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レインボー・スリーブス 虹の袂



                               


◉あらすじ

山名栞は女優志望の21歳。養成所を出てから、まともな仕事はなく、もう3年バイト暮らしだが、夢は諦めていない。


心機一転参加したワークショップで、栞の負けん気を認められ自主制作映画の主演に抜擢される。栞は初めて演じる喜びに目覚めた。


自主映画は好評だったが、密かに企画されていたメジャー版では、無名の栞は真っ先に外されてしまう。失意の中、栞に小さな事務所から声がかかり、やり直そうと決めた。


その頃、主演女優のスキャンダルが発覚、映画の製作が危うくなる。代役選考が難航し、栞は再度出演を持ちかけられた。逡巡する栞だったが、覚悟も新たに出演を決意。難題山積みの撮影を乗り越え、栞は女優として大きく羽ばたいた——。




 


 


 


『 レインボー・スリーブス 虹の袂 』


 


                             羽根木 肇


  


             *


 


夕方から降り出した雨が、一段とひどくなり始めた。踊り場の手摺りの間から、宙に差し出した手のひらの上で、その一粒一粒が跳ねている。手のひらの窪みに溜まった雫が、指の隙間からこぼれていった。


私は雨に手をかざしたまま、子どもの頃に好きだった童謡をかすれたような声で小さく歌った。十一月の雨は、自分で想像するよりずっと冷たかった——。






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201× 秋。 東京・下北沢——。

山名栞は、雑居ビルの狭い非常階段に座って、暇つぶしにスマートフォンをいじっていた。バイトの短い休憩時間だ。働いている店内の空気はこもるので外気を吸うと清々する。階段に置いたマグカップの中には、店のティーバッグで淹れた紅茶が入っていた。特に特徴のない味なのだが、ハチミツを多めに垂らすと心が落ち着く。
熱い紅茶を口にしようとすると、非常扉が乱暴に開いてつま先に当たった。


「痛っ……。もう少しゆっくり開けてよ、狭いんだからさあ」


「あ、ごめん」


ゴミを出しにきた同僚の児玉有希が手刀を切って謝りながら、すかさず話を変えてきた。


「ね、オーデション、行く?」


栞は見知らぬ誰かのInstagramを適当に転がしながら生返事をした。


「雨かあ」


秋の終わりの雨が、さっきからまた強くなり始めた。冷たい雨はいつの間にか階段の踊り場まで濡らすほどになっている。


「ねえ、どうする?」


「うーん……行くと思うよ」


栞は生返事を繰り返した。


「あ、やる気ない」


「かも」


有希がエプロンのポケットから紙ナプキンに包んだサンドイッチを出した。時々、まともそうな客が残したものをこっそり食べているのだ。


「相変わらず紙のような味のするパンだな」


「じゃ、食べなきゃいいのに」


栞はスマートフォンから目を離さずに言った。


「そうなんだけどね。でも空腹にしとかないほうがダイエットにいいし」


「そのサンドイッチのほうが太りそうだけど」


「これ、エルヴィス・プレスリーが好きだったやつだからね」


有希がニヤリとしながら、サンドイッチを栞の鼻先でプラプラさせた。


「まじいらないから」


「そう? 私、結構好きなんだよね。じゃあ、お先です」


有希がプレスリーサンドを喉の奥に強引に押し込み、ゴミを出すと急いで戻っていった。そろそろシフトの上がりなのだ。有希は、栞のルームメイトでもある。


栞は雨に濡れないように立ち上がり、非常扉にもたれた。街が薄暮に包まれ、あちこちのネオンや看板が降りしきる雨の中で瞬いている。この瞬間のここからの風景は案外悪くないのだ。


栞は、小田急線と井の頭線の交差する下北沢駅の外れにあるカフェで、週に五日働いていた。一日中、ポットに入った冴えないコーヒーを注いで回り、冴えないチーズケーキを皿に切り分ける。店主がかけるレコードは、今から何十年も昔の西海岸ロックやポップスばかりだ。今どき喫煙OKのこの店は、なぜかいつもそれなりに混んでいる。下北沢には死ぬほどカフェがあるのに、それが不思議で仕方ない。それとも、他に何か人が集まる理由がこの店にはあるのだろうか。


店にいるときの栞は、いつだって目元に素敵な笑みを浮かべて客の間をすり抜ける。栞はその気になればいくらでも感じのいい表情をすることができた。栞は女優なのだ。しかし今のところ、世間に星の数ほどいる俳優志望の二十一歳にしか過ぎなかった。




バイト先から栞たちのアパートまで、ゆっくり歩くと十五分くらいだ。下北沢と三軒茶屋の間くらいで、茶沢通りから細い路地を何本か曲がったところにアパートはある。その夜は風まで冷たくて、すっかり凍えてしまった。今年の冬はどうやら寒くなりそうだった。


アパートに帰ると、有希のメモがキッチンの机の上にあった。


『大学の友だちと朝まで歌ってきまーす♪ 有希』


栞は、有希がまだ大学に籍があったことを思い出した。栞はマフラーを解き、コートをハンガーに掛けた。それから風呂にお湯を溜めることにした。


お湯が溜まった合図のチャイムが鳴ると、栞は着ていた服を脱いで部屋の姿見鏡に全身を映した。体重計に乗る代わりに、毎日鏡でチェックするのが栞の日課だ。身長は160センチちょっとだが、全体のバランスは悪くないと自分では思っている。栞は少し爪先立ちになる。残念ながらモデル体型ではないのは確かだ。栞はショートカットの髪を小さく振ると片手で掻き上げた。伸ばしたほうがいいだろうか。知り合いの美容室のカットモデルをしているせいで、どんどん短くなってきてしまう。


アパートの狭いバスルームの換気扇は半分壊れていて湯気がこもりがちだった。栞と有希、それぞれのシャンプーとトリートメントとボディソープが並んでいるせいで、統一感のないごちゃごちゃとした洗い場だ。バスタブは足を伸ばせる広さではない。それでも熱い湯がちゃんと出るだけマシだと思っている。量販店で買った温泉の素を入れると、湯は白く濁っていい香りがした。熱い湯に浸かりながら、栞は今日一日を思い返してみたが、あまりにも中身がなくてため息をついた。


このところ受けたオーデションは、書類選考も含めすべて落ちている。どれも大した作品ではない。マイナーなB級ホラー映画のすぐに殺される役や深夜ドラマの犯人の幼馴染役、美大生が撮る自主制作映画の愛想のない端役……。セリフもほとんどない。どれも、積極的にやってみたい役ではなかった。こんな状態がいつまで続くのだろうか、そう思うと暗澹たる気持ちになる。前向きでいたい気持ちはあったが、現実は甘くなかった。もう、三年もこんな調子が続いている。  


栞は、十分温まった身体を丁寧に洗うと、湯を流しバスタブをスポンジで軽く洗った。有希と決めたルールの一つでもある。


風呂を上がると何年も着ているユニクロのルームウエアに着替え、テレビをつけた。一人のときは何か音がないとさみしい。冷蔵庫を開け一本だけ残っていた発泡酒を飲むことにした。冷蔵庫の中にはお互いの買ってきたものに名前が書いてある。それも二人のルールの一つだ。食べた食べない、飲んだ飲まないで揉めるほど惨めな喧嘩はないと有希は言う。ちょっと面倒だけど、こうするほうが長くルームシェアして一緒に暮らせるのだそうだ。栞はそういうことには素直に従う。


テレビのチャンネルを適当に切り替えてみても、見たい番組は特になかった。何周か切り替えていると、早くもクリスマスの特集をしているコーナーが目に止まったので、栞はぼんやり画面を眺めた。大手菓子メーカーの新作クリスマスケーキが、明るいだけが取り柄の女子アナに紹介されている。やがてゲストが登場した。何かの映画の番宣のようだった。


「あ」


思わず小さく声が漏れた。画面に現れたのは、栞が養成所で同期だった安藤麻里恵だった。


二年前、栞は中堅どころの俳優事務所が主催している養成所に通っていた。サイトの謳い文句には、一年後その事務所に所属できるようなニュアンスと養成所にいる間にもオーデションの窓口になり仕事を紹介してくれるとあったが、実際はそんなうまい話ではなかった。


当たり前だが、俳優養成所は慈善事業ではない。養成所に入った全員が所属俳優になれるわけでもない。ただ、数年に一度くらいは誰かが所属できて、なんとなく活動しているふうの俳優がいるので、まるっきり嘘ではないだけだ。


全国から俳優になりたい若者が夢を見て、藁をも掴む思いで書類を送る。その段階では、みな俳優業界のことを何も知らない。憧れしかなくて、とにかくきっかけが欲しいのだ。だから養成所には、見込みのありそうな人も全く見込みのなさそうな人も混在する。結果、自意識だけが高く勘違いした若者たちがレッスンスタジオに溢れることになってしまう。


数十名いた同期の中で、俳優もしくはタレントと呼べる活動をしているのは、今、画面の中から笑顔を振りまいている安藤麻里恵だけだった。


栞は椅子の上で片膝を抱えながらテレビを見ていた。麻里恵は、はしゃいだ感じでケーキをパクつき、軽薄に「美味しい!」を連呼していた。麻里恵は福岡県から来た女の子で、当時渋谷にある短大に通っていた。ミスキャンパスに選ばれるタイプの顔立ちだ。演技はお世辞にも上手いとは言えなかった。しかし、麻里恵は養成所にいたときから主催している俳優事務所に目をつけられ、こっそり所属タレントになっていた。


栞には一年間の養成期間が終わっても声はかからず、結局フリーになるしかなかった。フリーといえば聞こえがいいが、所属事務所もなく無名の俳優未満にまともな仕事もオーデションも回ってこない。そのことも養成所を出た後ではっきりわかった。


今はエキストラの仕事や知り合いの紹介してくれる小規模なオーデションを受けたり、SNSで募集される自主制作の映画(みたいなもの)や、ごくたまに回ってくるギャラのほとんどない端役に出演したりしていた。


栞は別に好んで所属なしの俳優をしているわけではない。気になる事務所のホームページに〈時代をつくる俳優、随時募集! 応募書類・履歴書を送ってください〉などの文章を見つければ、履歴書と写真と手紙を添えて送っていた。しかし、返事がこなかったり、簡単な断りメールが送られてくるばかりで、そのうち、どんどん自己肯定感が下がり、疲れてしまっただけだった。栞のような存在は、ほんとうに星の数ほどいるのだ。


テレビでは、大きなクリスマスケーキに麻里恵がオーバーなリアクションを取っていた。画面がアップになる。麻里恵が満面の笑みで、クリスマスケーキを大きな口を開けて頬張り、唇についた生クリームを長い舌を出してぺろっと舐めた。


その瞬間、栞は画面の中の麻里恵を睨みつけ、発泡酒の缶を握りしめた。




なんで私じゃなくて、あんたなんだ! 


なんで、私じゃないんだ!




瞬間、栞は感情が沸騰し、手の中の発泡酒を床に叩きつけた。缶の中に残っていた液体が狭いキッチンに飛び散った。


栞はしばらく呆然としていた。心臓が激しく早鐘を打っている。血が全身を駆け巡っていた。やがて、突然栞を襲った感情は静かに引いていった。栞は目を瞑って大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出すと、椅子から降りて頭に巻いていたタオルで床をゴシゴシと拭いた。フローリングにこびりついていた汚れもタオルにたっぷり付着した。胸の嫌な動悸だけがなかなか収まらなかった。


テレビの中では、麻里恵が出演する映画の予告編が流れていた。




翌日、目が覚めた後も起きる気がしなくて栞はベッドの中でゴロゴロしていた。昼前にようやく起き出すと、三日前の食パンに霧を吹いてからトースターで焼いた。それを何もつけずに立ったまま齧り、インスタントコーヒーで強引に胃に流し込んだ。歯を磨いて、簡単にメイクをする。部屋の中を歩きながら口の中でオーデションのセリフを反芻し、姿見鏡の中の自分を確認した。栞はやれたリュックを背負い、急いでアパートを出た。呼び出し時間がずれていたので有希はもう先に出かけていた。


一時間後、栞はオーデションを受けるために、乃木坂の小さな映像制作会社にいた。会場や控え室が狭いのか、待っている場所はなく外階段まで俳優が溢れていた。どこかで見たことがある顔もいたが、ほとんどは無名の役者に過ぎない。皆、下を向きスマートフォンをいじっている。


一時間半くらい待つと、栞の順番が来た。三人ずつグループを組まされオーデション会場に入った。会場といっても、その制作会社の会議室だ。率先して先頭になった子が扉を静かにノックした。どうぞ、の声が室内からあり、栞たちは中に入っていった。


「失礼します」


三人が長机の前のディレクターやプロデューサー数人の前に立った。胸の前に両手で持った(待っている間に事前に書いておいた)オーデションシートを見せながら挨拶をする。


「コズミックプロモーションから来ました押井はるかです。どうぞよろしくお願いします。二十二歳です」


「山名栞、二十一歳です。どうぞよろしくお願いします」


「あ、ハイエンドから来ました内田理世、えっと二十歳です。あ、特技はダンスです。どうぞ、よろしくお願い致します」


最後に自己紹介した子は明らかに慣れていない様子で、自己紹介からあがっていた。それぞれ役が振られた後、三人はあらかじめオーデションの設定にあった〈カフェでの雑談シーン〉を始めたが、事前に打ち合わせも練習もしていないので、バラバラで演技が回らない。あがっていた子は自分に振られた役のセリフも入っていなかった。


「あれ、えーと、内田さんセリフ覚えてない?」と若い監督(ディレクター)が無表情な声で言った。


「すいません……カオリ役しか覚えてきてません」


「あ、そう。じゃあ、カオリ役やるかー。山名さんがサヤカ役で、押井さんがヒトミ役で、やろうか」


「はい」


栞は内心で舌打ちした。オーデションの要項には、三役どれも覚えてくるよう通達があった。しかもその中でまともな役はカオリ役だけだったのに、それが奪われた。


役を入れ替えて行った三人の芝居も明らかに出来がよくなかった。カオリ役の内田理世の下手な演技に引っ張られて、うまく芝居が回らない。


「カット」


声がかかって栞たちの動きが止まり、次の指示を待った。


「はい、ありがとうございました」


続いて簡単な質疑応答があった。好きな映画、好きな役者、特技。なんでもない様子見の会話だが、カオリ役の内田理世はまるで合コンの自己紹介のように嬉々として喋っている。


「じゃあ、お疲れ様でした」


監督(ディレクター)の一言で栞たちの持ち時間がものの数分で終わった。オーデションは参加人数が多いので、受けている側が考える間もなく流れ作業のように捌かれてしまう。見込みがあると思われなければ二度目の機会はない。結果はあえて知らされなくても、その場の雰囲気で察することができた。


制作会社を後にすると、栞は憂鬱な気分をたっぷり引きずって、地下鉄の改札を潜った。夕方の車内はやたらと混んでいた。履き慣れない革靴がきつくて痛む。千代田線を代々木上原で小田急線に乗り換え、ようやく下北沢に戻った。ホームからの長いエスカレーターに沈んだ気持ちで乗った。地上が永遠に来ないような気持ちにさせるエスカレーターだ。先を急ぐ人が右側を歩いてスタスタ上がっていくが、栞にはその気力はなかった。


改札を出ようとするとPASMOの料金が足りずに扉で塞がれた。後ろの人に謝りながら窓口に回って精算しながら、栞は大きなため息をついた。今日は何をやってもついてない……。




 栞のバイト先のカフェ『Pirates』は深夜まで営業している。下北沢の夜は深いので、夜遅くまでやっているカフェは案外需要があるのだ。酒を飲みたい人は酒場へ行くし、コーヒーが飲みたい人はここへ来る。不味いチーズケーキもあるし、サンドイッチならいくらでもある。


栞は、有希と交代でシフトに入ると、私服の上に店の支給するコットンのエプロンをかけた。胸には手書きの名札がある。名札をつけるのは店主の好みだ。「人は名前で呼ばれるべきだ」と考えているのだそうだ。


その夜も店は客で溢れていた。一応店の半分が喫煙席でもう半分が禁煙席だが、その区分けはあまり意味がない。客もそれに文句を言わない。その適当な感じが下北沢らしいのかもしれない。


夜の九時半を回った頃、三十代半ばくらいの二人の客が入店しテーブル席に座った。何かしらの業界人風だった。


二人は揃ってコーヒーを注文した。栞はマグカップにコーヒーを注いで運んだ。


「他にご注文は?」


「いや、大丈夫」二人は話に熱中していた。


しばらくすると顔見知りのキャスティング・ディレクターの谷川聡子が店にやってきた。谷川は四十代の静かな女性だ。業界歴も長く、栞のような所属のない俳優の卵にもオーデションの話を振ってくれたり、親身に接してくれる貴重な人物だった。


「谷川さん、こんばんは」


「あ、栞ちゃん、元気?」


「まあまあです」栞は苦笑いした。先日のオーデションも谷川が人伝てに振ってくれたものだった。


「そっか……」谷川も結果を察したのか、それ以上聞いてこなかった。


キャスティング・ディレクターは、その作品にあった俳優たちをブッキングするのが主な仕事だ。出演者とのスケジュール等の調整役も担うので、俳優や俳優事務所に顔が広く、映画や演劇を日常的によく見ている。有名無名を問わず俳優に詳しい職種だ。


「あ、せっかくだから紹介しておこうか?」


「え?」


谷川が栞を連れて、さっきコーヒーを運んだテーブルに向かった。


「倉田監督、こちら山名栞さん。俳優。すごくいい芝居するときもある」


「なんだよ、ときもあるって」倉田監督と呼ばれた男が、谷川に軽くつっこんだ。倉田は髪を短くカットし涼しげな目つきをしていた。洗いざらしのグレイのフーデッドパーカに紺色のウインドブレーカーを羽織っている。


「だから、監督次第ってことですよ」と谷川が微笑んだ。倉田に何か問いかけているようだった。


「そんな、身勝手な」倉田が呆れたように言った。


「だって、俳優だって人間だもの。誰でも彼でもっていうわけにはいかないのよ。ねえ、栞ちゃん」


「え? あ、まあ……」


栞は釣られて相槌を打った。


「うわ、正直」倉田はあからさまに嫌な顔をしたが、思い直したように「まあ、でもそうだよな。誰が撮っても同じなら、それはそれでこっちもさみしいし」と呟いた。


栞は曖昧な笑顔でその場を取り繕った。


「でしょ? あ、私もコーヒーね。あ、こちらはプロデューサーの柴崎さん」谷川がもう一人の男を親しみのこもった声で紹介した。柴崎は優しそうな顔つきで二重顎をしている。


栞はカウンターに戻るとマグカップをお湯で温めた。「多少コーヒーが不味くたって、カップが温かければプラマイ・ゼロ」が店主の口癖だった。


聞き耳を立てていると、倉田監督たちは近所の小劇場で芝居を見てきたらしく、そのうちその出来の悪さを大声で話していた。その芝居には知り合いも端役で出演していたので、栞は自分がけなされているようで胸が痛んだ。かといってベタ褒めされていたら、それはそれで悔しくもあるのだが。


「お待たせしました」


栞はコーヒーをテーブルに置き、倉田と柴崎にコーヒーのお代わりを注いだ。思いついたように谷川が言った。


「あ、栞ちゃん。興味あったら、倉田監督のワークショップ出てみない?」


「ワークショップですか?」


「うん、きっとためになると思うよ。今の栞ちゃんの」


「はあ」


「どうかなあ」倉田が不味そうにコーヒーを啜った。


「監督、厳しいからね、若手に」


隣にいた柴崎プロデューサーがニヤつきながら言った。


「そんなことないよ。みんなが役者に嫌われたくないからって、ちゃんと言わないのがずるいんだよ」


「これ……私のFBとかX(ツイッター)にもリンク貼ってあるから。あとで見てみて」


「はい、ありがとうございます」


栞は谷川のスマートフォンを覗き込み、頷いた。


「監督、今度短編撮るらしいし」


「え?」栞が顔を上げると、


「そういうの餌にして俳優集めるのは、好きじゃないんだけど」と倉田がキマリ悪そうにした。


栞は何度かこの手のワークショップに参加したことがあった。実はあまりいい思い出がなかった。予算がない作品がよくやる手で、参加するとその作品に出られるかもしれない……と煽るものだ。要するに、俳優がお金を払って受けるオーデションの側面も持っている。そのお金が製作費の一部になるというわけだ。そして、当たり前だが、ほとんどの俳優がその作品に出演は叶わない。しかし可能性がゼロというわけでもない。そこが立場の弱い者には微妙なのだ。


「そういうこと言わない。別に騙してるわけじゃないんだから」柴崎が明るく言った。


「倉田さんは固いのよ、そういうとこ。もっとなんていうかなあ、フレキシブルに考えてくれないとさあ」谷川が諭すように言った。


「なんだ、それ。それじゃあ、僕はまるで融通が利かないみたいじゃないか」


「そうじゃなくて……」


谷川が倉田を取りなしている。


立ち去るタイミングをなくして、栞はその場で曖昧な笑顔を浮かべているしかなかった。ちょうどよく奥の客がコーヒーのお代わりに手を上げた。栞は大きく返事をして、そのテーブルへと向かった。






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遮光カーテンの隙間から射す晩秋の日差しが頬に当たっていた。枕元の目覚まし時計を見ると十時を回っている。栞は大きく伸びをしてベッドから降りた。キッチンに行くと有希が珍しく起きている。どうやら徹夜でパソコン作業したらしい。ひどく眠そうな顔をしていた。


