、の声をだす。
自然なボリューム。絶妙のタイミング。これがドラマの撮影なら、一発OKだろう。やればできるものだ。 

通路のわたし側を歩いていたことも幸いしたようで、立ち止まって、「あ、佐々木さん」とこちらを見た。彼の目に、お弁当を膝に置き、ベンチに腰かけているわたしが映る。そのわたしに近づいてきてくれた。「こんなところで会うなんてめずらしいですね」
「はい。あまりにいいお天気なので」
「たしかに」
そう言って、彼は空を見上げる。

その、空を見上げているハルキを、わたしは見上げる。
これ、けっこういい感じじゃないの? こうして話しかけてくれるなんて、むこうも好感――とまではいかなくても、悪くは思っていないよね。
あせるな、わたし。とにかく会話を続けよう。
「ハルキさんは、よくこのへんにくるんですか」
「まあ、そうですね」彼の表情はなごやかだ。いいぞ、その調子。
「あそこには、なにがあるんでしょう?」
通路の端のほうに入り口が見える、楕円形のトンネルに顔をむけながら言った。(――よし、上品な感じで言えた)
小さく、ふふ、と笑って彼は答える。「湿度計とかありますよ」
「湿度計?」そんな科学的なものが! 遠い日の理科の授業を思い出す。「行ってみないとわからないですよね」
「ですね」
チャンス! わたしは、お弁当を横に置いて立ち上がった。真剣な顔つきだったと思う。その様子を見てハルキは、「いえ、それほどの話じゃないんです」
急に態度があらたまった。しかも!
「すいません、ぼくなんかが偉そうに……」
目を逸らし、軽く頭をさげる。そして次の瞬間には足早に立ち去っていった。ひとりとり残されるわたし。
立ったまま、茫然と彼のうしろ姿を見送った。「なんで……。わたしはただ、あなたと仲良くしたいだけなのに」

そのときだ。ぱっと脳裏に、親睦会のワンシーンが展開した。ハルキと、あのベンガル語の女子社員――ヘヴィメタおたくの山内が、馴れ馴れしく「さやかちゃーん」と呼んでいたから、さやかという名前のだろう――の会話。

――ハルキさんは、つき合ってる人とかいないんですか。
残念ながら。
ええ! ホントですかあ。ちゃっかりいそうですけどね。
いやあ、ぼくは背が低いですから。
え、そうですかねえ。
恥ずかしい話ですけど、実は、けっこう怖いんですよ。背の高い人って。男の人も女の人も――。

そうだ! ハルキは背丈を気にしているのだ。別にぜんぜん気にならないのに……。だって、わたしと変わらないくらいでしょ。それに彼のほうが少し高かったと思う。
と、そのとき、自分の足元に目が行った。
ミステイク!
わたしがその後ハイヒールをやめたのは言うまでもない。

なお、ハルキの立ち去った先を、日をあらためて確認しにいった。そこは深海のトンネルのような形をした連絡通路で、しばらく歩いて、わたしは拍子抜けしてしまう。その先は、なんと、駅の構内につながっていた。反対側の改札口だ。
わたしの馬鹿! なにがあるんでしょう、じゃないだろう。もっと外界に興味を持て! ベンチの場所からほんの少し足を伸ばせば分かったことじゃないか。
その深海のトンネルは、天井から小さな電光掲示板がぶら下がっていて、そこには、気温、湿度、騒音のデシベル数が表示されていた。「湿度計とかありますよ」は、わたしの天然に対する、ハルキ流の受け答えだったのだ。
わたしの愛しい人はウィットに富んでいる。

……また、新たなうわさが立っていた。いつものように、女性社員Aと女子社員Bのうわさ話。彼女たちは、地球最後の日でもそうしているのだろう。わたしはわたしで、トイレでぼーっとしていたのだから、他人のことは言えない。
して、その内容は、わたしの貴重な記憶スペースを提供することすら馬鹿らしくなるものだった。わたしが、ふたりの女性からストーカーされているというのだ。
うわさって、いったいどうなってるの?
その、「ふたりの」の組み合わせもまた奇妙で、未成年の美少女と、若くはない年齢不詳の女なのだとか。

まったく適当なことを言う。うわさに尾ひれがつくというのは本当だな。女子社員Aと女子社員Bは、このあいだストーカーの話をしていたから、その話が、前からあるうわさ――わたしが男性に興味のない人だというもの――と合成されてしまったのだろう。
なんで女の人がわたしを追いまわすのよ。

……ただ、気になることもある。
同じようなシチュエーションの日にはじまった非通知の電話。それは断続的ではあるが、いまなお続いていた。
ただまあ、放っておくだけなので、実害は何もないのだが。
そういうのがストーカーなのかな?

社員名簿……。ふと、以前自分が作ったリストが思い浮んだ。そのリストは非常時の緊急連絡網の役割も兼ねていて、ここの社員ならだれでも閲覧できるはずだ。
ふーん。
そのストーカーが、ハルキだったらいいな。……なんて。

===
【おまけ】ディープパープル「スピードキング」

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