「おはよう」


「栞さあ、明日ってシフト休みだよね?」


「うん」


「頼みあるんだ」


「何?」


「私の代わりに別のバイト行ってくんない?」


「何の?」


「エキストラ」


「いいけど」


「助かるー。ゼミの課題締め切りが明後日なんだよね。全然間に合わなくて。あー、またバグった」


有希がステッカーだらけのMacBookを乱暴に叩いた。有希は美大のグラフィック科専攻だ。


「それ何?」


「え? あー、架空の会社の架空の商品の架空のグラフィック広告」


「は?」


「だからさ、これは架空のペットボトルのお茶で、架空のキャッチコピーで、架空の……」


栞は有希のノートパソコンを覗き込んだ。まるで本物の広告ポスターのようだった。


「それはわかったけど、できてるじゃん?」


「できてないよ、こんなの。これから細かいとこ詰めないと」


「へえ。いいけどなあ」


「そうかな? まあ、ちょっとは自信あるんだけどさ。私、女優よりこっちのほうが向いてるのかなあ」


「かも」


「それはそれで、悲しい」有希が大袈裟に泣いたフリをした。栞も有希もこの前受けたオーデションは一次審査であっけなく落選していた。


「そう言わないで。手に職があるなんて素晴らしいじゃない。有希のおかげで私たちのささやかなホームページもあるんだし」


「問い合わせはないけどね、さっぱり」


栞は苦笑して、薬缶の湯でティーバッグの紅茶を淹れた。


「で、何のエキストラ?」




エキストラの集合場所は、京王線の終点近い郊外にある南大沢駅の改札口だった。朝の七時集合だ。たいていのエキストラバイトの集合時間は早い。栞は五時前に起き、半分寝ぼけたような状態で集合時間十五分前には南大沢駅に辿り着いた。


ドラマは男性ダンスグループのボーカルが主演の推理ものだった。人気ライトノベル・シリーズが原作だ。栞は、その原作を読んだことがなかったが、ドラマ化のニュースはネットで知っていた。毎話、旬の若手女優がゲストで犯人役として登場するらしい。


撮影は十一月だが、オンエアの時期に合わせた春物の格好で、という指定だった。他のエキストラたちと色被りを防ぐため、リュックの中には別の色の上着も入れてある。エキストラの礼儀のようなものだ。


天気予報によれば爆弾低気圧が来ているらしく、その日の南大沢は寒かった。この駅のある八王子市は都内ではあるが都心よりずっと寒い端っこのエリアだ。冬場の早朝ロケ撮影は厳しい。きちんとした役付きなら、それなりの待遇もあるだろうが、エキストラたちは外で待機が多い。ひたすら寒いだけだ。待つのも仕事のうちなのだ。栞はヒートテックのタイツ、その上からジーンズを穿いていた。上着の下も防寒対策をしっかりとしている。集合時間の少し前には大方のエキストラは集まっていた。    


助監督(AD)が大きな声で指示を始めた。


「みなさん、おはようございます。本日よろしくお願いします! 助監督の加藤です。えーっと、人数確認したいので、すいませんがこちらに集まってくださーい」


エキストラたちが改札口から少し離れた場所に移動する。通勤客が迷惑そうに栞たちをチラチラ見た。助監督は大きな柱の前に皆を集め、片っ端から人数を数え始めた。


「1、2、3、4……」


栞たちは名前で呼ばれることはない。助監督は、自分がガヤとして動かす人数が足りているかしか興味がないからだ。


「25、26……あれ? 四人足りない」


そのとき、駅のホームの階段のほうから走ってくる人たちがやってきた。エキストラたちなのだろう。


「あー、こっちでーす!」助監督の加藤が大きく手を振った。


「すいませーん!」集合時間ギリギリにきた人たちが大声で謝っている。


「現場、ここから徒歩十分くらいなんで、すいませんが歩きまーす!」


栞たちは、その声に従って行列を作り移動を始めた。


助監督の加藤は、スタッフの誰かとずっと電話しながら、時折みんながついてきているか確認するために振り向き、先頭に立ってスタスタ歩いた。空はどんよりと曇り、冷え込んでいる。今にも雨が降り出しそうだった。今日は気温の上がる気配はなさそうだ。


天気待ちとか、なければいいけど……栞は内心で有希を恨みながら黙々と歩道を歩いた。




案の定、撮影は晴れ間を待ちながらで遅々として進まなかった。さらに天気だけではなく、主演の男性ダンスグループのボーカル兼俳優が、監督(ディレクター)と意見が合わずに無駄に時間を消費していた。


「ここ、オレ的にはちょっとパシッといきたいんすよね」


「ああ……。まあ、でも、ここはまだ犯人かどうかわかんないとこだからさ」


「ですよね? ですけど、なんですよ」


(不毛だ……)


栞はそばでそのやりとりを聞いていて、何度も口の中でつぶやいた。


主演とはこういうものなのだろうか……。栞は、粋がって演技プランをぶつけているようにしか見えない俳優を横目に見ながら、指示された位置でぼんやり待機していた。撮影は予定より遅れ気味だった。とにかくカット数が多い監督だった。


午前中の撮影が押し、昼をだいぶ回ってから冷え切った弁当と缶のお茶が栞たちにも配られた。撮影現場から離れず、エキストラたちは何となく固まり道端に座って食べ始めた。


「すいませんが、十三時半開始でよろしくお願いしまーす!」


助監督(AD)の加藤が大きな声をかけてスタッフの間を駆けていた。スマホで時間を確認すると十三時を回っていた。


「よくこのバイトするんですか?」


「え?」


「いや、きれいな方だなあと思って」


同じエキストラの背の高い男性が話しかけてきた。栞はエキストラ同士であまり話さないようにしている。変なプライドのせいかも知れない。


「あ、たまに」


「僕も、たまに」


「そうですか」


「役者、目指してるとか?」


「一応……」栞は冷めた春巻きを齧った。悲しくなるほど皮がしんなりしていた。


「ですよね。だと思ったんですよ。まじきれいだし。ていうか、歩き方とか違うし」


「は?」


新手のナンパかと思い、栞は身構えた。男は同い年くらいだった。似合わないスーツを着ている。誰かのを借りてきたのだろうと栞は思った。


「いや、僕も一応役者なんです。まあ、まだ舞台とか立ててないすけど」


「あ、舞台の……」


「劇団つーか」


「へえ? なんて?」


「あ、劇団東京ボルテージって」


「え。超有名じゃないですか?」


「知ってます?」


「知ってますよ。見たことないですけど」


栞は同じ国の人と旅先の異国で会えたような気になり少し安心した。食えない役者がバイトでエキストラをしているのと、エキストラを専門でやっている人とでは、ここにいる意味が違う。


「あ。いえ。僕も入ってまだ一年だし。まだ研究生だし、で」


「ああ……厳しいらしいですよね、劇団員になるの」


「そうなんですよ。あ、古賀です。古賀大介」


「あ、山名栞です」栞は丁寧に頭を下げた。


「飯、食っちゃいますか」


「ですね。時間ないし」


栞と大介は冷たく固まった俵型の米を頬張った。中華弁当だったが青椒肉絲の油は固まっていた。


「山名さんは、どこの事務所なんですか?」


「あ、いえ……」この瞬間がいつも惨めというか説明に窮する。「どこにもまだ。なんかどこも条件が厳しくて」栞は申し訳なさそうに言った。


「ああ。僕の周りにもいっぱいいますよ、所属探してる役者」


「そうですか」


「まあ、簡単じゃないですよね。一度入ればそうそう移れるもんじゃないし」


「ええ、まあ、ですよね」


「僕も劇団員になれるまでは、微妙な立ち位置ですから。今日は先輩がこのドラマに刑事の同僚役で出てるから、エキストラの人数合わせに呼ばれたようなもんで」大介が照れたように言った。


「そうだったんですか」


「基本断れませんから、こういうの。まあ、どっちにしてもバイトはしてるんで、助かるっちゃ助かるんですけどね」


「私もです。今日は友達の役者の代役っていうか」


「へえ」


大介に合わせるように栞も言った。言い訳がましいかな、と少し気恥ずかしくもある。


「たまたまバイト休みで」


「何やってるんですか?」


「バイト? 下北沢の『Pirates』ってカフェでウェイトレス……」


「え? オレたまに行きますけど、そこ」


「ほんとに? 全然気づきませんでした、すいません」


「いやあ、こちらこそです」


話している二人の吐く息は白かった。


「八王子って寒いんですね。僕、大分出身なんで……」


大介がポツリと言った。外で食べている俳優部はいない。皆、控室かロケバスの中にいる。外で食べているのはスタッフの助手たちの一部とエキストラだけだった。




昼食後、撮影が慌ただしく再開された。助監督(AD)の加藤がスタッフやキャストに大きく声をかける。


「撮影再開しまーす! えー、ご紹介させてください。今回のゲスト、春日ハルカ役の安藤麻里恵さんでーす」


スタッフやエキストラから拍手がパラパラと起きた。衣装の上に防寒用のグラウンドコートを着た麻里恵が中央に進んで、皆に挨拶している。


「まじか……」


栞は目を疑った。なんで、麻理恵をこのところ立て続けに……しかも今日は一番会いたくないシチュエーションだ。栞は顔を隠すように、大介の後ろに隠れた。


麻里恵は監督や主演とにこやかに談笑している。


「寒いけど、よろしくね」


「大丈夫です。寒さ強いんで」


麻里恵が愛想よく髪の長い監督に答えていた。


助監督が、エキストラたちに動きをつけ始めた。栞や大介もそれに従った。二人はカップルの設定で談笑しながら、歩いてくると、麻里恵とすれ違う。そこに刑事役の主演俳優が現れて、逮捕しようと説得する、それを何が始まったのか……と遠巻きに見ているという設定だ。


共犯者役の麻里恵が逃げようとすると、栞たち通行人にぶつかり、転んだところをすかさず抱き留めて、そこを逃さず刑事が取り押さえる、と二人はキスする。周囲は呆気に取られる……そんな段取りだった。ひどい設定だと思うが、栞たちは従うしかない。エキストラには台本など渡されていない。


「じゃあ、段取りいきまーす」


助監督が一際大きな声を出す。リハーサルが始まった。




 麻里恵が不器用なりに一生懸命、役を演じているのが栞にも伝わってきた。顔立ちと振る舞いで人気が出たのだから演技力など問われてはいないが、それに抗うように工夫をしている。しかし、監督はそれを下手な小芝居としか受け取らないようで、「もっといつもの麻里恵ちゃんでやろうよ」と言った。


「わかりましたー。すいません、なんか変に気負っちゃって」


「そうそう、いつもの感じでいいんだよ。麻里恵ちゃんらしいとこ撮りたいんだからさあ」


次のテイクから、麻里恵はいつものようにオーバーに愛嬌を振り撒くようにして芝居をした。監督が「通行人にぶつかるときは、思い切り転けてね。コメディだから」と撮る前に言った。すると麻里恵は、「はーい」と返事し、動きを大きく、つまり思い切り通行人の栞にぶつかってきた。芝居で表現することができないのだ。


「痛っ!」栞は麻里恵に突き飛ばされて、盛大に転がった。それでエキストラ全体の動きの段取りが崩れた。


「カットー! だめだよ、エキストラが大きな声出してちゃ。変に生っぽくなっちゃうじゃない」


監督が栞たちの動きに文句をつけている。


「すいませーん。もう一度、動き確認させてくださーい」


助監督が大声でエキストラに声をかけて回る。


「ごめんなさい、大丈夫ですか」麻里恵が耳元に声をかけてきた。


「え、あ……はい」栞はすかさず顔を伏せた。


「あれ、栞?」


「あ……うん」


「え、栞じゃね? うわ、まじ懐かしいんだけど。元気?」


「うん……元気」


「え? 知り合いなの?」隣にいた大介が驚いた。


「うん……養成所で」栞は小さな声で答えた。


「だよね! 懐かしすぎなんだけど」麻里恵が周囲も振り返るような大声をあげた。


栞たちの様子に助監督が飛んできた。


「どうしました?」


「あ、知り合いっていうか、友だちにばったりで」


「ええ? そんなことあるんですね」


「奇遇、奇遇」麻里恵はすっかりはしゃいでいた。


栞はいたたまれず俯いて息を吐いた。


「じゃあ、次本番なんで、よろしくお願いします」助監督が明るく言い残して、カメラのほうに走って戻った。


「はーい」返事を返す麻理恵もなぜかご機嫌だ。


監督から「本番!」の声がかかり、スタッフとキャストが集中モードになった。先程の段取り通りに、俳優たちが動き、エキストラが動く。それをカメラが撮っていく。


麻里恵が逃げようと、通行人の中に飛び込み、栞にぶつかってきた。肩が思い切り当たる。栞も転げ、麻里恵も転げる。そこに主演が飛びかかる——。


結局、カメラのアングルを変えて五回は同じことをした。栞は肩が痛くなり、膝を捻った。尻は打撲で痛んだ。


「はい、OK!」監督の大きな声が響いた。


助監督が飛んできた。


「麻里恵さん大丈夫ですか?」


「はい全然。衣装さんが肩パットも膝パットも入れてくれてますから」


栞はアスファルトの上に倒れたまま、驚いた顔で麻里恵を見上げた。麻里恵が笑みを浮かべながら、すっと寄ってきた。


「大丈夫?」


「うん、全然」


「ごめんねー、思い切りやっちゃって。加減とかうまくできないから」


「あー、全然いいよ。お芝居の上だもん」


麻里恵が手を伸ばした。栞は仕方なくその手を掴んだ。


「うわ、優しいすね。麻里恵さん」助監督が麻里恵に御愛想を言った。


「そんなんじゃ。友達なんで。この子。ね?」


栞は曖昧に微笑んだ。


「じゃあ、私いくね。栞も頑張って」


「うん」


麻里恵は取り巻きのスタッフに連れ添われてロケバスに戻っていった。一緒に発声練習をしていたのはたった二年前のことなのに、ずいぶん遠い場所に麻里恵はいた。


エキストラたちは上物を着替え、別場所に歩いて移動だ。別のシーンの通行人役が、まだだいぶ残っている。


「大丈夫です?」大介が心配そうに声をかけてきた。


「うん大丈夫。少し痛いけどね」


栞は無理に笑顔を作って答えた。それから春のコートの汚れを思い切り手で払った。




帰りの電車の中で、栞は口数が少なかった。十時間以上外で働いて、すっかり凍えてしまい口を利くのも億劫だった。それに今になって足腰が痛んだ。大介もほとんど口を効かなかった。ただ二人並んで電車に揺られていた。


電車が都心に戻ってきた頃、大介がポツポツ話しかけてきた。


「栞ちゃんはシモキタ?」いつの間にか、大介は栞のことをそう呼んでいた。


「うん。駅から歩くけどね」


「オレも」


「そうか、近くにいたんだ」


「まあ、人多いからあそこは」


「だね」


二人は明大前駅で京王線を乗り換え、井の頭線に乗った。各駅停車の車内は空いていた。あと数分、二駅で下北沢に着く。


「なんか暖かいもの食べていかない?」と大介がふわっと誘ってきた。


「そうだねえ……冷えたもんね」


「茶沢通りに行きつけの定食屋があるんだ。そこの豚汁が美味しいんだよ」


「へー」栞は少し空腹を感じた。冷え切った弁当は油っぽくて半分も食べられなかったのだ。


「寒い夜とか、芯から温まるし」


「いいかも」


「行く?」


栞は口数少なく気を遣ってくれる大介に好感を持った。電車はすぐに下北沢に着いた。


ホームから改札までの長いエスカレーターを上がっていると、この前のオーデションで帰りがけにディレクターから掛けられた言葉を思い出した。


『山名さんってさ、まるで選ばないこっちが悪いみたいな顔してるなあ。それじゃあ、一緒に仕事は難しいよ。だって君といても現場が楽しくなさそうだもん』


栞は冷たくなった手を擦り合わせた。


「古賀さん」前にいる大介に栞は話しかけた。大介が振り向いた。


「あ、大介で」


「あ、はい。大介さん」


「何?」


「あの、私といて楽しいですか?」


「え? 何でそんなこと聞くの」


「ただの質問ですよ」


「楽しいよ。だって同行の士でしょ?」


「ああ……ですよね。ありがとうございます」


「変なの。栞ちゃんてそういうとこ変わってるよね」


下北沢駅の構内は夜の人出と通勤客で混み合っていた。改札の外には、この町に遊びにきた人の群れが溢れている。飲みに向かう人、ライブハウスへ向かう人、劇場へ向かう人。


(私は、どこに向かう人なんだろう……)


人混みに紛れて大介の姿を見失った。人々のざわめきが急に大きくなり、自分がどこに向かっているのか一瞬わからなくなった。誰かの肩が続けざまにぶつかり、栞はよろけた。脚に力が入らず反動で倒れそうになる。足が地面に踏ん張れない。そのとき、大介が栞の腕を引いた。


「栞ちゃん、こっち、こっちだよ」


大介の計算のない笑顔を見た瞬間、栞は突然涙が溢れた。大介が一瞬驚いたような顔をしたが、察したのかすぐに柔らかな表情に戻した。


「どうしたの?」


「わからない」栞は被りを振った。「わからない……けど、すごく」


「うん」大介がやさしく相槌を打った。


「すごく……悔しいの」


栞は大介の肩口に顔を埋めて少しだけ泣いた。大介はじっと動かないでいてくれた。


街の喧騒が耳にゆっくり戻ってきた。




大介の行きつけの定食屋は、南口の消防署の斜向かいにあった。茶沢通りと呼ばれる下北沢のメイン道路沿いだ。この時間帯にしては珍しく車の通行量が多かった。栞は、定食屋の外に出ると、スマートフォンをポケットから出してキャスティングの谷川に電話をかけた。消防車がサイレンを鳴らして三軒茶屋方面に向かって走って行った。


「あの、山名です。夜分すいません。……あの、この前のワークショップのお話ってまだ大丈夫ですか?」


「うん、大丈夫よ」


「私、ぜひ受けたいんです」


「そう、嬉しいな。監督に言っておくね。栞ちゃん、なんか今日の声、力強いね」


「え? そうですか?」


「うん、なんだか。頑張ってね。私も覗きに行くよ」


谷川が電話口で励ましてくれているのが伝わってくる。栞はそれだけで嬉しかった。誰かにこれ以上優しくされたらまた泣き出してしまいそうだ。


「……はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」


栞は、谷川との電話を切ると定食屋の店内に戻った。栞の前に湯気を立てた豚汁定食が置かれた。


「これが美味いんだよ」と大介が嬉しそうに言った。


「いただきます」


栞は大きな器を両手にすると、舌の焼けるような豚汁を啜った。


「あ、美味しい」


「でしょ」大介は満足そうに頷き、自分も大きな椀を持った。


「お前が作ったんじゃねえだろ」体格のいい強面のマスターが笑ってつっこむと、


「まあ、いいじゃないすか。美味ければ」大介も笑って言い返す。


周囲に自然と笑い声が上がった。栞は、猛然と食欲が湧いてきた。


「今度ルームメイトも連れてきます」栞はマスターに向かって笑いかけた。


「ああ、いつでもおいでよ」


「え? 男の人?」大介がすかさず聞いてきた。


「女の子だよ」


「うわ。よかった。まじビビった」大介がオーバーにリアクションした。


栞は笑いながら豚汁を啜った。常連のお客さんたちの陽気な話し声や厨房の音、きちんとした料理の湯気、今の栞の周囲にあるものは温りだ。それが昼間の痛みを少し和らげてくれる。しかし、このまま何もしなければ現実は変わらない。痛みは永遠になくなりはしない。


絶対向こう側に行く、栞はそう決意した。






               3 




 


今回のワークショップを主催している制作会社バーディ・フィルムは三軒茶屋から徒歩十五分弱の場所にあった。以前はどこかの板金工場か倉庫だった所を使わなくなったので、安く借り受けているそうだ。トタンの屋根、モルタルの壁、コンクリートの床。広いスペースに無造作に小道具や大道具が置きっぱなしになっている。映画の美術部が改装したということで、どこか昔の撮影スタジオの匂いがする。ガラス張りになっている奥のオフィススペースでは、数人のスタッフがパソコンを睨みながら近々の撮影準備をしているようだった。


ワークショップは、午前の部と午後の部があり、週三日を二週、それがプログラムだった。通常のワークショップよりかなり濃いスケジュールだ。


栞が道に迷ったせいで開始時間の十時より少し前に行くと、何人かの参加者がすでに来ていた。スタジオの中には、カーテンで仕切られた着替える場所があったので、栞は手早くジャージに着替えた。


簡単なストレッチを各自が始めた。全員で二十人程度が参加している。インディーズ映画で見かけた子もちらほらいる。参加者たちは誰もが何かしらきっかけを得ようと、もがいているのだろう。表情には受験生のような雰囲気がある。


(この中から何人くらいを選ぶつもりなのだろう?)


 栞はそんなことを考えた。しかし、キャスト全員をこの中から選ばないのかもしれない。その作品の脚本を渡されているわけではないから、栞にはそれ以上わからなかった。


十時になると、主催の柴崎プロデューサーがみんなに挨拶した。以前『Pirates』で会った三十代後半の大柄な人だ。


「えー、皆さん、おはようございます。バーディ・フィルムの柴崎です。えー、この会社の名前の由来は、僕がアラン・パーカー監督の『Birdy』って映画が大好きだからです。この映画を見て、僕は人生が変わりました。誰かにとって、そんなふうに思ってもらえる映画が作りたくて、この世界に入りましたが、まだその一本を作れていません。次に手がける作品がそうなればいいなと思っています。よろしくお願いします。では、監督の倉田さんをご紹介します」


監督の倉田が椅子から立ち上がった。グレーのスエットの上下にスニーカーを履いていた。どこかにジョギングにでも行くような格好だった。


「えーっと、倉田和也です。新人監督です。どうぞよろしくお願いします」まるで俳優のオーデションのように倉田が頭を下げると、皆が少し笑った。


「ところでみなさん『マラソンマン』って映画知っていますか?」


全員が首を傾げた。


「ですよね。ずいぶん古い映画です。僕も当然リアルタイムじゃなくて、名画座で見ました。でもダスティン・ホフマンって俳優は知っていますよね?」


皆が、曖昧に頷いた。


「彼が若い頃、出演した映画です。まあ、よかったらDVDで見てみてください。面白いです。その映画の中で彼はずっと走っています。走る姿が美しい俳優は、たいてい名優じゃないかと思います」


 確かに、俳優はよく映画の中で全力で走っている。そして、たいていかっこよく様になっていると、栞は頷いた。


「ただ走っているだけなのに、それがいいんですよね。僕は俳優が一生懸命やっているのを見るのが好きです。六掛けや七掛けじゃなくて、全力を出している姿です。上手いか下手かより、そっちのほうに心が惹かれます。人は、人の一生懸命な姿を見たいのだと信じています。だから、ワークショップでも全力でお願いします。僕も全力で皆さんの演技を見つめます。練習で結果を出せない人が、試合で、つまり撮影で力を発揮できるとは僕は思いません。ふだん練習しないで、いきなり試合に出るアスリートがいるでしょうか? いないですよね。俳優も同じだと思います。この機会に色々気づいてもらったりできれば、僕も嬉しいです」


栞は痛いところを突かれたような気がした。確かに今まで、きちんと練習をしてきたとは言い難い。オーデションを受けるときでも、連絡が来て、間に合わせで準備していたことは否めなかった。普段練習をしないくせに、試合で使われたいと思っている二軍(ファーム)の選手と同じだ。いや、自分はプロのチームにすら所属していないのだからそれ以下だ。とにかく、技術も経験も足りないんだから一生懸命やろう……栞は心に決めた。


「じゃあ、軽くストレッチして身体をほぐしていきましょう」


それから、みんなで輪になって簡単なストレッチをした。


渡された十ページくらいの脚本を元に、ジャムセッションのような感じでレッスンは行われた。組む相手を変えてはひたすら演じ続ける。セッションが終わるたびに、倉田が感想を投げかけた。それが手厳しくも勉強になる。


『もっと動いてみろよ。セリフを動きながら言ってみて。じっとしてたってつまらないよ。英語だと、Ready Action! って最初に言うだろ。演技はアクションなんだ。心も身体も動かさなきゃ』


『どこかで見たような芝居だなあ。あるものなぞってどうするんだよ。そんなに安心したいの? 君が安心したって仕方ないだろう』


『もっと心を動かせって。喉元だけでセリフ言うからそうなるんだ。順番に言うためだけにセリフがあるんじゃないんだよ。まず、心が動く、身体が動く、セリフを言う……って順番。それを圧縮するの』


倉田の口調は柔らかいのだが、言っている内容は容赦なかった。栞は今まで、こういうことはあまり言われたことがなかったので聞いていて興味深かった。


『相手の芝居をちゃんと見ろって。そうすれば勝手に身体が反応するだろ? 相手のセリフよく聞かなきゃ。それじゃあ、聞いてないよ、形だけじゃないか。自分のセリフをただ順番に言うのはダメだよ』


『出し惜しみするなよ。いいカードから切れよ。スタッフの顔色も伺わない、そう、それでいいんだよ。そのほうが自由だろ? 演じていることを自分が楽しまななきゃ、人が見て楽しくないよ』


『セリフ言う前に、いちいちため息つくなって。ブレスの位置が違うよ。不自然だ。振り向くときもそんなにタメを作らないの。それじゃあ、時代劇だよ』


人の芝居を生で見るのは勉強になる。自分ではできないくせに、人の欠点はよく見える。不思議なものだ。倉田が役者たちの芝居を凝視している。予定調和の演技は一切否定していた。


『誰かと同じことはするなよ。そんなの意味ないからな。それぞれやりたいことを表現しなくちゃ。同じセリフでも役者が変われば全然違うんだ。むしろ、それがいいんだ。自分の存在にもっと確信を持っていいんだから。それぞれいいところが違うんだから』


『動くために動いたってダメだよ。動かざるを得なくなるんだ。身体が勝手に動くんだよ』


『アクションとリアクション、それだけ考えてやってみよう。受けの芝居をきちんとする、それが一番上等なんだからね。じっとするなよ。動かないと、自分がつらくなるぞ。いいんだよ、稽古なんだから、色々試してごらん。自分の中を覗いてみろよ、まだあるだろ?』


昼食を挟んで、四時間ほどそういうセッションが続いた。栞はこれといったメソッド演技の下地がないので、素直に倉田のやり方を受け入れられた。どうあれ、今の栞は何かを変えなくてはいけないのだ。栞は今まで感覚に頼った演技をしていた。心を動かしながら身体を使うことをしていなかった。しかし今回は、時々意識しなくても勝手に心と身体が同時に動き、自分でも思ってもいない演技ができる瞬間があった。そんなときに、倉田は「それでいいんだよ」と笑顔を浮かべた。


質疑応答の時間に、誰かが「演技が上手くなるにはどうすればいいですか?」とストレートに聞いた。倉田が少し考えてから言った。


「演技って数値で表せるものじゃないから、一概に上手い下手って言えない。監督によって演技の好みもある。だけど、上達というか、なんなのかを知っていくには、まず『人を見る』ことじゃないかな。今日からでもできることで言えば、一日一本映画を見る。週一回は舞台を見にいく。それを何年も続ける」


質問した男の子が気の抜けた返事をした。


「毎日見て、十年経ったら?」


「3650本です」


「うん、そしたらそれが、その人のベースになって自信になるんじゃないかな。どんな映画でもいいんだ。まずは好きな俳優の出ている映画全部見てみるとかさ。好きな監督の映画を見るとか。そうすると、どんどん自分だけの映画マップができてくるじゃない。


例えば『赤ちゃん泥棒』、コーエン兄弟の初期の頃の映画だよ。この映画、オレはすごく好きなんだ。で、仮に君もこの映画を試しに見てみて面白いと思ったとする。そうしたら、コーエン兄弟監督作品を片端から見てみる。中には当たりもハズレもある。そんなのも発見になるよ。


この映画の主演のニコラス・ケージ、この人もなかなか面白いフィルモグラフィーだから、気になったら見てみる。ホーリー・ハンター、この頃が一番いいんだけど、他の作品も見る。それにフランシス・マクドーマンドな。この人が後々、すごくコーエン兄弟作品に関わってくるんだけど、そんなのもチェックしてみる。すると、この一本の映画から、どんどん自分の興味が広がっていくんだ。それを繰り返していくと、自分だけの映画マップが広がっていく。それがさ、楽しいんだよなあ」


倉田が実に嬉しそうに語った。栞は、初めて聞く映画や俳優の名前に知っているフリをして頷いていた。倉田の話は簡単そうだけど、なかなか根気のいる話だ。


「だからさ、よくある〈見ておくべき映画100本〉なんてのを上から順番に見ていくなんていうのは、俳優じゃないよな。むしろ向いてないよ、その真面目さは」


みんなが笑った。


「俳優はさ、自由でいいんだよ。世の中にふつうにきちんとした奴らはいくらでもいる。そういうところはきちんとしなくてもいいから。俳優は熱量があればいいんだ。だからさ、映画も見方なんて自由でいいんだよ。それが個性につながるから」


「あとはなにかありますか?」


「あとはなあ……やっぱり観察かな。街でもどこでも人がいるだろ。それをよく見るんだよ。ああ、人ってこういうときにこんな顔するんだなあ、とかさ。こんなふうに喋るんだなとか。すぐには使えないよ。でも、なんかの拍子に記憶の引き出しが開くんだ。それは時間が経てば熟成する。そうすると真似じゃなくなる。いなさそうで、いる人に見える。その人の表現になるんだ。引き出しの中にたくさんそういうのを貯めるんだよ。何も入ってないと枯渇するだろ。自分だけを表現の器にすると、すぐ空っぽになるし、飽きられるぞ。


どんどん変化するんだ。変化を恐れないほうがいいんじゃないかなあ。みんなには今の時代を生きている人であって欲しいし。そのためにもインプットを増やさないと。演技するってアウトプットじゃないか、表現だから。みんな、そこにばかり気が行くけど、本当に大事なのはインプットだと思うな。それがその人の表現の根拠っていうかさあ。


それと時間だよ。演技のことや映画のことや、そんなことを考えている時間だ。それって苦痛かな? みんな演技や映画や舞台やそんなのが好きだから俳優やってるんだろ。何も数学や物理の勉強をしようってんじゃない。答えがひとつしかない世界じゃないんだ。ただ、浴びるように見ればいいのさ」


栞は久しぶりにワークショップに参加したので、大いに刺激を受けていた。同世代の俳優たちと一緒に演技することが単純に楽しかった。栞なりに考えた演技が否定されても気にならない。すぐに別の演技を提案できた。そのことが面白くて仕方なかった。思い切り演技をすることが、考えることが楽しいと久しぶりに思えた。悔しさをバネにして参加したはずだったのに、そんなことが小さく思えた。自分で自分を向上させない限り、いつまで経ってもエキストラから抜け出せるわけがない。


 二週目に、栞は集中的にテイクを重ねることになった。今度は、『もう一回——』『他にないのか?』『もっとやりようがあるだろう』『そうじゃないんじゃないか?』くらいしか倉田は言わない。  


栞と、パートナーを組んだ俳優・川上雄二は、ひたすら自分の中から絞り出すように演技を繰り出した。十回を重ねたくらいからあまり記憶はない。


絞り出すと言っても、栞にそう引き出しがあるわけではない。ただ、相手に反応し、セリフがセリフじゃなくなるまで芝居を続けた。マラソンの選手がランニングハイになるようなもので、栞たちもいつの間にか、自分と役との境目がだんだん希薄になっていく。そのうちセリフを言おうとする自分がいなくなり、自然と口からセリフが飛び出した。


何度やり直しを言われても、栞はまったく挫けなかった。何がいいのか悪いのか、自分ではわからない。ただの繰り返しにならないように、ひたすら演技を相手にぶつけ、相手の芝居を受けた。それに今回のワークショップを通して、自分が変わらなくては、絶対に変わるんだという焦燥と強い決意が栞にはある。


ようやく「それでいいんじゃないかな」と倉田が言った。じっと見守っていたみんなも、なんだか頷いて高揚していた。


栞はなんとも言えない気持ちになった。自意識が消え、役と自分が曖昧になった。成り切ったというのとも違う。境界線が溶けてなくなったような感じだ。


「あ‥…。ありがとうございました」


栞はぐったりして頭を下げた。


倉田が、にっこりとして言った。


「山名さん、それをさ、テイク1から出せるようにしてね」


「え?」


栞は意外な言葉に呆気にとられた。


「これはみんなにも覚えていてほしいんだけど、今は予算もスケジュールもない中で作るしかないんだよね、インディーズでは。まあ、メジャーだからといってスケジュールが潤沢なわけじゃない。僕の師匠なんかの頃は、一日中リハーサルやってカメラ回さなかったなんて伝説も許されたかもしれないけど、今、それをやったら監督も役者も仕事がなくなるだろうな。ね、柴崎さん」


「まあ、そうですよねえ」様子を覗きにきていた柴崎プロデューサーが苦笑した。


「昔がよかったのか、それはわからない。今の映像業界が抱えている問題や、その仕組みを変えたほうがいいのは事実だけど、システムが変わるのを待っていちゃ、お互い歳をとっちゃうだけだ。そんなの無意味だ。だから、俳優部のみんなには負担がかかっている時代だと思う。だからこそ、初球にストライクを投げ切る実力と度胸が必要だ。みんな山名さんの最初と最後どうだった」


「全然違いました」最前列で栞たちを凝視していた女優が言った。


「二人とも最初はセリフを言おうとしていたけど、最後はセリフじゃないような……」


「あ、そうそう、なんていうか気持ちのほうが先に見えて」口々に、参加メンバーが感想を言ってくれた。


「そうだよな。ああいう感じを最初から出せるようになれば、どこの現場でも大丈夫だと思うんだよ。芝居が良くて怒る監督なんてこの世界にいないんだからさ。一番、君らが損するのは途中で手を打たれちゃうことだ」


「え?」とみんなが顔を上げる。


「監督が、まあこんな感じでいいかなってさ。あと3テイクあればもっといい芝居ができたとしても、移動しなくちゃいけなかったり、日が落ちそうだったり、誰かを次の現場に出さなければならなかったり、とかさ。それと天秤にかけちゃうの。今のテイクと、どれほどの差が出るかなって。監督を妥協させる罠はあちこちに仕掛けられているし。だからさ、ワンチャンで決め切る覚悟が求められるのさ」


「それって、俳優部キツくないすか?」一緒に組んでいた川上雄二が苦笑した。


「キツイよ。申し訳ないと思うよ。でも、どのパートのスタッフもキツいからさ。そこはあれだよ、今風に言えばキツさのシェアだよ」


「シェアって、そういうときに使うワードじゃないすから」誰かが笑いながら指摘した。


「ああ、そうかあ。確かにそうだな」


みんなが笑った。二週目の後半にもなると、参加メンバー同士も、お互い気心も腕前も分かり、ちょっとした信頼関係が出来上がっていた。一緒に芝居をすると心が解放されていくものだ。


「まあ、とにかくだ。そういう気構えでいたほうがいいぜってこと。よし、今日はおしまいにするか」


倉田が膝を叩いて立ち上がると、皆も立ち上がり「お疲れ様でした!」と元気よく挨拶を返した。




あっという間にワークショップの全行程が終わった。最終日は主催のバーディ・フィルムの計らいで簡単な打ち上げがあった。


栞にはやり遂げた充実感があった。自分が変われたかどうかは他者の判断だ。しかし、自分の中では小さな変革があった。


参加したメンバーは、短期の合宿を終えたような連帯感と充実感に包まれているのが打ち上げの雰囲気から伝わってくるようだった。話が弾み、陽気に笑えた。こういうふうに誰かと笑いあえるのもいつ以来だろう。明日からまた、どこかのオーデションで競い合うとしても、同じ釜の飯を食った感じがするのかもしれない。栞から見ても、かなり変わったと思う俳優が何人もいた。


栞は皆から少し離れ、壁にもたれてビールを飲んでいた。キャスティングの谷川が飲み物を持って話しかけてきた。谷川は前半と後半に二度覗きにきてくれていた。


「栞ちゃん、お疲れ様」


「あ、お疲れ様です」


「最初はまだ恐る恐るだったけど、最後はすごくよかったよ」


「ほんとですか?」


「うん。嘘言ったって仕方ないじゃない。なんか、ようやく覚悟みたいなものが見えてきた」


「覚悟?」


「うん。それがあるかないかで、同じ人でも全然違うのよ」


谷川は二十年以上、映像関係のキャスティング業務に携わっている。彼女の見る目の確かさは業界内でも評価が高いと聞いていた。


「だから、頑張って続けてね。でも、それが一番難しいことなんだよね」


「はい、ありがとうございます」


栞は谷川の言葉が素直に胸に沁みた。続けることは、意思が強くなくちゃいけない。しかし、意思だけで続けられないこともあるだろう。別に誰かが栞に俳優を続けろと言ってくれるわけではない。自分がそれを強く望み続けられるかどうかなのだ。


「選ばれるといいなあ」


「え?」


「栞ちゃんが」


栞はこのワークショップが自主制作の短編映画のオーデションを兼ねていたことを思い出した。


「はい……でも、みんなよかったから」


「その辺は倉田さんも公平な人だからね」


「ああ、ですよね」


栞は倉田が全員に均等に芝居する機会を与えていたことを知っている。


「とにかく、お疲れ様でした」


「お疲れ様です。私、参加してよかったです」


栞はビールを思い切り大きく口に含み、飲み下した。久しぶりにビールが美味しいと感じられた夜だった。






              4






短編映画のオーデション選考の結果は一週間後の朝一に来た。


栞は、着信したメールを慌てて開いた。


栞は……合格していた。栞は拳をぎゅっと握り締め、何度もガッツポーズを繰り返した。メールには短編映画の脚本が添付されている。


『大島カゴメ(22) 山名 栞』


脚本の三ページ目の登場人物表に自分の名前を見つけたときの喜びを、栞は一生忘れることはないと思った。しかも、栞は主役だった。タイトルは『ひとつだけ多い朝』と、手描き風のフォントで表紙にプリントされている。クランク・インは十日後のクリスマスだ。わずか五日間の撮影スケジュールだった。




〈ひとつだけ多い朝・ストーリー概要〉


古道具屋で働く主人公のカゴメは一年前に彼氏を突然死で失った。以来、喪失感を抱えたまま、古い物に囲まれて息を潜めて暮らしている。祖父の代から続く古道具屋の経営は厳しい。祖父も二年前に他界した。そろそろ暮らしも八方塞がりだ。


両親は幼い頃にとうに亡くなり、今は店の二階で一人暮らし。いつも簡素な自炊をしている。たまにくる客としか口を利かない。しかし、ひとりで経営をどう立て直していいかわからない。しつこく地上げ屋もくる。店には時々、死んだ彼氏の幽霊が現れる。何をするわけじゃない。ただ、じっと悲しげな顔をする。初めは怖かったが、やがて慣れた。カゴメは何度となく話しかけてみるが、幽霊は応えない。


そんなとき、駅前で歌う路上シンガーの山地ヒロシの歌を偶然耳にする。その歌に感動し、彼氏を失って以来、初めて心が動く。ふと、閃いて古道具屋をアコースティック・ライブハウスに改造することを思いつく。それから、カゴメは突き動かされたように奔走する。


何人かのミュージシャンがぜひ参加したいと名乗り出て、計画はうまくいくように思えたが、肝心の山地ヒロシが街から消えてしまった。


ヒロシは自分に見切りをつけて実家のある小豆島に帰ってしまったのだった。カゴメは、ヒロシを迎えに小豆島に行く。そして、彼の歌声で自分がいかに助けられたか、ヒロシの歌は必ず人を救うことができると説得を試みる。オープン予定日に無事に幕は開くのか……。




栞は、カゴメになり切って脚本を読んだ。役のイメージがどんどん湧いてきた。セリフも口にしてみた。声の出し方、仕草、アイデアが溢れてきて楽しくて仕方ない。


相手役のヒロシは、ワークショップで散々一緒に絞られた川上雄二だった。彼なら一緒に闘える、そんな気がした。他のキャストにもワークショップで一緒だったメンバーが数人いた。舞台や映画で活躍している俳優も名を連ねている。栞は胸が高鳴った。


衣装合わせ、脚本の読み合わせ、細かい打ち合わせ……それから数日は目まぐるしかった。打ち合わせは栞のバイトのことを考えてくれて『Pirates』で行われることが多かった。店主が半笑いでシフトを調整してくれた。有希も自分のことのように喜んでくれシフトも無理して変わってくれた。


「いや、まじ嬉しいわ。この役、栞にハマってるよ。私じゃ無理だもんなあ、こういう感じ。だから全面的に応援できるっていうか。私も頑張らねばって気持ちがしてくるよ。なんなら、しばらく私がマネージャーだから。」と何かと世話を焼いてくれて、細かい連絡業務まで買って出てくれた。  


栞は周囲のみんなに感謝しながらセリフを覚えた。セリフが身体に染み込んでいくのが新鮮で嬉しい。何しろ、脚本に書いてあるセリフは栞だけのものなのだ。ワークショップのように他の人も口にするわけではない。それがとてつもなく贅沢で輝いて思える。こんな感覚になったのは初めてのことだ。栞の内側から自然と燃え上がるものが湧いてくる。


その火種が自分の心だとある晩気づいた。心の中の薪が、くべなくてもどんどん炊かれていく。




オールスタッフ打ち合わせに各パートのスタッフが揃った。倉田の希望で若手メインキャストも呼ばれた。普通は、オールスタッフはスタッフサイドの最終打ち合わせだ。見るもの聞くもののすべてが、栞にとっては新鮮な刺激だった。


打ち合わせでは、頭からシーンごとに、細かく打ち合わせしていく。時々、助監督の指示で俳優部のセリフを出させられた。川上雄二はセリフを完璧に入れていた。雄二は小さな俳優事務所に所属している。少数精鋭で業界では有名な事務所だ。今回の脚本には、ギターの演奏のシーンもいくつかある。  


倉田が全部生演奏で行くと言った。ミュージックビデオのように音源を流して口パクするのを撮るリップ・シンクロはしたくないそうだ。


「それから他のシーンにも言えることだけど、リハーサルは別として本番はすべて1テイクで行きたいんだ」


「え?」


あれだけしつこくテイクを重ねるワークショップをしてた監督がなぜ? 栞は不思議な気がした。


「だから、俳優部の皆さんもスタッフも集中した仕事をお願いします。もちろん、カットはある程度割ります。割りますが1シーンはなるべく通して回します。各アングル1テイクずつという意味です」


「そのほうが、こっちも気が入るからいいよ」と撮影の井上新一が言った。井上はお互い助手時代から倉田とよく仕事をした仲だそうだ。カメラマンとして独り立ちしてからはまだ日が浅いらしい。


スタッフも俳優部と同じように一回勝負が続くんだ……栞は生唾を飲み込んだ。


 オールスタッフ打ち合わせが終わると、バーディ・フィルムの制作部が作ったカレーが振る舞われた。カレー好きの制作部が食べ歩きを重ねた末、辿り着いたオリジナル・レシピだそうだ。制作部とは、簡単に言えば撮影が円滑に進むよう段取りする専門職である。スタッフの食事のケアもその重要な仕事の一つだ。


栞はそのカレーがあまりに美味しくて驚いた。


「専門店、超えてますね」


「いやあ、それほどでもあるけど」制作部チーフの熊沢が照れたように笑った。これまで数多くのスタッフやキャストを虜にしてきたカレーライスらしい。撮影現場で食べたら数倍美味しく感じるのだろうな……栞はスタッフたちと一緒に食べる日を想像した。


栞の隣に、雄二が二杯目のカレーを持って座った。


「正直、栞ちゃんだと思ってた、最初から」


「え?」


「絶対決まると思ってたんだ」


「そんな」


「よろしくお願いします」雄二が丁寧に頭を下げた。


「あ、こちらこそよろしくお願いします」栞も慌てて続いた。


倉田が二人にはあまり話しかけず、他のキャストに気を配っていた。その意味が、栞にはなんとなくわかった。




あっという間に撮影がやってきた。撮影現場で初めて見た16ミリのフィルムカメラは、かわいらしい機械だった。たまにテレビの撮影現場で見るいかにもハイテク機材という感じが薄く、昔っぽい感じがある。そのスタイルは倉田のたっての希望とのことだった。フィルムで撮影して、それをデジタルに変換しパソコン上で仕上げる。今(ほぼすべての商業作品も含めて)、映画はムービー用のデジタルカメラで撮影されることが主流だ。


「あえてというか、まあ好みの問題だよ。逆張りかな。でも、ミュージックビデオの仕事で何度か試してはいたんだ」倉田が笑いながらそう説明してくれた。


クランクイン初日は、西荻窪の駅前の雑踏を歩くシーンだった。カメラは近所のビルのどこかから狙っていて地上にはない。栞は無名の存在だから街にいる誰も振り向かない。


「自由に歩いていいから」


「あ、はい」


「じゃあ、カメラ回ったらLINEするから、動いて。あ、ここのシーン撮影許可取ってないから」


「え!」


「こんなのいちいち警察の許可なんか取れないでしょ。駅前だもん」倉田はそう言うと、栞を残して雑踏に消えた。どうやらこのシーン、すべての指示はスマートフォンで行われるらしい。


栞は想像していたのとあまりに違う始まり方に動揺していた。しかし、戸惑っている間もなく、数分後にLINEがきて、栞は駅前を歩いた。すぐにOKが出て、その撮り方で何カットか場所を変えて撮影した。


初日の午前中は、そんな塩梅だった。あるいは初日の頭から重いシーンで入らないようにとスタッフの配慮もあったのかも知れない。


昼休憩は三十分ほどで、すぐに古道具屋のシーンがあった。脚本上は前半の静的なシーンが続いた。セリフもあまりない。独り言のような呟きや雰囲気だけで演技しなくてはいけないシーンだ。栞は相当緊張していた。ワークショップでの厳しさから、かなりハードな撮影を想像していたからだ。しかし、倉田はどちらかというと淡々と撮っていた。栞はOKが出るたびに、逆に不安になっていった。


「監督……私、大丈夫ですか?」


「え? すごくいいよ」


「ほんとですか? ていうか監督あんまりもう一回とか言わないから、ちょっと不安で」


「え? 言われたいの?」


「いや、そういうわけじゃないんですけど」


栞は口篭った。なんだか事前の予想とあまりにも違うのだ。


「そんな心配しないでよ。山名さんは自分の感じた通りやってみて。他にも見てみたいなと思ったら、ちゃんと言うし」


「あ、はい」


「じゃあ、ナイターもよろしくね」


倉田がそう言い残し、カメラのほうに戻った。


その夜はシャッターが降りた商店街で、雄二(=ヒロシ)が歌うのを初めて見かけるシーンもあった。前半の重要なシーンだ。雄二は控え室も兼ねた古道具屋の片隅で覚えたての曲の練習をしていた。


「コード進行が変わってて超むずいよ、この曲」


「そうなんだ」


「うん」雄二はギターが上手かった。学生時代にはバンドを組んでいたそうだ。


「こんな形で実現するなんて、まじ奇跡だよなあ」


「え?」


「役者ってさ、何やっていても何かに跳ね返ってくるんだね。それがいつなのかはわからない……先輩からそんなん聞かされてたけど、まさか自分にそれが今返ってくるとは」


「ああ……」


「ギターやってて、まじ自分に感謝だわー」


栞はその言い方がおかしくてくすくす笑った。


助監督の結城が、「そろそろ現場お願いします」と呼びに来た。二人は、歩いて現場に向かった。




次の現場は、シャッターの降りた西荻窪の商店街だ。まず単独で歩くカゴメ(=栞)が撮影された。ずいぶん先に少し人だかりができていて、そこでヒロシ(=雄二)が歌っている。カゴメがその輪にふと足を留める……。ヒロシとの出会いになる重要なシーンだった。


撮影にはクラウドファンディングに参加してくれた人たちが、エキストラで参加してくれていた。クラウドファンディングは、今回の映画のような作品にはありがたいシステムだ。名も無きインディーズ映画に自主的に観客が先行投資してくれているのだから。


(お金を払ってエキストラにまで参加してくれるなんて神レベルだな……)


栞は助監督の指示を聞いている参加者に感謝した。心なし彼らに対する助監督・結城の指示も優しく聞こえる。


まず俯瞰からのショットがあった。借りたお店の二階がカメラポジションだ。そのカットはすぐに終わった。エキストラ越しにヒロシが歌うカットは、歌の同録もあった。これも1テイクで終わった。撮影部がアングルをパッパッと変えて押さえていく。ヒロシはただ無心に歌うことに集中していた。ヒロシ(=雄二)はとても澄んだ歌声をしていた。


そして、ヒロシ側からのアングルでカゴメ(=栞)を撮るカットになった。セリフのないカットだ。表情だけで表現しなくてはいけない。リハーサルが繰り返されたが、なかなかOKが出ない。栞は自分が今までの撮影のリズムを壊し始めたことに内心焦り始めた。焦ると芝居が浮ついた。


「もう一回」「なんかないの?」「他には?」 


(出た……。ここで、千本ノックみたいな演出がくるとは……)


「はい。やってみます」


栞は繰り返し頷きながらカメラの前に立った。そのうち回しながらやろうと倉田が言い出した。しかし、何度撮ってもOKは出なかった。


「ロールチェンジでーす」


撮影部の助手が声を上げる。ロールチェンジとはフィルム交換のことだ。そこで数分ブレイクとなる。今回、本番はワンテイクしか撮らない……はずだったのに、すでに栞のせいで予定は変わってしまった。


栞は完全に焦っていた。頭の中がどんどん白くなっていく。すぐにロールチェンジが終わり、再び撮影になった。


「カゴメはさ、ヒロシの中に何を見つけたの? それが見えないんだよ」


「何でしょうか?」 


「それを考えるのが君の仕事だろう」


「あ、はい……」 


栞はますます追い詰められていった。 


「監督、送りは出せないから粘るのは終電逆算してまでですよ」と柴崎プロデューサーが耳打ちしているのが聞こえてしまう。倉田が無表情に頷いていた。


送り、とは撮影用語で、〈タクシーで、スタッフやキャストを送る〉ことだ。予算がないのだから、今回は朝早くから終電ギリまでですよということの確認でもある。耳が過敏になっていて、変な自意識が顔を出しそうになる。


「遠いところに住んでいるエキストラの方は、言ってください。すいませんが、いつでも帰れるようにしておいてくださいねー」と助監督の結城の指示が飛んでいた。


エキストラたちが栞をチラチラ見る。それも焦る原因になった。ついこの間まで、自分はあちら側で同じことを考えていたのだ。いつになったら撮影は終わるのか、なんでこの俳優はちゃんとまともに芝居しないのか? 栞の自意識が胸にもたげてくる。それをなんとか振り払い、必死にイメージした。


(何を見るんだろう? 何が聞こえるんだろう? カゴメはどうしてここを歩いていたんだろう?) 


栞の頭の中をぐるぐると自問自答が駆け巡る。 


ロールチェンジが終わったとの撮影部の声が再び上がった。


栞は集中した。集中してカゴメの置かれた状況をもう一度反芻した。


「あっ」


「え?」隣にいた雄二が振り向いた。


栞は商店街のシャッターを見つめ、目を軽く瞑ってさらに気持ちを集中した。


栞は次のテイクでさっき胸に感じた感覚をカメラに向けて出してみた。


「はい、OK!」


倉田がようやくOKを出した。エキストラたちからもパラパラと拍手が起きた。倉田を見ると栞に小さく頷くだけだった。それでも栞はホッとして大きく息を吐いた。


雄二がすれ違いざまに「お疲れ」と言った。雄二は栞に付き合って、自分は映っていないカットなのにずっと歌い続けてくれていたのだ。


「あ、お疲れ様です」栞は慌てて返事をした。 


「えー、本日の撮影終了です。明日は古道具屋の琥珀堂さんに七時集合になりまーす。エキストラの皆さん、スタッフの皆さん、本日どうもお疲れ様でしたー」 


結城助監督の声が商店街に小さく響いた。スタッフたちは速やかに撤収を始めている。長かったような短かったような一日が終わった。脱力していると、休む間もなく、近くに待機していたハイエースの中に誘導され着替えだけ済ませて、栞と雄二は電車で帰された。日付が変わりそうな終電ギリギリだった。


二人は吉祥寺までJRに乗った。雄二は吉祥寺に住んでいる。そこで別れてから、栞は井の頭線に乗り換えた。ガラガラの車内に座っていると、今更ながら興奮と手応えが感じられた。そして、カメラの前で何をすべきだったのかに気づいた。


(……希望だ。希望なんだ。きっとそれを最初から心に感じなくちゃいけなかったんだ。ヒロシの歌を聴いてすぐじゃなくて、それをカゴメの胸に染み込ませてからグラデーションで感情を表現するんだ。私の心の中に湧いてくる最初の感情が大切なんだ。でもそれだけじゃ足りなくて、それを人に伝わるよう演技として出せるかどうかなんだ。なんで早く気づけなかったんだろう。撮影現場で感じたままを出すのって、とっても難しいことなんだ。……楽しい。映画って苦しくて、楽しい……)


栞は気持ちを抑えられず、車内の中で一人足踏みをして興奮した。


翌朝、栞は張り切った気持ちで撮影に向かった。昨夜のラストカットできっかけを掴めた栞は、朝一のシーンから役を生き生きと演ずることができた。


時々、倉田が「他にもある?」と聞いてきたので、そういう場合は栞のその場で感じたことを別の形で表現した。「そっちのほうが伝わるかもしれないな」と言って、倉田が栞の提案にOKを出すことも増えた。


(監督は、作り手でもあるけど最初の観客でもあるんだな……)


時々、栞はそんなふうに倉田のことを感じる。倉田に自分の考えているプランがないわけではないだろう。しかし、それより栞が感じたことを表現できているかどうかに重きを置いてくれているように思われた。共同作業で作品を作り上げている実感が持てるのが嬉しい。しかし、そんな喜びをじっくり噛み締めていられるようなスケジュールではなかった。今日もスタッフやキャストと雑談をしている暇すら全くないタイトなスケジュールだ。ごちゃごちゃした店内では朝からずっとカメラが回っている。ロールチェンジの短いブレイク以外はほとんど演技し続けている。


(カゴメのままでいたほうがいい……)


栞は気持ちをそちら側に切り替えた。すると、さらにセリフが自然に口から溢れた。喋っているのが役本人だからだ。その日も脚本を十五ページ以上撮影した。一日の経つのが本当に早く感じる。ぼんやりしているだけで過ぎていった日々に比べて、あまりにも濃密な時間だ。ひと月前の五分と今日の五分では時間の持っている意味すら変わっていた。その五分の間にフィルムが何フィートも回り、栞たちの演技が記録されていく。そのことの不思議を考えざるを得ない。自分が生きている実感が刻まれるのが嬉しい。


翌日はもう移動日だった。ロケスタッフは最小限に絞られていた。品川に朝六時に集合し、六時半の新幹線のぞみ号に乗って岡山まで行き、すぐに瀬戸大橋線マリンライナーに乗り換えると、高松で降りる。そのまま少し歩いて高松港に向かった。そこからはフェリーだ。


海を見るのはいつ以来だろうか……栞はデッキで潮風に吹かれて柔らかい気持ちに包まれていた。栞は二日間続いたハードな撮影のせいで、移動中はほぼ寝ていて、気がつくとフェリーの上で潮風に当たっていた感じだった。瀬戸内の海は見渡す限り凪いでいて穏やかだった。天気も温暖で東京よりずっと暖かい。雲間から射す柔らかな陽光が目にやさしい。いくつかの大小の島々が点在しているのが見える。目指す島がぐんぐん近づいてくる。栞にはそれも新鮮な景色だった。


さっきまで東京にいたのに。案外と日本は狭いのかも……栞は海風に髪を流しながら不思議な気持ちになっていた。自分が、自主制作とはいえプロの人たちに囲まれて映画に参加していることがまだうまく信じられない。夢ではないだろうか、何度もそう思ってしまう。だけど、これは現実だ。旅に来ているのではない。気を引き締めなくちゃ……栞は潮の匂いを大きく吸い込んだ。


三十分ほどフェリーに乗っているとお昼ちょうどに小豆島土庄港に着いた。港には小豆島のフィルムコミッションの人たちが迎えにきてくれていた。皆、ニコニコしていて、こちらまで嬉しくなる。小さな作品であっても撮影クルーを歓迎してくれているのが伝わってくるのだ。バーディ・フィルムの柴崎プロデューサ―が以前別件の仕事で、こちらで大変世話になったらしく、その後すっかり懇意になり、今回ヒロシの実家をどこにするか決める際に、監督に小豆島はどうかと提案したのだそうだ。


確かに西荻窪のいかにも東京の下町的なごちゃごちゃとした感じとの対比としては、相応しいのんびりした穏やかなロケ地だった。


待機していたハイエースに乗せられると、すぐにロケセットに向かった。場所は実際に生活している民家を借りて撮影することになっている。


高台にある民家に着くと、栞と雄二はすぐに着替えてメイクすることになった。


控え室に借りている座敷ではヒロシの母親役の葉月良子が弁当を食べていた。


葉月は今回の作品のようなインディーズ映画によく出演していた。雑誌のファッションモデル出身の女優で、1990年代に多く作られたサブカルチャー的な映画からキャリアをスタートした。今ではテレビドラマやメジャー映画、そして舞台と活躍の幅を広げている。倉田とは助監督時代からの長い付き合いだそうだ。


「あ、おはようございます」


「お疲れー。先に食べてるよ。美味しいよ、地元のお弁当」葉月が二人に気さくに声をかけた。


「山名栞です。よろしくお願いします」


「川上雄二です。よろしくお願いします」


 栞と雄二はきちんと挨拶をした。


「葉月良子です、こちらこそよろしくお願いします」


葉月が二人に挨拶を丁寧に返したあと、砕けた口調で言った。


「関西で仕事だったからさあ、大阪から来たら一本早いフェリーになっちゃったよ」


その口調で、一瞬にして場の空気が和んだ。


「ああ、それでなんですね。いつお会いするのかなって」


「ああ、ごめんごめん。どう? この二日間の感じ」


「いやー、考える間もなく、バンバン撮り続けてるっていうか」


雄二が弁当を栞に渡しながら葉月に説明した。


「だよね。このスケジュールで、考えてやってたら終わらないもんね」


「私は楽しいです。ずっとカゴメでいる感じが、すごく」


「そう。いいなあ、そういう鮮度のある反応」


栞はテレビや映画で見ていた人が、目の前で気さくに話してくれていることが信じられなかった。もうすぐこの人と同じフレームの中でお芝居できる、そう思うと胸が躍った。




一時間半後には、栞と葉月はカメラの前で向き合っていた。


栞はそのシーンを葉月と初めて会ったときの印象をそのまま演技に乗せてやってみた。葉月が栞を柔らかいクッションのように受け止めてくれたので、安心して自分を任せることができた。葉月は控え室で会った華やかな感じを一切消して、小豆島に住む人になっていた。衣装や髪留めも予定されていたものではなく、借りていたお宅のお母さんの私物を借りたらしい。そういう現場での空気を取り入れるコミュニケーションが、葉月は抜群にうまかった。


「どう、映画って」


葉月が待ち時間に蜜柑を剥きながら話しかけてきた。


「え? ……まだ、何もわからないっていう感じです」


「いいのよ。わかっちゃうとつまらないから」


「そうなんですか」


「できるだけ、私もわからないようにしてる。ていっても、何十年もやってると多少はわかっちゃうけどね。でも、なるべく」


栞は頷いて蜜柑を食べた。先輩俳優と撮影現場で話している自分がくすぐったかった。今は天気待ちだ。こういう時間はエキストラをしているときは、ただ苦痛でしかなかった。しかし、今はその時間がむしろ贅沢な時間に感じられる。


二人は民家の南向きの縁側にいてスタンバイしていた。さっきまで出ていた陽射しが雲に隠れてしまっていたのだ。


「葉月さんは私くらいの頃、どんな感じでしたか」


「私? もがいてたなあ。あなたくらいの頃。だから、いつまでもそんな気持ち忘れないために、こういう作品にも出させてもらうようにしてんだ。思い出すのよね、損得で芝居やらないこと。それに、あなたみたいな新しい女優にも会えるし」


「いやいやいや、まだ、私は女優とかそういうんじゃ」


「あ、覚悟決めなさいよー。あなたがいなかったら、この作品は成立しない。あなたが倒れたらみんなの苦労がパーになる。責任があるんだから」


「あ、はい……」


栞は姿勢を正した。葉月の言う通りなのだ。その自覚がまだなかったかもしれない。


「だけど、選んだほうが悪いくらいの気持ちでさ、あなたは思い切りやればいいのよ」


「はい。ありがとうございます」


ようやく雲間から顔を出し始めた陽が、あたりをうっすら照らし始めた。


「お、いよいよかなあ」


ちょうどそのとき、助監督が飛んできた。


「今、陽がいいんで、ここで行きます。お願いします」


「よしっ、一発で決めてくるか!」葉月が栞の背中をポンと押した。


「はい、お願いします」


栞は勢いよく立ち上がった。空を覆っていた雲の隙間から太陽が顔を出した。島の高台にあるロケ現場が瀬戸内の柔らかい冬の日差しに照らされている。またいつ雲間に入るかわからない。二人はカメラのほうに急いだ。




翌日。志半ばで戻ってきた息子を再度東京に送り出すオリーブ畑でのシーンで、葉月は実に滋味深い演技をしていた。息子が帰ってきたことが嬉しかったのに、東京に未練があることをすぐに見抜き、迎えにきた(栞が演じる)カゴメとともに東京に戻そうとする。葉月は息子役の雄二の自然なリアクションを引き出していた。


脚本に書いてあるセリフとセリフの間にある『……』は、俳優の感性に委ねられている。凡庸な間か、絶妙な間か、俳優のセンスが問われる。葉月の間の撮り方は、本当に素晴らしいと栞は見惚れた。


雄二(=ヒロシ)が、農作業用のグローブを母に返して、カゴメを追って走り出した。それを葉月(=母)がなんとも言えない微妙な笑顔で見送っている。


「カット! はい、OK!」


倉田監督の声がかかった。斜めに射した日差しが柔らかくて、抜けの穏やかな海がとても綺麗だった。


栞の目は、倉田の覗くモニターに釘付けになった。


(カメラのフレームの中で演技をするってこういうことなんだ……これがプロの演技か。私にはまだこんな芸当は到底できない)


小豆島での最後のシーンは、フェリー乗り場だった。


東京に戻ることを決意したヒロシ(=雄二)がカゴメ(=栞)に追いつき、無言で手を掴み、そのまま手を引いてフェリーに飛び乗る。怒ったような顔のヒロシ。その三十メートルくらいの間に、カゴメの表情に、驚き、高揚、恋心……そんな色々な感情が溢れていく。カメラはそれをハイスピードで、移動しながら撮影する。セリフはない。感情だけ。スタート位置とゴールだけが指示された。


「じゃあ、あとは二人に任せるよ」


「え?」


「このときのカゴメの気持ちを一番知っているのは山名さんだろう?」


「え、はい……はい、そうです」


「なら、それでいいじゃないか。少し考える時間いるか?」


栞は首を横に小さく振った。


「大丈夫です。やれます」


「よし、そうじゃなきゃ」倉田が嬉しそうに微笑んだ。


栞の奥では助走のためにずいぶん距離を取った雄二が、ぶつぶつと言いながら自分を鼓舞していた。二人のタイミングや感情がシンクロしなくてはいけないシーンだ。カメラの動きもある。


(でも、それを考えるのは今の私の仕事じゃない。私のやること、二人のやることに集中していればきっといいシーンになる)


栞は目を軽く瞑って心を一旦真っ白にした。無駄な心臓の鼓動が遠のいていった。


(これから、起きることに心も身体も委ねて、あとは、勝手に私の中のカゴメが反応するはずだ……)


撮影部がカメラをスタート位置に構えて、倉田の掛け声が港に響いた。


「よーい、スタート!」


フィルムが勢いよく回った。


栞(=カゴメ)は大股で歩き始めた。後ろからヒロシが走ってきて、カゴメの腕を掴んだ。その手はカゴメの手をぎゅっと握り、フェリー船のほうに向かう。カゴメは驚いてヒロシの顔を見上げる。ヒロシは真っ直ぐ前を向いている。その横顔を見た瞬間、栞の心に変化が起きる。一瞬の確信から……笑顔に。やがて、目が潤む。でもカゴメは涙なんか流さない。カゴメはただ手を引かれているだけでなく、ヒロシの前に出るようにして引っ張った。それをまたヒロシが追い越して引く、そして、二人は同時にフェリーに飛び乗った。


わずか一分にも満たないシーンだ。


「カットーっ! はい、OK!」


栞は、大きく息をついた。


(あれでよかったんだ……)


「じゃあ、元の位置に戻ってください! 次、カゴメのバストアップ行きまーす」


「え?」


まさかのアングル替えだった。雄二は、すぐに戻る準備をしている。


「ほら、フェリー出ちゃうから急いで」助監督の結城が栞を急かせた。


「あ、はい」


栞も急いでスタート位置に戻った。そして、それから三つアングルを重ねた。どのテイクも一発でOKが出た。その度に、栞は小さな自信を積み重ねた。


(私はできる。ちゃんとできる……)


その気持ちが、その後の芝居にゆとりを生んだ。フェリーの船上でのシーンでも、テイクごとに少しずつ芝居を変化させることもできた。より自由な表現ができた。すると雄二もそれに応えた芝居を返してくれる。もちろん緊張はしているのだけど、リラックスもしている。心も身体も自由に動ける。


栞は、自分に少しずつ確信を持てるようになっていた。




東京のロケ舞台は数日前と同じ西荻窪だ。倉田監督が長くこの街に住んでいるので、色んな意味で融通が利くらしい。地元だけあって街の路地の一本一本に詳しい。生活道路や店先など、切り取るアングルにこの街で暮らす人たちのリアリティがあった。


ロケセットのメインは古道具屋だ。昭和の頃から営業している『琥珀堂』という店を借り切っている。倉田が昔から馴染みらしい。そこを舞台に前半のシーンも撮っている。後半のシーンは、店をアコースティック・ライブもできる古道具屋に改造しなくてはいけないので、引っ越しトラックがやってきて、あらかたの古道具を運び出してしまった。店主(オーナー)に見せると気を失うからと、店主には箱根湯本の温泉宿に招待して遊びに行ってもらっていた。


「こんなところ見せたら出入り禁止になるからなあ」倉田が笑いながら、古道具屋の店主を送り出したそうだ。その入れ替えの隙に、小豆島のシーンがあったというわけだ。


 ライブシーンでは、数組のインディーズ系ミュージシャンが友情出演して一曲ずつ披露することになっていた。


ヒロシが歌う楽曲は、この映画のサウンドトラックも手がけるアーティストがオリジナルを二曲作った。その曲は不思議な魅力に満ちていた。繊細でメロディアスでどこか異国の匂いがした。確かに物語の中のカゴメが一瞬で心が奪われるような曲だった。


その曲を雄二はかなり根を詰めて練習していた。雄二の中からその曲が生まれたように歌うのは、結構難易度が高いことだったと思う。しかし雄二は嬉々としてそれに取り組んでいた。その一曲が、初日に撮影した曲だったのだ。


後半部で小豆島から戻ってきた二人が新装開店準備に追われながらも充実した時間を過ごす。そこに突然死したカゴメの彼氏ソウタのそっくりな地上げ屋の手先が現れて、何かとトラブルを起こす。その役にはワークショップで一緒だった俳優・有働秋彦が選ばれていた。


その地上げ屋の男がカゴメに一目惚れすることで三角関係めいた喜劇調のシーンがあり、カゴメが啖呵を切るシーンもあった。恋に敗れた地上げ屋がやがて街を去り、ヒロシがチューニングを始めて、静かに歌い出す。新装開店して、店は新しい命を吹き込まれていく。カゴメにもまた新しい日常が始まる。ヒロシは、時々店に来て歌う。二人の距離は縮まったが、それが恋になるのはまだこれからだ。


ラストカットは、カゴメ(=栞)の横顔だ。ヒロシが客の前で歌っている。それを店の入り口で聞いている。ファーストシーンのカゴメとは明らかに違う表情だ。それが主人公の変化であり、栞が作品を通して成長できた表情でなくてはいけない。


カメラマンの井上がカメラを覗いた後に三脚の高さの微調整があった。倉田もファインダーを覗いて静かに頷く。


栞はずっとカゴメになったまま、ヒロシのギターの練習を聞いている。役と栞は一体化している。やがてカメラが回り、ラストカットが始まった。栞はカメラを意識していない。自意識がなくなり、役の日常をそのまま生きている。カゴメ(=栞)は、ふと口をついた童謡を歌った。脚本には書いてないことだった。




かごめ かごめ


かごのなかのとりは


いついつでやる


よあけのばんに


つるとかめとすべった


うしろのしょうめんだーれ




栞は小さな声で歌い終わると、唇の端で微笑んだ。


静寂。そして、


「カット! はい、OK!」


倉田の声が響いた。カチンコが二度鳴り、カメラのゲートチェックがあった。倉田が小さく頷く。そして、助監督の結城が大声で叫んだ。


「えーっ、これで『ひとつだけ多い朝』全シーン、全カット終了です! 皆さん、どうもお疲れ様でしたーっ!」


全員が拍手した。栞は全力で両手を突き上げた。






              5 






 撮影を終えると、栞に今まで通りの日常が戻ってきた。映画の撮影はよく祭りに例えられる。たとえ小さな作品であってもそれは同じだ。終わってしまえば高揚感の記憶だけが残り、退屈な日々が始まる。しかし、栞はそれを次の祭りに参加するまでの準備期間と捉えることができるようになった。


栞は年の瀬の喧騒に溢れた下北沢の街を歩きながら、買い物リストに目を送った。駅前のスーパーでレタスとトマトをいくつも買い、ハムとチーズを買った。DAISOで店主に頼まれた掃除用の洗剤類を大量に買い、重い手提げビニール袋を二つ抱えて『Pirates』に戻った。撮影で休んだ分、栞は年末年始を働かなくてはいけない。


カウンター内でチーズケーキを均等に切り分けていると、川上雄二が古賀大介と一緒に現れた。


「いらっしゃいま……」


「お疲れー」雄二が笑って言った。


「え?」


「あ、俺たち友達だから」大介が屈託ない声で言った。


「え? そうなの。全然知らなかった」


「言ってねえし」雄二がケラケラ笑った。


「栞ちゃんは俺の胸で泣いたことがあるんだ」大介が雄二に自慢げに言う。


「は?」栞が聞き咎めた。


「は?」大介が返した。


「泣いてねえし」栞が捨てるように言うと、


「泣いたし」大介もおうむ返しに言う。


二人の会話は省略した短いものがいつも多いが、それが二人のリズムだった。


「ほんとに泣いたの?」雄二がニヤついて聞いた。


「あ、向こうに席あるよ」栞はそれをかわすようにして二人に顎で奥のテーブルを指した。


「不味いコーヒー。それと不味いチーズケーキ二つ」


「はいはい」


雄二と大介がじゃれ合うようにしてテーブル席に向かった。栞は呆れて苦笑しながら、チーズケーキを皿に取り分け、カップとソーサーをお湯で温めた。


栞がコーヒーを持っていくと、大介が話しかけてきた。


「ねえ、年跨ぎ公演あるんだけど見にきてくれない?」


「何それ?」


「うちの劇団の若手で、大晦日の二十三時開始で元旦の一時までアトリエで芝居やるんだよ。そのあと、希望者は北澤八幡に初詣するの。で、帰りに『茄子おやじ』で初カレーを食べるっていう」


「へえ、楽しそう」


北澤八幡宮はこの辺りで一番由緒ある大きな神社だ。夏にはお祭りもある。


「俺も出るんだ」


「え、おめでとう! いくいく。有希も誘っていい?」


「二人分席押さえるよ」


「あ、私はここが二十二時まであってクローズやるから、ギリかも」栞が悪そうに言うと、


「大丈夫。開演しないで待ってるから」大介が嬉しそうに笑った。


「俺も行くよ」すかさず雄二が話に割り込んできた。




大晦日の劇団のアトリエは七十人くらいの芝居好きで集まっていた。年の瀬らしい普段着とは少し違う空気感が会場に漂っている。何しろもう少しで新年が始まるのだ。


今夜の演目は、別役実の戯曲だ。一つの役を何人が交代しながら演じるという顔見せ興行のような形だったが、それがかえって役者の個性比べができてお祭りらしさがあった。栞は別役実の芝居を見るのは初めてだった。言葉がすごくきれいで、どこか童話的で、ちょっと不条理なのだが、とても楽しんで見ることができた。大介が、その世界観の中で生き生きと芝居をしていた。


(こういう演技する人なんだ……)


栞は大介の演技のリズムが面白いと思った。よく見ているとセリフを相手に返すテンポが他の人とほんの少し違う。それだけで独特の間が生まれる。考えてみれば、大介がちゃんと演技をするのを見たのは初めてなのだ。


 芝居が終わると、出演者たちから謹賀新年の挨拶があり、お神酒がアトリエの中で振る舞われた。栞は紙コップの中の日本酒を一息に煽った。身体中に血が巡っていくようだった。


「芝居どうだった?」


「面白かったよ」


「俺は?」


「すごく面白かった。変な間。それがすごくいい」栞は正直に大介の演技の感想を伝えた。


有希も初めて見る『東京ボルテージ』の芝居を楽しんでいた。


「こんな近所にいるのに、今まで見なくて損してました」


「でしょ? もっと若い人に見てもらいたいんだ。最近、お客さんの年齢層高いから。まあ、その分こっちは怖いんだけどね」


雄二は普段から演劇を見ているようで、感想を専門的に語っていた。


「お前、めんどくさいこと言うなよ」


「いや、うちの事務所の先輩の芝居見にいくと、もっとめんどくさいから」雄二が口を尖らせた。


栞は地明かりがついたアトリエの美術セットに目を向けた。さっきまで照明が当たり、芝居の世界観を自分たちに見せてくれていた美術セットは、明るくなると魔法が解けたように見えてしまう。


「いつか、舞台やりたいなあ」雄二が俄然、舞台に興味を示していた。


「みんなそう言うのさ。だけど、舞台は厳しいよ。難しい。あ、映像が楽ってことじゃないんだけどね」大介が少し格好をつけるようにして言っているのがおかしい。


「そうなんだ」有希が感心したように相槌を打っている。


「俺たちだって、この前大変だったよなあ」雄二が栞に向かって同意を求めるかのような口調で話を振ってきた。


「まあねー」栞は少し意味ありげに相槌を打つ。


「あ、恋人役やると、そういう感じになるんだ」有希がすかさず冷やかした。


「そうじゃなくて、むしろ戦友的な?」栞があわてて言い訳をする。


「あー、逆に羨ましい、そういう感じ」有希がオーバーに言うと雄二が笑った。


「初詣いく?」と大介が話を変えてきた


「行きます」栞も有希も手をあげた。


「じゃあ、すぐ着替えてくるわ」大介が急いで楽屋に消えた。




初詣に訪れた北澤八幡神社は長い行列ができていた。創建されたのは戦国時代とも言われている由緒ある神社で、世田谷区下北沢周辺に住む人々に長年愛されてきた。ここで参拝して一年を始める地元の人が多いのだ。一行はそれぞれ知人・友人がグループになり、なんとなくわらわらと列に並んだ。


真夜中の元旦の夜は凍えるほど寒い。空にはくっきりと月が浮かんでいた。澄み切った夜空だ。栞はさっきアトリエで飲んだ日本酒の酔いがすぐに醒めてしまった。


「ここはさあ、下北沢に住む人たちの心の拠り所だから」と大介がオーバーに言った。


「お前、そんな信心深かったの?」雄二が茶々を入れる。


「来たことなかったね」


「うん」


栞も有希も、この街に来てからまったく街の周囲に関心を向ける余裕がなかった。


「ほら、役者って、縁起とか気にするじゃん。厄払いも、役を払うからしないとか」


「あ、それ聞いたことある」栞は合いの手を入れた。


「それにパワースポットなんでしょ、この神社」有希が話に乗ってきた。


「らしいよ。それに技芸上達に御利益があるんだって」


「ギゲイ?」栞はその言葉の漢字すら浮かばなかった。


「芸事。俺たちだって一応役者なんだから。演技も芸なんだからさ。演ずる技術って書いて演技じゃないか」大介が自慢げに解説をした。


「あ、そっち」有希が笑った。


「しかし、寒くね?」雄二が身震いした。


「まじ寒い」栞は肩をすくめてマフラーに顔を埋めた。


四人は固まって少しずつ進んだ。年を一緒に越すと、なぜか急に距離が近づくのが不思議だった。


栞たちは一時間以上かかってようやく初詣をすることができた。お参りを済ませたときにはすっかり身体が冷え切ってしまった。それでも、今年はやってやるぞと力がみなぎってくるのを感じていた。


帰りに南口の路地裏にある『茄子おやじ』でカレーを食べた。カレーの街でもある下北沢で、今や一番古参のカレー専門店である。店内は初詣帰りの客で賑わっていた。熱くてスパイスの効いたカレーが身体を温めてくれる。栞たちは四人がけの席に座っていた。


「栞ちゃんは何をお願いしたの?」とカレーを頬張りながら大介が聞いてきた。


「そんなの言わないよ。言ったら御利益なくなりそう」


「俺は、あの映画が劇場で公開できますようにって祈ったよ」と雄二がさらっと言った。


「まだ公開決まってないの?」大介が聞いてきた。


「渋滞が起きてるらしいよ。コロナで公開できなかった作品多いから。それに、もともと公開が決まってるから撮るとかじゃなかったらしいし。監督とプロデューサーが自腹切って作った映画だからね、あとクラファンで集めたって」と雄二が説明した。


「そうなんだ、厳しいなあ。お金出してくれた知らない人たちに感謝だよなあ」大介が妙に感心した声で言った。


「ほんと。でも、出られてよかった」栞もついしみじみと言った。


「いいなあ。私も今年はそう言える作品に出会いたい」有希がそう言うと、大介も相槌を打った。


「まだ、始まったばかりじゃない。今年も、私たちも」


栞はコップの水を飲み干してから、自分に言い聞かせるように言って手際よく空いた皿をカウンターに運んだ。


「職業病だ」有希が笑った。


「ほら、並んでる人がいるから行くよ」


栞たちは店を出て真夜中の下北沢を歩いた。通りには元旦の真夜中なのに人が多い。四人の吐く白い息が重なり合うように頭上に流れた。


「じゃあ」


「うん、また」


大介と雄二が芝居の打ち上げに参加すると言って会場の居酒屋に向かった。


栞と有希は住宅街を歩いた。街灯に照らされた二つの影が長く伸びた。


「いい年になるといいね」


「うん。お互い頑張ろう」


二人は腕を組んでアパートへ急いだ。その夜の東京はかなり冷えて零度を下回った。




正月の二日から『Pirates』は開いた。もちろん栞たちもシフトに組み込まれている。この街には家にいたくない人が多いのか、帰省しない人が多いのか、店は午前中から繁盛している。サンドイッチもチーズケーキも普段の倍以上オーダーが入っていく。栞は厨房に手伝いに入って、パンを切り具材を挟み卵を茹でた。


お節料理を食べる人が減ったのだろうか。栞はそんなことを考えた。栞たちにしたって、パックの切り餅を焼いたのをカップヌードルに浮かべてお雑煮がわりにしただけなのだ。


栞は朝から晩まで働いて、帰るとベッドに入ってパソコンの画面で映画を見た。映画館に行ったほうがいいのはわかっていたが、時間もお金もない。配信はありがたいものだと栞は思った。


自分の映画の公開を願いながら、アパートの部屋で映画を見る矛盾に少し心が痛んだが、物語を見ているとそのうちすぐに寝てしまう。映画の中で、どこかの国の俳優が喋るセリフが子守唄だった。


一月はあっけなく過ぎていった。インディーズの映画に一本出演したからといっても、世界が変わるわけではなかった。相変わらず栞のことを俳優として認識している人はいなかったし、仕事も変わるわけではない。


栞は、変わり映えのしない毎日に変化を求めて、映画を見ていた。どんなにつまらない一日であっても、一日の終わりに面白い映画に出会えたら最高の一日になる。世界は映画に溢れていた。あらゆる国に映画を作っている人たちがいる。栞は映画に対して、それまで考えてみたことがなかった視点を少しずつ持てるようになってきていた。スマートフォンをいじっている時間をなくせば、映画一本見る時間など余裕で日々捻出できる。栞は、遅れていた勉強をする受験生のように映画を見続けた。見終わると、作品の題名と感じたことなどをスマートフォンにメモする。休日には一日に四本、五本と見たりすることもあった。それがリズムになると映画を見ていないと落ち着かない。


アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イラン・インド・韓国・中国・日本・イタリア・北欧……世界中の言語が狭いアパートに響くようになった。


「インターナショナルな2DKになったもんだ」


有希が笑いながら、時々鑑賞に付き合った。「この女優さん好きだなあ」と有希が言うのは大抵個性派の女優だった。有希は、このところいつもパソコンでグラフィックを作っていた。そのBGMに映画の音声はすごくいいらしい。


 新しい年が明けて、栞は始めたことがある。InstagramやYouTubeでの発信だ。今までもアカウントはあったが、それに加えて別アカウントで新しく始めた。


戯曲の朗読や古典とされている作品のシナリオを抜粋して演じて動画にすることにした。『役者の仕事は待つことだ』と先輩たちは言う。多分そうなのだろう。しかし、待つだけでは栞のような存在は埋もれてしまう。そこで、有希と相談し、やれることを自分たちでやってみることにしたのだ。時にはお題を決めて二人でエチュードをする動画をアップした。


当然、好意的なコメントもあれば否定的なコメントもあったが、自らを世間に晒していかなければ何事も始まらないと、腹を括って取り組んだ。大介や雄二も面白がって、時々参加してくれた。フォロワー数や登録者数が少しずつ増えていくのも励みになった。自分たちがここにいて、何かを表現したくてもがいている、そのことが素直に伝わればそれでいいとチャレンジし続けた。


自分たちができることを面白がりながら考えて発信すると、同世代の俳優やその周辺の人たちから反響が届き始めた。例えばシェークスピアやチェーホフなどは、こんなことを始めなければ読むことすらなかったかもしれない。『新人女優の初めてのシェークスピア』『チェーホフがわかりません』は、そのあまりのできなさ加減が視聴回数を伸ばした。できないことを売りにするのは気が引けたが、プロセスを見せることで開き直った。動画編集は、有希が何なくできたので、週二回ペースでアップし続けた。


「なんでもやってみるもんだねー」


「ほんと、わからないもんだ」


栞と有希はフォロワーや登録者数の伸びに驚きながら、とりあえずやってみることが自らを励ますことに気づいた。インプットとアウトプットをバランスよく。それが無名の若者が表現者として長続きするコツかもしれない。


そのうちみんなで短編映画を撮ってみるのもいいかもね、と二人は前向きな気持ちになっていった。栞たちのチャンネルのタイトルは『ユキシオチャンネル・見る前に翔べ!』だ。




桜が咲く頃、栞に一通のメールが入った。年末に撮った自主制作映画の完成試写会の案内だった。場所は、練馬区の大泉学園にある東映撮影所の中の試写室だ。その撮影所は、ずいぶん前に仕出しのエキストラのバイトに通ったところだった。


撮影所がある場所は駅からもずいぶん離れている。隣には大型のホームセンターかスーパーみたいな施設がある。聞いた話だと、映画産業が斜陽になったずいぶん前に土地を切り売りして縮小したらしい。撮影所には独特の空気がある。伝統というと簡単になってしまうが、多分それはこの門をくぐってきた人が残してきた熱なのじゃないかと栞は思う。


人がここに訪れるとき、最初は誰しも夢を抱いている。しかし、ほとんどの人の夢は叶わない。掴めなかった人たちの無念や、それを託された人たちや、惰性で続けている人たちや、燻っている人たちや……ここは夢を掴めた人と夢が望んだ形では叶わず、それなのにあがいている人たちの想いが無数に交差する場所だ。きっとそれが長年積もった塵のように膜を張っている。


栞がエキストラで通っていた頃は、とにかく寒い時期で大変だった。駐車場で冷えて固まった弁当を配られていると、まるで自分が難民になったような気がすることがあった。カメラの端っこに映るか映らないかの役回りを一日中やって、半分以上の時間が待ち時間だった。「楽でいいじゃん」と知らない人には言われたが、プライドや夢や、そんなものと引き換えに手にするのは、自分の置かれた現実と手数料を引かれた数千円だった。


今まで横を通り過ぎるだけで入ることのできなかった試写室は想像以上に立派だった。ミニシアターより遥かに豪華な作りなのが栞には驚きだった。自主制作にも関わらず柴崎プロデューサーのツテを大いに活かし、ここのスタジオで最終仕上げをさせてもらったらしい。


今回の撮影は、倉田監督の希望により16ミリフィルムで撮影されている。それをデジタルに変換して、編集したりダビングしたりしたそうだ。栞には、その意味はあまりよくわからなかったが。


試写室の椅子に座ると、栞がこれまで座ったことのあるどの映画館より座り心地がよかった。初号試写には関係者が集まっている。それほど人数が多いわけではない。キャスト、スタッフで二十人くらいだった。あとはロケでお世話になった西荻窪の商店街の人たちやミュージシャンの人たちが来ていた。試写室は広いので、結構ガラガラだ。栞の知らない人たちも何人かいた。時間になると、バーディ・フィルムの柴崎プロデューサーが前に立ち、挨拶をした。また少し太ったような気がする。


「えー、皆さん、お忙しい中、お集まりいただき誠にありがとうございます。先だっては映画『ひとつだけ多い朝』に、ご協力いただき本当にありがとうございました。おかげさまで、無事完成し、今日の初号試写を迎えることができました。これもひとえに……」


「長えぞ!」


スタッフから声が飛んで、小さな笑いが起きた。


「あ、すいません。では、倉田監督からひとことだけ」


「みなさん、本当にありがとうございました。精一杯作りましたので、見てやってください」倉田が席から立ち上がり短く挨拶した。


柴崎の合図で場内が暗くなり、カウントリーダーがスクリーンに映し出された。そして、映画が始まった。


栞は大いに感動していた。初めて自分が大きなスクリーンに映し出されるのは、気恥ずかしくもあり、誇らしくもあった。とてもまともにストーリーを追うことはできない。しかし、わずか三ヶ月ほど前に自分が精一杯演じたことが、すべて映っていると思えた。映画は、まさにあっという間に終わった。場内が明るくなり、拍手が起きた。倉田が立ち上がって皆に頭を下げた。栞も思い切り拍手した。


「よかったよ」


「頑張った甲斐があったね」


「お疲れさま」


何人かのスタッフが、栞に声をかけてきた。


「ありがとうございました!」


栞はひたすら皆に頭を下げて回った。いつの間にか涙が込み上げてきた。


倉田が、栞や雄二や他のキャストたちに「ありがとうございました。お疲れさまでした」と丁寧に頭を下げた。


「監督、ありがとうございました。これからも頑張れそうです」


「うん」倉田が嬉しそうに微笑んだ。


映画が終わった後の試写室のざわめきは心地よかった。


「えー、この作品は、英語字幕をつけて海外の映画祭にも出品したいと考えております。応援よろしくお願いしまーす!」


柴崎が大きな声で皆に告げると、おおっ……と小さくどよめきが起きた。


柴崎や倉田は、早速、ゲストで呼んでいた劇場関係者や配給の人たちと談笑、というより商談していた。なんとか劇場にかけてもらわなくては元が取れない。公開されない映画ほど悲しいものはないのだ。栞はそっと試写室を出た。外に出ると、撮影所の景色が違って見えた。


「おはようございます。山名栞です。俳優やっています」


栞は撮影所の神様に向けて挨拶した。


強い風が吹いて、撮影スタジオが並ぶ細い道を通り抜けた。桜の花びらが舞い上がり、晴れた空に消えていった。






             6 






 栞は夏が来る前に十回オーデションを受けて、八回落ちた。


受かった二つは低予算のWEB・CMと新人アーティストのミュージックビデオの仕事だった。どちらもオーデションを勝ち抜いた。


二勝八敗か。栞は、戦績を分析した。最終選考まで残ったものが二本。最後の五人くらいまで残ったものが二本あった。落ちたオーデションの仕上がりは見られるものはネットで確認し、選ばれた人がどうして選ばれたのか考えてみることにした。すると、必ずしも実力で落ちたと言える作品は控えめに言っても少なかった。


「結局は、好みの問題なんだ」


以前、ワークショップで倉田が言ったことを思い出した。


「オーデションで選ぶ場合はさ、もちろんある程度、その俳優が芝居できる前提の話なんだけど、最後は作品に合うかどうかとか、監督の好みとか、広告だとスポンサーの好みとか、そんな感じなんだ。


だって、オーデションで選ぼうって段階で、すでに売れている人をキャスティングしようって仕事じゃないんだから。だから、なんていうのかなあ、オーデションにも落ち方っていうのがあってさ。百人中十人に残っていたらOK。最終選考に残ったら、それは受かった、くらいに思ったほうが精神衛生上いいよ。最後は運だから。それは、実力とはまた違うと思うんだ。例えばAという作品で〇〇さんが落ちて、結果××さんが選ばれる。Bという作品では××さんが落ちて、〇〇さんが選ばれる。そういうのはいくらでもある。


オーデションは、シンデレラコンテストじゃないんだよ。先はすごく長いんだからね。ずっとそういう闘いが続くんだからさ、今から消耗戦していたら身が持たないぞ。役者人生の勝負なんて死ぬ間際までつかないよ」


まずは、自分を磨く。表現する。栞は改めて街で人の観察を怠らず、映画を見た。


「映画を一本見たら、一本見た分……演技が上手くなるんですよね、監督」




栞は久しぶりに渋谷ユーロスペースに映画を見にいくことにした。栞の好きな俳優が「ここが基準だ」と言うミニシアター系の映画館だ。いつか私の出た映画が、この劇場でかかるといい……栞は、チケットを買いながらいつもそう思う。


その日、三階のチケット売り場にはいつもと違う女性スタッフがいた。


「一枚お願いします」


その女性が淡々とチケットを発行し、栞に渡した。チラっと目が合った。栞は小さくお辞儀をした。


「あっ、失礼ですが、山名さんですか?」


「え?」


「山名栞さん」


「え、はい」栞は驚いて思わず返事をした。


「あの、映画、見ました」


「え?」


「関係者試写で」


「ああ……えっ?」


栞はまさに驚いていた。完成試写で披露されてから作品とは離れていたので、誰かが自分の出た映画をどこかで見てくれるなんて考えてもいなかったのだ。


「うちの地下にマスコミ用の試写室あるじゃないですか」


「すいません、知らないです」


「あ、そうなんですね。まあ、あるんですよ。そこで、時々いろんな試写会あるんですよね。それで。映画、すごく面白かったです」


「あ、ありがとうございます!」


栞は嬉しくなって礼を言った。スタッフ以外の他者の初めての感想だった。


「最後のカット、山名さんのアドリブなんですってね。初主演で、しかもラストシーンでアドリブってふつうできないです。すごいなあって」


「え……そんなアドリブなんて、そんなんじゃないです」


「え、でも監督が言ってましたよ」


「違います、違います。私が言ったんじゃないんです。カゴメが……あ、役の、勝手に」


栞はしどろもどろになって言い訳をした。


「そういうの、ほんとのアドリブって言うんじゃないですか? あ、私、ユーロスペースの西川です」


クールな感じで西川が名乗った。なぜか映画館の受付にいる人は大抵クールだ。


「あ、山名です」


「支配人、うちのレイトショーで冬にかけるかなあって言っていました。スポットで空くかもなんですよ。今、細かい条件をプロデューサーさんと詰めているって。なんか、海外の映画祭でも受賞したんですよね? あ、するのか? どっちだったかな」


「は? 海外?」


「え? 逆に知らないんですか? あの作品、いろんな映画祭出品されてますよ」


「え?」


「事務所から連絡ないんですか?」


「あ。すいません事務所とかないんで」


「ああ、そうなんですね。まあ、とにかく、風が吹いてきましたよ」


西川が栞ににっこりと笑いかけ、チケットを渡した。栞が見にきたのは、シアーシャ・ローナンが主演した少し前の映画だった。


「ちょっと似てますよね、山名さんとシアーシャ・ローナンって」


「そうですか?」


「意志の強そうなところが」


「いやあ、どうですかね」


「いや、似てますよ。雰囲気というか、今の時代を生きてる女性の空気感というか。でもそういうの大事じゃないです? 女優は、その時代の持つ気分や生き方を表現する人ですから」西川が確信を持って言った。「私、現代女優論の本書くのが目標なんで」


「へえ、すごいですね」


「いつか、お話聞かせてください」


「え? あ、はい」


栞は西川に気押されて、挨拶もそこそこに劇場の中に入った。






             7






映画完成後、倉田監督と柴崎プロデューサーは、共にできたばかりの映画を売り込もうと、関係者試写を組み、DVDや画像データをつてのある人たちに送っていた。


せっかくだからと、知人の映画宣伝会社にやり方を相談し、英語字幕を付けて幾つかの海外の短編映画祭にも応募した。その気になって探すと世界中には大小様々な映画祭がある。世界三大映画祭と称されるカンヌ・ヴェネツィア・ベルリンの国際映画祭がすべてではない。今は、条件の合う海外の映画祭に一括応募できる便利なサイトも存在するのだ。海外でなんらか賞を取れば、なんとなく箔がつく。公開時に多少なりとも格好がつくのだ。


しかし、本丸は国内のミニシアターで上映されることや、配信大手が買ってくれることだ。国内で映画を上映しようとすれば、通常は配給会社が入り宣伝会社が入る。今回はバーディ・フィルムで自主配給をしてみることになった。柴崎プロデューサーにしても初めての挑戦だ。インディーズらしく配給宣伝経費を削減し、自分たちですべてやってみようじゃないかとなったのだ。


実際、ユーロスペースの地下にある試写室で行う関係者試写は、案外評判を呼んでいた。試写室が空いたときを狙って急遽かけるのだが、前日や前々日の急な知らせにも関わらず足を運んでくれる人が徐々に増えてきた。


 その評判を受けて、企画書の段階から相談していた支配人の英断により渋谷ユーロスペースでの公開が運よく決まった。ユーロスペースは、インディーズ映画の聖地と言ってもいい映画館の一つで、座席数はそれぞれ『ユーロ1』が100人弱と『ユーロ2』が150人弱程度だが、劇場に熱心な客がついていた。柴崎も前々から、自分たちの映画をこの映画館でかけたいと願ってきた。


しかし、この人数を毎回ある程度埋めることは、どのインディーズ映画にとっても相当大変なことだ。倉田と柴崎の映画は上映時間60分程度の作品だから、フルタイムのロードショーとはいかず、夕方二回上映と一回上映を二週間、レイトショー公開をひと月の変形ロードショーだった。それにしたところで、バーディ・フィルムの手がけた過去作品の実績や信用で何とか空けてもらったプログラムだった。こういうところはミニシアターの支配人と製作・配給会社との普段のお付き合いが物を言う。


バーディ・フィルムは、さらに通常1800円の鑑賞料金を1300円に設定し劇場側と交渉した。倉田の過去作品の短編もセットにした。鑑賞料金を下げることで、若い人に少しでも足を運びやすくしてもらいたいとの願いだった。


地方のミニシアターの経営は東京よりもさらに厳しい。現実は東京の数分の一しか客足は伸びない。経営者にいくら映画愛があっても、それだけで運営はできない。特に、コロナウイルスの拡大で、映画館経営は大きな打撃を受けばかりだ。


地方のミニシアターは、基本的には東京の動員の様子見をするところが多いが、各地ミニシアターも運営の方針やプログラムのあり方を柔軟に見直していたタイミングでもあった。客のいない映画館ほどさみしいものはない。今はやれる実験は何でもしてみたほうがいいと、それぞれの劇場支配人たちも考えていたタイミングでもあった。そこに率先してユーロスペースが手を上げてくれたのは、柴崎にも嬉しいニュースだった。


大手映画会社の万国映画、通称・万映から、柴崎のパソコンにメールが入ったのは、ちょうどユーロスペースでの公開日が決まった頃だった。




倉田が柴崎に会ったのは、『Pirates』に客がほとんどいない夏の午後の遅い時間だった。その頃、倉田はチープな深夜ドラマの演出スタッフに駆り出されていた。メインのチーフ・ディレクターは他にいる。そのディレクターが決めたフォーマットと演出方針に沿って、数話持ちで現場演出をする役回りだった。もちろん、脚本はテレビ局とプロデュースサイドで全話かっちり決められている。テレビドラマはこういう作り方をすることが多い。予算は少ないので二日で一話撮影するタイトなスケジュールだった。倉田にしてみれば飯の種、要するにこなす仕事だった。しかし、こういった仕事をむしろ積極的に受けていかないと監督業で飯を食うことはできなかった。


「どうですか? 深夜ドラマは」


「きついよ。割り本作って台本そのまんま撮るだけで精一杯」


「そうですか」


「で、何?」


柴崎が勿体ぶってコーヒーを啜った。


「あ、実は、ユーロの公開日が十一月に正式に決まりました」


「まじか!」


「メールでも良かったんですけど、せっかくだから直接伝えたくて。ここなら栞ちゃんもいるし」


倉田は小さくガッツポーズした。


「よくやったと褒めてくださいよ」


「いやあ、ありがとう。しかし、よくユーロがそこ空けてくれたなあ……。俺、あそこの劇場昔から好きなんだよなあ」


「地方も決まりやすくなりますしね」


「そうだねえ」


柴崎が手を上げて栞を呼んだ。


「はーい」


栞がコーヒーのお代わりを注ぎにテーブルに来た。


「栞ちゃん、ユーロ決まったよ。十一月」


「は? ユーロってあのユーロスペースですか?」 


「うん」


「渋谷の?」


「他にないよ」


「うそ」


「うそ言わないよ、プロデューサーは」


栞は思わずコーヒーをカップいっぱいに注ぎ、トレイにこぼしてしまった。


「ああっ、すいません!」


栞が慌ててウエスを取りに行き、飛んで戻ってきた。


「すいません。でもありがとうございます」


「まさかそんな喜び方すると思わなかったよ」 


「超うれしいです」


栞が跳ねるようにカウンターに戻ったのを見送ってから、柴崎が切り出した。


「それから、万映から連絡入りました。曽根さんが、これ長編にできないかって言ってきたんですよ。試写見てもらっていたんです。どうですか?」


「まじで?」倉田の目が丸くなった。


「いや、それが実現したら画期的じゃないですか?」


「そうだねー」


「どうやら来年のプログラムに穴が空きそうらしいんですよ」


「ほんとに?」


大抵の場合、大手の映画会社は、年間の製作ラインナップがあらかじめ前年に決まっている。系列映画館でかける公開作品もそうだ。もちろんあまりにも不入りな作品は打ち切られるし、その分、公開が繰り上がる別作品もある。しかし、それが急だった場合には、宣伝の都合上あまり前倒しするのは、作品にとってはマイナスの面もあるのだ。それは製作に関しても同じだ。押さえている人気俳優やスタッフのスケジュール問題もある。映画で最も重要なのは準備期間なのはインディーズもメジャーも同じだ。だから、今回の話がどうして持ち上がったのか、そこまで倉田にはわからなかった。


「ここだけの話、今井監督の体調がかなり悪いらしくて、手術するとかしないとか……で、そのバックアップって言っちゃ何ですけど。予算とスタッフが空くかもらしいんです」


「なるほど」


そういうわけか……倉田は微妙な反応をした。いい話になるかどうかはまだわからない。


柴崎がその反応を見通していたかのように続けた。


「でも……曽根さん的には、脚本さえあれば、いざと言うときにパッと上に通しやすいって言うんですよね。どうします? 監督、書けます?」


「え? そりゃ書けるよ。今どき原作ものじゃなくてオリジナル脚本なんて夢のまた夢だもんな」


倉田の反応が変わったのを見て、柴崎が念を押すように告げた。


「二週間で初稿です」


「え、二週間?」


「はい」柴崎が念を押すように告げた。


「うーん」


「あと、ヒロシが逃げ帰る地方を北海道にしたいと」


「なんで?」


「絵になるからじゃないですか。それに、小豆島でまた撮っても、絵柄同じようになっちゃうから」至極当然のように、柴崎は言う。


「それはそうだな」そこには倉田も素直に同意した。


「原田淳平、出したいらしいんですよね、ヒロシのお父さん役で」


「なるほどなあ」


映画に顔が欲しいんだなと、倉田は思った。大手なら当然のことだ。それにインディーズ版では父親役は描いていない。


「どうです? 書けますか」


「書くよ。ここでいかないと話にならないでしょ」倉田は力強く頷いた。


「僕らのバージョンの公開にも花を添えたいっていうか。なんか、物語ができるじゃないですか。このところインディーズ映画には、明るい話題が何ひとつないし。それに、栞ちゃんのこと曽根さんもすごくいいって言ってて。とんでもないシンデレラ・ストーリーが生まれるかもしれません」柴崎が嬉しそうに言った。


昔、倉田や柴崎の先輩たちが監督やプロデューサーを目指していた頃、自主制作映画が話題になって、それらの何本かがメジャー作品に格上げされるような形でリメイクされることがあった。それが映画青年たちの目標の一つになっていた時代がある。アメリカでは、そういう仕組みは今も歴然と生きている。インディーズに留まりたい者は別だろうが、二人はそういうタイプの映画人ではなかった。


「そうなったら、みんなが幸せになれるなあ」倉田は頬杖をついた。


「それって、今、映画界に一番必要なことですよ」柴崎が神妙な顔をしてコーヒーを飲んだ。


 


 倉田は深夜ドラマの撮影の隙間を縫って脚本のプロットを組み直した。映画会社から長編にするにあたって幾つかのリクエストがあった。倉田はすでにいくつか出ている万映サイドのプロデューサーのリクエストを箇条書きにした。


 


○ 舞台を古道具屋から潰れかけたライブハウスに変更


○ ロケ地は小豆島を北海道に変更


○ アコースティック・ミュージックからロック(ポップス含む)に変更


○ 街の舞台を西荻窪から渋谷に変更


○ 街の再開発と街の変化を盛り込む


○ 北海道パートを膨らませ家族の葛藤を描く


 


難題のようでもあり、やり甲斐も同時に感じた。潰れかけたライブハウスはスタジオにセットを組もうと言われた。出演するバンドも豪華なものになりそうだった。音楽プロデューサーが入り、彼のアレンジで幾つかのバンドがすでにリストに上がっていた。倉田はインディーズ版の気分を残しながら、メジャー映画として成立する筋を工夫した。一週間でプロットを書き上げると、そこからは一気に脚本に移った。


脚本作りには、設計図が必要だ。プロットを箱書きと呼ばれる図表のようなものに置き換えながら、エピソードやシーンの出し入れを行なっていく。名刺大の付箋紙にエピソードのアイデアを書き、順序を入れ替えたり、足したり引いたり、また削ったりを繰り返していく。倉田の狭い仕事部屋の壁は付箋紙だらけになっていった。


映画は時間の芸術であり、省略の表現だ。それに当てはまらない映画もあるが、基本、商業映画の場合は二時間前後に収める。興行の問題もあるが、それくらいの長さが人の集中して見られる限界だ、という定説もある。確かに、二時間には二時間に相応しい物語がある。長編小説やコミックスを映画化したときに、本来の行間やニュアンスを省略してしまい、ただのあらすじ紹介やエピソード披露みたいになってしまうのはそのためだ。一方で、映画は小説が何ページもかけて描いた登場人物の心情をたったワンカットの表情で表現できてしまうこともある。


倉田はほとんど寝ずに、何とか初稿を書き上げた。


出来上がった脚本『ひとつだけ多い朝 ver.2.0』は、約束の日の朝方に各プロデューサーにメールで一斉に送信された。『ver.1.0』は、インディーズ版のことで、そこからの第二章という意味をタイトルに込めてみた。記号的な感じが意味ありげで、いいんじゃないかと倉田は考えた。  


メールを関係者に送信してしまうと、倉田はリビングのカーテンをすべて閉めベッドに潜り込んだ。倉田の傍には妻が穏やかな寝息を立てて眠っていた。掛け布団が大きく膨らんでいた。倉田はあと三ヶ月で父親になるのだ。倉田は久しぶりにぐっすりと眠った。


 倉田は午後になって目を覚ますと熱いシャワーを浴び、数日ぶりに髭を剃りさっぱりとした気分になった。それから薄手のシャツに着替えると、電車で下北沢に向かった。下北沢の喧騒は相変わらずだった。倉田は足取りも軽く人混みを歩いた。


『Pirates』の重いスイングドアを開けるのも、いつもより軽く感じた。店内はちょうど客もまばらだった。


「あ。監督いらっしゃいませ」栞が振り向いて声をかけた。


「おはようございますじゃないの?」


「現場じゃないですから」


倉田は笑って、カウンターに座った。


「不味いコーヒー一つ」


「チーズケーキは?」


「要らないよ」


栞がコーヒーをマグカップに注いで、倉田の前に置いた。


「山名さん、これ」


倉田は書き上がったばかりの脚本を栞の前に置いた。


「何ですか?」


「脚本だよ。長編バージョンの」


「ええ!? 長編になるんですか?」


「うん。みたい」倉田は嬉しそうに笑った。


「読んでいいんですか?」


「感想聞かせてよ。まだ初稿だけど」


「うわ、ありがとうございます!」栞が喜んでA4の紙の束を抱えた。


「まだ、誰にも見せるなよ」


「はい、わかりました」


「また、一緒にやれるかもな」


「本当ですか? 信じられないです。ていうか、長編ですか! うわあ、すごいなあ」


「こういう展開になったのも山名さんが、頑張ってくれたおかげだから」


栞が無邪気にはしゃぐ様子を見て、倉田はコーヒーを飲みながら嬉しそうに言った。


「そんな、こちらこそです」


「まあ、頑張ろうよ」


「はい!」


倉田はしばらく店にいて「またね」と栞に言い残し、自宅に帰った。


 


 


              8


 


 


栞は倉田の言葉に感動していた。自分が映画に貢献できたことが実感できた。俳優を続けていいと神様に言われたような気がする。栞は店内に客はいたものの我慢できずに、脚本をめくった。読むスピードに気持ちが追いついていかない。栞は登場人物になりセリフを呟いた。新たなカゴメ役は、前作とは少し違っていた。もう少し大人になった印象だ。ヒロシを探しに出かけるのは一緒だが、場所は北海道の夕張郡の長沼という町だった。栞はまったく北海道に土地勘がなかった。


(小豆島じゃないんだ……)


ヒロシの実家は農業を営んでいる。無農薬栽培で米や野菜を作っていた。ヒロシの父親も出てきていた。前回は父親の登場はなかった。ヒロシと父親の葛藤や家族との関係が丁寧に描かれていて、北海道パートの分量がある。


カゴメは潰れかけたライブハウスを立て直そうと奔走し、メジャーでも活躍する渋谷のライブハウス出身のバンドたちに協力を仰いでいた。実名で色んなバンドの登場するシーンがあった。


(あ、音が聞こえてくる……)


栞は脚本から音楽が溢れ出すような気がしてきた。


栞は映画の中でも音楽映画が好きだった。物語の中で映像と音と芝居がシンクロするシーンを見ていると心が躍る。身体が弾む。海外の映画のほうが、そういうのは得意だ。栞は頭の中でロックのリズムを鳴らしながら読んでいた。


「何読んでるの?」


「うわ!」脚本に集中していた栞は思わず声を上げて驚いてしまった。


栞を覗き込むようにしていたのは、雄二と大介だった。


「な、何でも…」


栞は慌てて脚本の束を閉じた。誤魔化すために話を変えた。


「どうしたの今日は?」


「これから、舞台見にいくんだよ、スズナリに」


「へー。誰の?」


大介が劇団名を言ったが、栞はその劇団を知らなかった。いつの時代も小劇場界には無数の劇団がある。大介は劇団員らしく今の小劇場界隈に詳しかった。いい役者がいると聞けば見に行っていた。バンドとは違うが対抗意識みたいなものはあるという。


「あれ? それってこの前のオレらの映画と同じタイトルじゃん」


「あ……」


伏せたと思っていた脚本は表にしていた。雄二がそれを目ざとく見ていた。


「あ、これ、さっき倉田監督が来て、置いてって……」


「まじ?」すかさず、雄二が栞の手元から脚本を取り上げた。


「だめだって。怒られちゃうから」


「いいじゃん」雄二が脚本を手に取りパラパラと捲った。


「え? 長編化するの!」


「らしいよ」


「すげえ」


「オレの役残ってるのかなー?」


「もちろんあったよ、ヒロシ役」


「オレのは?」と大介がふざけて言った。


「あんたは元々出てないじゃない」


「いや、そうだけどー」


雄二がさらに脚本をめくった。製作に万映映画の文字を見つけた。それから、淡々とした口調になった。


「でも、オレは外されるだろうな」


「そんな」


「そんなもんだよ」


「そうかな?」


「甘くないって。ここのコーヒーみたいなものでさ。あ、コーヒーちょうだい」


「はい」


栞はコーヒーを二人に出した。大介が雄二のリアルな反応に言葉少なく軽く頷いたり、砂糖も入れていないのにスプーンでカップの中をかき混ぜたりしていた。劇団の中にだって競争があり、劇団の外にも競争がある。


雄二がコーヒーを啜りながら栞に言った。


「まあ、正直出たいよ。オレだって。この前のやつだって、やっと掴んだ役だし。オレなりに一生懸命やったし」


「そうだよ」栞は精一杯同意した。


「でもさ、オレもこの世界入って四年くらいだから、わかるっちゃわかるっていうか……。オレじゃ、このクラスの規模、まだ客を呼べないよ。メジャー映画の準主役なんてまだ早いって」


「そんなふうに言ったら……じゃあ、私はどうなるのよ」


「知らないよ。そんなの監督に聞けよ」雄二が笑いながら栞に言った。「でも、一応。ていうか、時期が来たら、タイミング見てちゃんと監督にも売り込んでもらうよ、事務所のマネージャーに」雄二が気持ちを切り替えたように言った。


「いいよね、事務所にいる人は」栞がつまらなそうに言うと、


「そうか、栞ちゃんまだフリーだもんな」と雄二が申し訳なさそうに言った。


それから二人は少し店にいて、開演の時間が近づくと劇場に行くと言って出ていった。栞はもう一度脚本の続きを読みたかったが、急に客足が増えてしまって、読むことはできなかった。


 バイトを終えて、アパートに帰ると有希はまだ帰宅していなかった。有希は最近、美大の先輩の勤めているデザイン会社によく出入りしていた。


栞は紅茶を淹れると脚本の続きを読み始めた。終わりまで読むと、小さくため息をついた。やりたい……栞は強くそう思った。しかし、さっき、雄二が話していたことがどこか引っか


かっていた。栞は一旦ネガティブなことを考えるのを止めた。その代わりにもう一度最初から脚本を読みはじめた。そして、読んでいると、自分が役になって動いている姿や映像が勝手に浮かんだ。


 しばらくすると、有希がドタドタと大きな荷物を抱えて帰宅した。デザイン事務所の先輩からいらなくなった服を大量にもらったらしい。


「暑いねー。今夜」有希がキッチンで丁寧に手を洗い、水でうがいした。この一連の作業はコロナ禍になってから二人にとっての毎日のルーティンだ。


「これ」栞は脚本を有希に見せた。


「うわ。まじか」


有希が渡された脚本を手に取るとしばらく眺めていた。


「監督が今日持ってきてくれた」


「ほんと? いや、ありがたいねー」


「うん、ほんと」


「よかったね。繋がったね」


「うん……」栞はようやく落ち着いて感動できた。目頭が熱くなってきた。有希が笑いながら栞を静かに抱きしめた。


「まじ、よかった。おめでとう」


「ありがとう」思わず溢れた栞の涙が、有希のオレンジ色のシャツを濡らした。


(絶対、この役は離したくない……)


栞は心の底からそう思った。


 


 


             9


 


 


 銀座の街は以前より人が少なくなったと倉田は思った。ずいぶん久しぶりに見る万映のビルは少し古ぼけたように感じる。今の日本の映画産業自体が古色蒼然としているからかもしれない。古い仕組みに乗っかった映画にこだわるのは、もう変えなくてはいけないのだろう。これから先のことを考えたら、既成のスクリーンにこだわらないほうがいいのかもしれない。実際、同世代の監督たちは新しいシステムに移行している。しかし、倉田は、なんとしても一本はそのオールドスクールで撮りたいという想いが捨てきれなかった。


その日、倉田は柴崎と万映に呼ばれ具体的な打ち合わせに入った。


二人に声をかけた万映の曽根プロデューサーが二人を会議室で出迎えた。


「いやいやいや、初稿ありがとうございました。流石に今まで色んな監督の下で頑張ってきた倉田さんだ。時間のない中でここまで仕上げるとは。いい脚本(ほん)です。まあ、これからちょっとずつ、手を入れてもらいながらね、ひと月くらいで準備稿まで持っていきましょう」


「はい、ありがとうございます」


曽根が嬉しそうにプリントアウトした脚本をバサッと机の上に置いた。蛍光オレンジ色の付箋があちこちに貼ってある。これは、かなり修正がありそうだと、倉田は覚悟した。


「あ、早速なんだけど、そうそうヒロシ役……彼、いいんじゃないかなと」


曽根が一枚のCDと資料をテーブルに置いた。その意外なキャスティングに倉田は驚いた。


「ラットネイルスパングの井上光? バンドマンじゃないですか」 


「そうだよ。ミュージシャンの役だし、ライブシーンあるじゃない」


「いやそれはありますけど。その代わり芝居できないんじゃないですか?」


「そこはさ、監督の演出力でなんとかしてもらって。井上くんが映画に出てオリジナルを書き下ろすというのは売りになると思うんですよね。ただ楽曲を提供してもらうより」 


「は? はあ…」


話の腰を折るように曽根のスマートフォンが間抜けな着信音を鳴らした。曽根は相手の名前を確認すると、


「あ、ちょっとすいません……」と立ち上がった。


曽根が高い声で話しながら会議を中座した。倉田は目の前のペットボトルの水を黙って飲んだ。


柴崎が冷静な口調で倉田に話しかけた。まるで予想通りといった感じだ。


「いや、そこは考え方次第じゃないんですか、監督。芝居のできる役者に演奏させるのも、音楽できるミュージシャンに芝居させるのも、ある意味同じですよ」


「全然違うよ」


「まあ、違いますけど。井上が書き下ろす主題歌っていうのは魅力的じゃないです?」


「ミュージックビデオじゃないんだよ」


「いやいや、監督、散々ロクでもないバンドのミュージックビデオの仕事してきたじゃないですか。そのノウハウを活かしましょうよ。それに、決定的に違うのは、映画のための書き下ろし楽曲になるんです。彼らのプロモーションのためじゃないんですよ。気に入る曲ができるまで突き返せばいいんですよ」 


「は?」


「脚本や芝居ならやるでしょ。何稿も何テイクも。映画音楽も同じですよ。監督がそのシーンで欲しい楽曲を作らせるんですよ、粘って。それに、案外初球でストライクくるかもしれないじゃないですか。あ、ほら『ザ・コミットメント』って映画、アラン・パーカーの」


「見てるよ。ていうか、なんなら大好きだよ」


「あれって音楽と芝居の境目がないっていうか、映画のために音楽があり、音楽が映画の中で躍動してるじゃないですか、そういうの目指せませんか?」 


「柴崎さんは説得が上手いなあ」倉田は苦笑いした。


「まあ、一応天職ですからプロデューサー」


柴崎は曽根が戻ってきそうな気配を感じたのか、小さな声で倉田に言った。


「あ、後でちょっと報告があるんです」


 


曽根プロデューサーからの第二稿へ向けての改稿のリクエストをたっぷり聞くと、倉田は柴崎と万映を後にした。


二人は少し歩いたところにある老舗の洋食屋に入ることにした。この店の売りはタンシチューだ。倉田はここのタンシチューが昔から好きだった。丁寧な仕込みがしてあるし、味が全く変わらない。


柴崎が話題を変えてユーロスペースでの公開に向けて、いくつかのプランを倉田に話した。ここで、うまくロケットスタートを切らないと地方のミニシアターに広がらない。それに東京である程度集客しなくては回収が見込めなくなってしまうのだ。


タンシチューは相変わらず美味しかった。倉田は空腹だったこともあり、舌の焼けるのも気にせず胃のなかに放り込んだ。腹が立つと腹が減る、昔からそうだった。


柴崎が話を切り出したのは、二人ともあらかた皿を食べ終わり、食後に珈琲を頼んだ頃だった。


「え……外れるって、なんで?」 


「力不足です。正直、億単位のバジェット仕切ったことないし、万映スタジオでセットも組まなくちゃいけないし。複雑な合成もありますからね。まあ大掛かりですから。ここは元々、今井組を仕切るために入っていた傘下のシネ・フェスタに仕切らせたいって言われても引き下がるしかないです。うちの会社じゃまだ実績も経験もありませんから」


「でもそれは……」


柴崎が笑いながら制して、倉田にそれ以上言わせなかった。


「言わないでくださいね。監督はそういうことは言わないほうがいいんです。シネ・フェスタいいじゃないですか。一流の制作プロダクションです。間違いないです。そのほうが作品には、むしろいいかもしれないし。ただね、僕もこのままじゃちょっと悔しいじゃないですかあ。でね……」


柴崎が声を落として倉田に自分のアイデアの説明を始めた。


 


 


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栞は落ち着かない日々を過ごしていた。いつものように過ごすことが一番だとわかっていても、どうしても気になってしまう。倉田に渡された脚本はもう何度も読んでいる。正式な出演の話は映画会社からはまだない。どういう流れが正式なのかもわからないし、倉田に聞くのもどこか品がないようで躊躇われた。


何かで読んだアンソニー・ホプキンスの役作りについてのインタビュー記事を思い出す。映画『羊たちの沈黙』のレスター博士役について、どうやって役作りをしたのか? ……と尋ねられた彼は、『脚本を250回読んだだけだよ』と答えたという、ほんとなのかジョークなのかわからないインタビューのことだ。栞はその逸話が好きだった。


栞に今できることは、脚本を何度も読み、セリフをセリフじゃなくなるまで身体に染み込ませることだけだった。脚本に出てくるリアルな場所を歩き回り、一本一本の路地の曲がり方まで考えなくても自然に歩けるように、その街の住人になることだった。行きつけの店、行きつけのカフェ、行きつけの美容室、行きつけのコンビニ、行きつけのスーパーマーケット……他にもたくさんある。


栞は渋谷の街を、Googleマップを見ながらひたすら歩いた。カゴメの行ったであろう小学校や中学校、高校も、勝手にここだとアタリをつけて役の履歴書を作り始めた。その作業はことのほか面白かった。


映画で切り取られるのは、登場人物たちの二時間に凝縮された物語だ。しかし、彼らが実際に生きていれば、物語の前後にも登場人物たちの人生、生活がある。それを想像すること自体が楽しかった。


カゴメはどんな恋をしてきたのだろう? カゴメは両親とどんな関係だったのだろう? カゴメは料理するのだろうか? 好物は何だろう? どんな服が好きなんだろう? 栞は思いついた疑問をスマートフォンにメモし、考え、思いつくと文章にしてまとめた。やればやるほど、役が身体に馴染んでいく気がした。カゴメがどんどん好きになった。自分と役との境界線をなるべく無くしたかったのだ。それに、考えた分だけ不安が少しずつ消えていくようだった。


夕暮れのファイヤー通りを歩いていると、ブティックの窓ガラスに自分が映っていた。ガラスの中の自分と目が合った。


(カゴメはもっと髪が短いほうがいい……)


栞は肩まで伸びた自分の髪を切りたかった。しかし、勝手に切るわけにもいかない。切るのは監督に相談してからにしよう、栞はそう思った。


 


ユーロスペースでの公開が近づいてきた頃、映画ニュースを毎日発信するサイトに、小さな記事が掲載された。




映画『ひとつだけ多い朝』インディーズ版からメジャー映画へ昇格?!


 


記事によると…


 


映画『ひとつだけ多い朝』(監督倉田和也 出演・山名栞ほか)十二月十一日渋谷ユーロスペース公開(配給バーディ・フィルム)は、海外での映画祭のノミネート実績を先物買いされ、大手映画会社万映での長編化が検討されている。すでに脚本の開発は進み、今冬での撮影が予定されているとの関係者の話も聞こえてきた。


映画には大物アーティストAの参加も噂されている。実現すればインディーズ映画界にとっても明るいニュースになるだろう。同作品は、今冬より渋谷のユーロスペースを皮切りに全国のミニシアターでの上映が予定されている。


 


金曜日の午後、栞は『Pirates』のシフトに入って忙しく働いていた。客足が途絶えた頃にカウンターでスマートフォンを眺めていて、そのニュースを知った。


(やっぱりほんとの話なんだ……)


栞は呆然とスマートフォンの記事を読んだ。心臓が高鳴るのを抑えられない。


人は、なぜかサイトに書かれた活字を鵜呑みにしてしまうところがある。実際がどうであろうと、インターネットに載った情報は現実味を帯びて一人歩きしてしまうのだ。栞はスマートフォンをしまうと、新しいコーヒーをセットした。


「これって、栞がこの前出た映画のことか?」


店主が感心したように言った。店主も暇なのでスマートフォンを転がしていたのだ。


「え? そうみたいです」


「みたいって、お前そんな無責任な」


「だってまだ正式には何にも聞かされてないですから」


「そうなの?」


「はい」


栞は、後でいくつかの映画サイトを検索してみたが、同じニュースが文章を少し変えて転用されているだけで、それ以上の情報は得られなかった。


小さなインディーズ映画が、メジャー映画になる(かも知れない)というニュースは、監督も主演も無名なだけに、変なリアリティがあった。


バーディ・フィルムの作った予告編や場面写真意外に、栞は公式には露出していないが、栞のYouTubeやInstagramともリンクさせてあるので、日々、双方のアクセス数が伸びていった。


だからなのか、栞が働く『Pirates』には、常連以外の客が度々訪れるようになった。


「最近、お客さんで栞のこと聞いてくる子がたまにいるんだよな」


「あ、そうなんですか。なんでここにいるのわかるんだろう」


「きっと大抵のことは、調べられる世の中なのさ」


店主はそう言うとコーヒーメーカーに新しい粉をセットした。すぐにポタポタとコーヒーが落ちてきて、いい香りが漂った。淹れたてならさほど悪くない味なのだ。


「ま、新しい客が増えるのはいいことだけどな」


店主が嬉しそうにチーズケーキの新しいホールを出すと一切れずつにカットし始めた。不味いと評判のチーズケーキは、変な評判となり飛ぶように売れた。


「美味しいものだけが売れるわけじゃないのね」栞が感心したように呟いた。


「うるさいなあ。さっさと運びなさいよ」店主が笑顔で言った。


#不味いチーズケーキ #パイレーツの不味いチーズケーキ  #下北沢カフェ #pirates


#山名栞 #映画ひとつだけ多い朝 など様々なハッシュタグでパイレーツのチーズケーキはInstagramに拡散していった。


インディーズ映画好きが密かに店を訪れ、栞を盗み見た。帰りがけには「頑張ってください」などと声をかけてくれる人もチラホラいる。


その話を聞きつけた大介がボディーガードだと言ってはカウンターに居座るようになった。夜遅いシフトの日はアパートの近所まで送ってくれる。今どき、どんな奴がいるかわからないんだからと、いくら大丈夫だと言っても聞かなかった。どちらかというと、店にまで来てくれる人は女性が多かったから、大介の心配はあまり必要なかったのだが。


 


 


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ネットのニュースが頻繁に流れるとバーディ・フィルムに全国のミニシアターの関係者から多くの問い合わせが多数入った。柴崎たちはその対応に追われた。長編化の件は、こちらにはまだ詳しい話は来ていない、万映に問い合わせて欲しいと話を振っていた。


バーディ・フィルムが運営する映画の公式サイトには、かなりのアクセスが殺到していた。もちろんユーロスペースのサイトにもリンクしている。


公式Twitterや公式Instagramにも書き込みやシェアが増えていった。情報はきっかけがあればあっという間に拡散していく。


バーディ・フィルムの宣伝担当・小島黄菜子が首を鳴らしながら、初日舞台挨拶の情報をアップした。もちろん、初日だけでなく毎日のようにイベントは仕込んでいる。今や、映画をかけるだけではミニシアターも客席は埋まらない。何らかのイベントが必要だ。通常の場合、出演者のトークイベントなのだが、それだけだとつまらないと柴崎も考えていた。せっかく渋谷なんだからと、ファッションや音楽と絡めたいと考えていた。


最近、ストリートで人気のあるグラフィックデザイナーに頼んで、気の利いた物販もするつもりだった。これはチケットとセットで売ることにもしている。映画を見に劇場に来なければ買えない物をお得な価格で提供する。最悪、映画を見てもらえなくても別途作るグッズが売れれば利益は出るのだ。そこは柴崎も割り切っていた。


それとは別に、裏原宿の昔から柴崎が通っている古着屋に話をして、映画の英語タイトル『One too many mornings』をデザインしたTシャツやトートバッグ、ウインドブレイカー、マスクなどファッションとしても成立できるものにこだわって制作することにした。原価はかかってしまうが、その分価格も上がるので利益率はいい。それが、先行発売で結構売れた。その古着屋の熱狂的なマニアがいるのだ。それが原資となってまた生産できた。宣伝しながら回収することはできないかという実験だ。


サントラ盤を作りSpotifyに先行してアップした。最初はアクセス数が少なくても、サントラ盤が存在していることが大切だ。収録楽曲のミニライブも小さなクラブにアーティストを通じて頼んで仕掛けていた。どこから映画のことを知ってもらえるかは誰もわからない。渋谷の街頭にスタッフが立ちゲリラ的にチラシを配布したり、試写会で得た感想を動画配信したり、社員から出たアイデアは即実行した。


あらゆる広告戦略にはフックが必要だ。しかし、それが立ち過ぎると客に見透かされてしまう。正解も不正解も結果次第だ。その商品をどれくらい熱意を持って売りたいか、その熱が消費者に届くかどうかだ。結果責任を負うのが今回は自分たちだけなので、失敗を恐れず、色々やってみることにした。うまくいきそうなものには、再生産をかければいい。今は納期までのスケジュールが短くても製品化できるものがたくさんある時代だ。


インディーズ映画の宣伝も、実はルーティン化している。ポスターを刷り、チラシを刷る。昔から変わらない。印刷代は安くなったとはいえ、これがある程度費用がかかる。デジタルでの宣伝も同じことだ。サイトを作り、公式〇〇を作り、形を整える。しかし、想定より誰もサイトに訪れない。訪れたとしても映画館には来ない。他の映画と同じことをやっていれば、何となく映画を作っている気分は味わえるが、それでは勝ち目はない。資本の投下と広告効果は大概正比例するのだ。それに頼れない以上、不可抗力的なハプニングを起こすしかない。人の注目を集めるにはトリガーが必要だった。


インディーズ映画が、メジャー映画になる(かも知れない)というニュースは、監督も主演も無名なだけに、妙にリアリティがあった。きっと滅多にない話なので、ネット住民に見透かされるような匂いがしなかったのかも知れない。


 


 一方で、万映での脚本打ち合わせが本格化した。会議には、担当の曽根だけではなく、エグゼクティブ・プロデューサーの長尾や実際に制作を請け負う制作会社の現場プロデューサー、シネ・フェスタの山際も参加した。シネ・フェスタは万映の資本傘下にある子会社だ。


やはり、元々予定されていた作品の大御所・今井友尚監督の体調は悪化したようで、スケジュール的に倉田組を先行することになったのだ。万映にしてみれば、そちらのネガティブなニュースが出回るよりずっといい。


「まあ、ニュースになっちゃったのはもう仕方ないからさ、何とか形にしましょうよ」と表面的には曽根も鷹揚に構えていた。何であれ、無料で宣伝してもらえるならありがたいと考えているようだった。


「とりあえず、改稿してもらったことで、大体のところはクリアしてると思うんだよ」


「ありがとうございます」


「監督、キャストはある程度こちらに任せてもらっていいかなあ」曽根がゆったりと切り出した。


「と、言いますと」


「弱いでしょ。山名さんじゃあ」


「え?」 


「でも曽根さんも彼女いいねって」


「いや、彼女はいいと思いますよ。これから伸びるかもしれない。きっと伸びるでしょう。でもさ、単館じゃないんだから。こっちでは最低150館で公開しないと赤字だよ。それでも危うい。うちがやるなら客が呼べる役者か、売れている原作じゃないと無理」


「でもそれは最初から……」


倉田は、話が違うとばかりに抵抗をした。しかし、曽根に遮られた。


「いや、だからこそですよ。うちも今回リスク背負ってる覚悟はあるんです。だから、そこは監督もわかってもらわないと」


「もちろん、ある程度は」


「ま、主役はね、こっちで決めさせてください。監督」長尾がおっとりとした口調で切り出した。長尾はあまり口を開かないが、たまに断定口調で言うタイプだ。曽根が部下らしく長尾の代弁者となってことのほか喋った。


「いくら海外の映画祭といってもねぇ。それに短編映画祭だから。今どき、カンヌでも、なんかちろっともらったくらいじゃ興行的にはきついでしょ。海外での受賞と日本の観客動員は正比例しないんだなあ。もちろんカンヌでグランプリでも獲れれば話は別かもしれないけど。あ、ミニシアターは別だよ。ポスターに冠マークつけられるのは箔付けにはいい。ただ我々の勝負はそこじゃないからねえ。それに、これは文芸じゃないしね。エンタメ映画でしょ」 


「でも、曽根さんもそこを変えていかないとって」


倉田が言うと、曽根が何度も頷いた。何か言う前にする彼の癖のようだ。自分で自分のことを正当化したいのかもしれない。


「変えるべきだと思うよ、僕も。でも、それはうちが仕切る作品じゃなくてもいいんじゃないかなあって」


「は?」


「いや、むしろ変わるべきは観客でしょ。漫画とスマホしか興味がないこの国の観客でしょう。でも、現実それが今の僕らのお客さんだからね。大切なお客さん。監督、今年の邦画の興行収入ベスト10知ってるよね? アニメが五本。漫画の原作が三本。テレビドラマの映画版が二本。もうずっと何年もこんな感じなの。知ってるでしょ」


「まあ。しかし……」


倉田が言いかけたのを長尾が受けた。


「それが現状です。今回の場合、原作がないのですから、売れている役者か、せめて確実に売れそうなネクストブレイクの役者じゃなきゃ動かないですよ、企画が。うちはマーケティングを大切にしているんです。監督もメインストリームで勝負したいから、頑張ってきたんでしょう」


「あ……はい」倉田は声を低くした。


「監督には悪いけど、観客は役者を見にくるんだ。確かに一筋・二抜け・三役者って大昔は言ったかもしれないけど、今は違うよね。一、売れてる漫画原作・二、売れてる原作・三、売れてる役者。一と二がないでしょ、この企画。三の役者がものすごく重要なんですよ。客が呼べる役者じゃないと」


それは日本映画の父と呼ばれるマキノ省三監督の言葉を間違って解釈した発言だったが、倉田がここでそれを言い正すことはなかった。正しくは、一スジ(脚本)・二ヌケ(撮影)・三ドウサ(演技・演出)であったが、それは今の邦画界で言っても仕方ない戯言なのかも知れない。倉田もまた、その邦画界の片隅で生きる住人なのだ。


大手映画会社の作る作品は、製作委員会方式が取られる場合が多い。今回もそうだった。もちろん、出資者が増えるメリットやリスク分散の観点からは素晴らしいのだが、先導が増えるということは、冒険が減る。いつの間にか、邦画のメインは大ヒット漫画のアニメーション作品や実績のあるオリジナルアニメ、ベストセラーの泣ける小説か実話をアイドルか旬な俳優で映画化するのがメインになった。確実にヒットが見込めそうな作品に、大きくベットする。それが今の邦画界の主流なのだ。大作とそれ以外の映画の格差は近年ますます広がっているのが現実だった。


それを是正するには根本的な改革が必要だったが、たった一本の映画ができることは限られている。


倉田は個人が大きな波に抗う限界を今まで数多く見てきた。それはこの国の映画の歴史が証明している。それでも、倉田は映画が撮りたかった。テーブルを自らひっくり返すような真似はできなかった。






              12






朝の陽がアルミサッシの窓から細長い栞の部屋に差し込んでいた。壁際の本棚には漫画や文庫本がびっしり並び、クロゼット代わりのパイプスタンドには服が古着屋のようにかかっている。今朝は栞のシングルベッドにも山ほど服が並べられていた。


何枚かのシャツを取っ替え引っ替え着てみる。栞は散々迷った末に、この前買ったビンテージのデニムシャツを選んだ。胸元や襟元に刺繍がある70年代っぽい薄手のデニムシャツだ。下はいつものユニクロの黒いパンツにした。足元は履き古した黒のオールスターだ。少し気取りたいが、気取る服がない。


栞は妙に緊張していた。今日は、ユーロスペースの西川のインタビューを受けるのだ。インタビューの場所は『Pirates』の一角を借りることになった。下北沢でバイトしているウェイトレスからインディーズ映画の主演女優へ、そんなイメージだそうだ。


その準備の様子を有希や大介はニヤニヤしながら眺めていた。店主もどこかニヤついている。


「絶対笑わさないでよ。こっちは真剣なんだから」


栞は照れくさいのを誤魔化すようにわざと強めに言った。


「わかってるよ。ただ、何だかね」


「ね」


有希も大介もニヤニヤが止まらない。


「もう、静かにしててよね。せっかく西川さんが来てくれてるんだから」


「はいはい。コーヒー出す?」


「水でいい」


西川が撮影と録音の準備ができたからと声をかけてきた。今日は、記録係としてバーディ・フィルムの小島黄菜子がビデオも回すことになっている。


シンプルなライトが、店の奥のソファ席に軽く当てられていた。


栞は髪を手櫛で整えると、何度か大きく深呼吸した。




栞の初めてのインタビューが始まった。




Q お名前は?


山名栞です。あ、二十二歳になりました。よろしくお願いします。


Q ご出身は?


静岡県の清水市です。お茶の名産地です。富士山も見えます。私の住んでいたあたりは時期がくるとキレイな緑色に染まります。


Q じゃあ日本茶は好き?


好きですよ。子供の頃から飲んでますから。でも最近はここで働いてるからか、コーヒーばかりです。しかも不味いの。それか紅茶のティーバッグ。ちゃんとしたお茶飲みたいです。でも東京のお水で淹れても同じ味にならないんですよね。


Q 俳優になるきっかけは?


某事務所の主催する養成所に通ったことがきっかけです。でも、そこの事務所には入れなくて、パッとしない日々が三年続いてましたね。まあ、今もそんな変わらないですが。


Q どうして俳優養成所に?


あ……俳優に興味があったから。


Q いくつくらいから?


えっと……高校生の頃からです。いえ……もしかしたらもっと小さい頃なのかも……母が……いえ、なんでもないです。


Q 話したくない?


あ、すいません……ああ、えっと……んん……どうしたら……。


 


口籠もってしまった栞を見て、西川が話を一旦止めた。


「山名さん、ごめんなさい。なんか尋問みたいになっちゃったかな? でも、話したくないことは別に」


「いえ、そうじゃなくて。いいんです。続けてください」




Q いくつくらいから女優に興味を?


あっ、はい……えっと、私がすごく小さい頃、父と母が離婚しまして。私は、父のほうで育ったんです。だから母の記憶は、ほぼないんです。二人は大学で知り合ったらしくて、卒業して、しばらくしてから結婚して。すこし東京にいてから、二人は父の実家に帰ってお茶を作ってて……。


母は若い頃、女優だったらしいんです。詳しくは知らないんですけど……演劇をやっていたらしくて。二十世紀の終わりごろですね。母は三十歳を過ぎたくらいに病気で死んじゃったんですけどね……。あ、全然、有名じゃないです。多分、誰も知らない人です。結局、芝居辞めて私が産まれても、女優やりたかったみたいなんですよね。ふつうに考えれば、一回辞めて田舎行って子供産んで、それで離婚して復帰とかって、まあまあ、ありえないじゃないですか。なんでそのタイミングでって? そこが不思議というか……。


離婚したのには、他にも理由があるのかもわかんないですけど、ていうか、それはどうでもいいんですけど、あるとき、高校を三年のときかなー。なんとなく将来どうしようとか、考えていたときだったんですけど、自宅の二階の窓から一面緑のお茶畑見ていたら、母はここからどんな気分でこの風景を見ていたんだろうって突然思って。何を取り戻したかったんだろうって。そしたら、その気分を自分も感じてみたいって思っちゃって……それで、つい、というか養成所に応募してみたんです。まあ、お金払えば、ほぼほぼ誰でも入れるところだったんですけどね。


Q お母さんと同じ感覚は味わえた?


いやー、わからないです。同じかどうか。ジャンルも違うし時代も違うし。ただ、なんていうのかなあ。もしかしたら、あの瞬間が……役と自分がシンクロするような、あの感覚がお母さんも好きだったんじゃないか、そんなふうには思いました。この映画に出られたおかげです。だからといって、お父さんにはそんなのわからないだろうし、私もまだはっきりとわかったわけじゃないんです。でも、今の私には、他にすることがないっていうか。


Q 女優は続ける?


はい。そうしたいです。今はメインがここのウェイトレスなんで、女優とか俳優とか恥ずかしくて、大きな声で言えないんですけどね。ただ、もう少し、なんで自分が俳優をやりたいのか、何に執着しているのか、少しでもわかるまで……そうですね、それがわかるまではやりたいです。


 


その後も、さまざまなことを西川に聞かれた。栞は、インタビューが初めての経験だったので二時間近くしゃべってぐったり疲れてしまった。


「栞さん、これ皆さんにお聞きしているんですが、生涯のベスト1の映画ってなんですか?」


「え? ああ……なんでしょうね。まだそんなにいっぱい映画見てるわけじゃないから、お恥ずかしいんですけど。一本って難しいですね、選ぶの……。うーん、そうだなあ。『ロッキー』かなあ。もちろん最初のやつです」


「え? 意外ですね。女優で、その映画ですか?」


「おかしいですか? でも、あの映画最高じゃないですか?」


「いつかボクサー役が来るかもしれませんね」


「でも、誰かを殴るのなんか好きじゃないです。嫌ですよ。私、平和主義者なんで」


「栞さんて、面白いですね、なんか。そういうところ、発揮する機会がきっときます」


「いやいや、『ロッキー』はまじ最高ですよ」栞は笑って言った。


数日後、そのインタビューの一部は文字起こしされ、サイトにアップされた。インタビュー映像の一部も黄菜子が編集してネットに流れた。映画『ロッキー』好きの、ちょっと変わった女の子は少しずつネットに拡散していった。




 東京に秋が訪れた。季節感のない街だがそこかしこに秋の気配は漂っている。栞はバイトをこなしながら、映画が公開される日を指折り数えて待っていた。巡ってきた小さな俳優の仕事を頑張っていると、次第に俳優の自覚が芽生え始めた。


やがて、秋が深まり渋谷ユーロスペースでの公開初日がやってきた。栞も舞台挨拶に立つことになっている。当日前売り券はあらかた売れたという嬉しい知らせも入った。初日ほぼ満席は幸先のいいスタートだ。三週間は三回の上映がある。一日あたり145席×三回上映、MAX435人に対して何パーセントが埋まるかが勝負だと柴崎は言う。動員数が少ないと寂しいのは栞も同じだが、そこまで気が回らないのが正直なところだ。


今日のために有希が選んでくれたワンピースは、クリーム色とグリーンの北欧柄だった。栞は久しぶりにジーンズ以外のものを身に付けた。


午後の上映がスタートする前に監督や主要キャストの登壇が組まれていた。久しぶりに会うキャストもいるので再会が嬉しい。栞にとって全てが新鮮な喜びだった。


時間になると館内が温かい拍手で包まれた。栞は、倉田や雄二や他のキャストたちとともに登壇した。栞は胸が張り裂けそうになるほど感動していた。自分が拍手で迎えられるなど生まれて初めての経験だ。さっきから緊張で手が震えている。栞は拍手の中をこわばった笑顔で進んだ。


司会役はバーディ・フィルムの小島黄菜子だ。プロの司会を頼む予算も削っている。しかし、黄菜子は司会が上手いので多くの観客は本業の人だと思うだろう。黄菜子が登壇者全員を紹介し、それぞれに話を振り始めた。栞の番が早々に来た。


「今回、初主演で、しかもデビュー作となるわけですが、心境はいかがですか?」


多少話は盛っているが嘘でもない。


「はい……とにかく緊張してます。今日は、来ていただきありがとうございます」


拍手が館内から起きる。「がんばれ!」と会場から声が飛んだ。


「あ……すいません、頑張ります」


小さな笑いが起きた。


「あの、この映画のオーデションを受ける前は、ほんと、まじくずみたいな日々で、このままじゃいけないと心を入れ替えてやりました。それが、今日……ここにつながるなんて、一年前の自分に教えてあげたい気持ちです。監督、ありがとうございます」


栞の鮮度のあるリアクションに会場は徐々に和んでいく。


「倉田監督にお聞きします。山名さんを選んだ決め手って何だったんでしょう?」


「はい、そうですね。なんていうか、あまり美人すぎないところでしょうか」


会場が笑いに包まれた。


「でも、お芝居してると、急にきれいに見えてくる瞬間があって、そういうところが魅力的な女優さんだなって」


「確かに、普段とお芝居してるときと、すごく違う印象がありますよね」


「山名さんは、そのあたりどうでしょうか?」


「え? すいません、自分じゃわかりません」


「最初からそれわかってたら、ある意味怖いよね」と雄二がすかさずフォローした。


初々しい受け答えの一つ一つに、館内が柔らかい空気になっていった。しばらく公開初日らしい微笑ましいやり取りが続いた。


「えー、お時間となりました。それでは、上映いたします。皆様ごゆっくりご鑑賞ください」


登壇者が退場し、館内が暗くなり、そして上映が始まった。


栞は、初回は絶対客席で見たいと思っていた。栞にとってここにいる人たちが初めての観客だ。不安と期待が押し寄せた。


 映画が終わると、館内に百数十人分の拍手が起きた。それは栞の胸の内を芯から温めてくれる拍手だった。見知らぬ人たちが自分を肯定してくれている。それが妙に嬉しい。栞は客席に身体を沈めハンカチでそっと目頭を押さえた。小さな一歩目を踏み出せた実感が栞を包んだ。今日来てくれたひとりひとりの観客のことを一生忘れないと栞は誓った。


それからの数日は、怒涛のように過ぎた。劇場に毎日通い、登壇し、観客とのティーチ・インがあり、日替わりのゲストと話をした。毎日、同じメニューはない。それも、宣伝の一つだった。毎回の上映をイベント的にすることで、リピーターや映画のサポーター的な観客を増やす作戦だった。


栞は半分素人のようなものだったから、言われるままに受け答えしたが、それが鮮度につながった。観客は舞台挨拶を見慣れている。予定調和にならない質問と答えが受けた。黄菜子が毎回、夜遅くまでかけて、その様子をサイトに流し、SNSにアップした。文字起こしして載せるとまた違った味わいを産む。映画は予想以上に順調に客足を伸ばした。


〈メジャー版昇格か?〉のニュースがマニアの期待を煽っていたが、あえてそのことはお茶を濁して謎めかせていた。しかし、その戦略が、結果的に栞を決定的に傷つけることになった。


翌日、ネットニュースに、新しい情報が一斉に踊った。




映画『ひとつだけ多い朝』インディーズで大ヒット! メジャー映画へ昇格決定! メジャー版ヒロインは四谷あすみ! 音楽監督にラットネイルスパング井上光も参戦!?




栞はそのネット記事を渋谷に向かう井の頭線の中で見た。そして、劇場へは行かずに下北沢に戻った。






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倉田と柴崎から栞に何度も連絡が来たが、栞は電話もLINEも折り返すことをしなかった。というより、できなかった。今回の件のことを二人は知っていたのだろうと思った。知っていて栞には言わずに、映画の公開や舞台挨拶や他の何やらを一緒にこなしていたに違いない、栞はそう確信していた。客席からメジャー版についての質問が上がったときにも不自然な受け答えをして誤魔化し、笑いに変えていた。栞は二人に裏切られた気持ちでいっぱいだった。


(言えばいいじゃん! 私じゃ、ダメだって言えばいいじゃない! お前じゃ役不足だって、映画にならないって、最初からはっきり言えばいいじゃない!)


栞は怒りが収まらず井の頭線のホームに立っていた。何本も電車に乗らず、ホームに険しい顔をして佇む栞を不審に思ったのか駅員が声をかけてきた。栞は逃げるように階段を駆け降りて、下北沢の雑踏に紛れた。


栞は、あてどなく街を歩いた。行き先など本当になかった。LINEの着信がいくつもあったが見る気になれなかった。


(信じられない。信じられない。信じられない。嘘をつかれた。嘘をつかれた。まじむかつく!)


そのうち、無性に悲しくなった。数日間の夢のような時間が嘘のようだった。観客の温かい拍手。登壇。スクリーンに映った自分の姿。お芝居をしている自分。泣いたり、笑ったり、走ったりする自分。あれは誰だったのだろう? 本当に私だったのだろうか? 自称から他称の俳優になれたと錯覚しただけだったのだろうか? こんな目に遭うなら俳優なんて目指さなければよかったんだ。私には手が届かない世界だったんだ。私なんか、私なんか……栞は涙が止まらなかった。泣きたくなかった。泣けば、認めたことになる。自分が何者でもなかったと認めたことになる。でも、涙は止めどなく溢れた。悔しくて悲しくて情けない。惨めで哀れで愚かだ。栞は、人から振り向かれることも厭わず泣きながら歩いた。


どれくらい歩いたのだろうか……気がつくと、栞はなぜか渋谷にいた。長編版に向けて、一人で役作りするために歩いた渋谷の細い路地にいた。路地にはほとんど誰も歩いていなかった。渋谷を歩く人はもっと華やかな道を歩くのだ。渋谷の喧騒、渋谷の街の灯が涙で再び滲んだ。


(さよなら。カゴメ、元気でね。他の子になっちゃうね。ごめんね……私、最後まであなたと一緒にいられなかった……)


栞は、役(カゴメ)にそっと別れを告げた。栞の脇をキックボードに乗った若者がすり抜けて行った。栞は縁石に座って膝を抱えたまま自分が出たバージョンのラストカットで歌った童謡を小声


で歌った。途中から声が震えた。周囲を行き交う人もなく、その歌声は誰にも届かなかった。






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ユーロスペースの近くにある路面の喫茶店に、倉田と柴崎はいた。この店の珈琲は昔ながらの味がする。いわゆる場所代の味だった。劇場の客入りは順調と言えた。ネットに飛び交う憶測記事やつぶやきが拡散すればするほど客足に比例した。それが製作者にとって本当に望ましい客かどうかは別の話だ。


「報復ですかね?」ぽつりと、柴崎がつぶやいた。


「だろうな」


倉田は久しぶりに止めていた煙草を吸った。この店は今どき喫煙可能だ。


「タイミング上手ですね」


「当たり前だろ。相手はプロなんだから」


「ですね。僕が甘かったです。浅はかでした……。栞ちゃんに悪いことしました」


「そうだな」


「でも、言うタイミングありました?」


「……なかったかもな」


「ですよね」


四谷あすみは、今、どこのテレビ局もスケジュールを押さえるのに最も苦労すると言われている若手女優だ。映画の主演作も数本あり、興行成績は群を抜いている安定感だ。CMも多数抱えている。つまり、一番リスクがない選択でもあった。


倉田は、四谷あすみのキャスティングに不満があるわけではなかった。実際、彼女ならある程度映画の仕上がりのイメージは保証されたようなものだ。それが、本当に作品にとってベストの女優なのかは別にして、彼女の存在が、作品が製作され興行にかかるために、絶対的なピースだと判断した製作陣の判断は理解できる。残念ながら、まだ実績のない監督・倉田の存在自体が彼らにとっては今や一番リスキーなのだ。


倉田は沈んだ声で言った。


「でも、どこかで俺たちは言わなくちゃいけなかったんだよ。あんな形で唐突に知らされる前に」


「そうですね」柴崎が深くため息をついた。


メジャー版を成功させるのには、観客に顔の分かる俳優たちが必要だ。かといって元ネタとなるインディーズ版が不入りでいいわけではない。そこのところの機微をきちんと分析し、着実に実行に移すしたたかさは、大手の映画会社ならではの二枚腰である。


もうすぐ、劇場に登壇して挨拶しなくてはならないが、倉田はひどく情けなくて憂鬱だった。


倉田和也という監督には、ダブル・スタンダードがあることを観客の前に晒すのだから。






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数日後、栞は以前のようにバイトのシフトに入った。部屋に閉じこもっていても仕方ない。スマートフォンを見ないようにするためにも働いていたほうがマシだった。バーディ・フィルムも察して、それ以上栞に宣伝役を振ってこなかった。


時々、渋谷で映画を見た若者が店にやってきて一言二言話しかけてくることもあったが、栞はそんなとき、小さく首をすくめておどけたような顔をして見せた。燻んだような毎日がまた始まった。


「栞」


「はい」


「お前暗いよ」 


淀んだ目をしている栞を見かねた店主が小言を言った。その時間、店に客は少なかった。


「暗いすか」


「うちはアングラ喫茶じゃねえんだぞ、カフェなんだから。アメリカン・ダイナー」 


「どこが」 


「すべてだよ。音楽、ソファ、テーブル。オレの中の1979年のロスアンジェルスを再現してんだ」 


「西海岸で誰がこんなに煙草吸うんですか?」 


「昔は吸ってたんだよ、みんな」


「ふうん」


栞は店内をぼんやり見渡すともなく眺めてみた。天井のシーリングファンが気怠そうに回っていた。スピーカーから気怠い声が流れている。


「店主、この曲なんていうんですか?」


「ん? これか? 『New Kid In Town 』イーグルスで有名な曲だよ。これは、J.D.Southerのだけどな。でも元々、彼がグレン・フライやドン・ヘンリーと一緒に作った曲なんだ」


「へー。いいすね。知らんけど」


二人はしばらくスピーカーから流れる音楽に耳を傾けた。この曲はこの店に似合っている、と栞は思った。少しだけ希望があって、あとはセンチメンタルだ。


「あ、それからな。クヨクヨするな」


「無理」


「まあ、わかるけど」


「わかんないでしょ。店主には」


「店主って呼ぶなよ。マスターとか、豊原さんとかさ」


「店主」


店主が呆れて小さく笑った。


「もういいや、それで。ていうか、わかるよ。俺も昔同じことあったから」


「え、店主、元役者?」


「バンドマンだよ。ギターだよ」


「まじ?」


栞は今まで店主の過去を聞いたことがなかったので、驚いた。


「まじだよ。浅尾昌司って知ってる? 昔のミュージシャン」


「あー、超うっすら」


店主が唐突に昔々のポップスターの名前を挙げた。その人が今、どこで何をしているのか、まだ音楽をやっているのか、栞は見当もつかない。


「アイツとオレ高校から一緒でさ、バンド組んでたんだ。文化祭から始まり、やがてライブハウス、この辺りのハコでも結構やってたんだぜ」


「へー」


「で、三年後、ついにメジャーデビューなんだけど、そんときな」


「何?」


店主の口調はなぜか楽しそうだった。


「切られた。レコード会社と音楽事務所に。お買い上げは浅尾だけ。あいつが曲ほぼ書いてたから仕方ねえんだけど。ほら、これ」と店主は背中のレコードラックから一枚のLPレコードを探して取り出した。すっかり色褪せて、ジャケットが擦れていた。


「これ、A面の一曲目。オレの名前あるだろ、作詞のとこ」


「あ、豊原宏輝!」


「オレ、オレ。印税も来るよ、いまだに。少しだけどな。このときさ、デビューするに当たって、あいつのバックは一流のスタジオミュージシャンになってシンガーソングライターとして売り出されてさ。オレら腕なかったから。他のメンバーもはっきりプロ志望ってわけでもなかったのもあるんだ。浅尾は最初からプロを目指してたけどな」


「店主は?」


「プロになれたら、くらいに思ってたかな。だから、一瞬、夢見ちゃったんだよなあ。だけど現実は違った」


「で?」 


「そのあと? 色々あって、今に至る」


「ちょ、省略しすぎ」


「いいんだよ、オレのことは」


店主が大袈裟に顔をしかめて見せた。そして、いつになくまともなことを言った。


「だから、栞はここで折れちゃうのか、なにクソと思ってバネにして、いつか栞を切った奴ら後悔させるかの二択よ」


「二択しかない?」


「ないね。折れちゃうか? 折れないか? さあ、どっち?」


栞は店主の顔を見た。笑っていた店主の顔が真顔に変わった。奥のテーブルから追加オーダーの声が上がった。


栞はカウンターの端から立ちあがった。


「まだ、わかんないよ、店主」




朝から夕方までのシフトを終えると、栞はアパートに歩いて戻った。一日中、雨はしとしと音もなく降り続けていた。街中が芯まで濡れてしまったようだった。凹んだアスファルトにできた水たまりをわざと選んで踏む。スニーカーはすぐにぐっしょり濡れてしまう。そんな自虐的な独り遊びが虚しくて楽しい。傘もささない。ウインドブレーカーのフードを頭から被るだけだ。歩くうちに雨足はひどくなり、結局髪も顔も濡れてしまう。雨粒なのか涙なのかわからないが、水滴が頬を伝った。


巨人の大きな足に踏まれて、動けなくてもがいているような気分だ。巨人が少し力を入れれば、腹から内臓を出してすぐに死んでしまうのだろう。自分の存在そのものを見知らぬ大きなものから否定されるのが、これほど惨めなものとは思わなかった。栞は、オーデションで落選したのとは全く違う種類の鈍い痛みを日々感じ続けた。


(惨めさにも屈辱にもいろんな形や種類があって、受けるダメージの角度も深度もそれぞれだ。この感覚をどう表現したら人に伝わるのだろう? 悔しいけど、今は引き出しにしまっておくしかない。しかし、傷はいつか癒えるのだろうか……。仮に癒えたとして、そこにまた誰かに塩を塗りつけられたら、またいつか癒えるのだろうか。いつまでそれを繰り返すのだろうか。それに私は耐え続けられるのだろうか。それでもまだ俳優をやりたいと思えるだろうか……)


栞は唐突にショウリョウバッタを思い出した。鮮やかな緑色をした草むらの中で、誰かに無自覚に踏まれて死んだバッタ。子供の頃、原っぱでよく見た記憶がある。バッタは死ぬ間際まで、何が自分に起きたのか知らないままだったはずだ。


冷たい雨に濡れると、いろんなことを弱気に考えてしまう。動物は雨に濡れ続けて生きることはできない。じっとして、雨があがるのを待つ洞穴が必要なんだ、そんなことを考えた。




栞はすっかり濡れた服でアパートの階段を上がった。冷たくなった指で鍵を回すと、鍵は掛かっていなかった。有希が先に帰宅していた。


「ただいま」


「おかえり」


「わ、びしょ濡れじゃん」


「うん、大丈夫」


有希が首に巻いていたタオルを投げてよこした。有希は今回栞が受けたダメージを気遣って、いつもふつうに接してくれていた。


「サンキュ」


「ご飯食う?」


「食う」


「もうすぐ炊けるよ」


ラックの上の炊飯器から湯気が上がっていた。栞は濡れた服を着替えにいった。キッチンに戻ると炊飯器から炊き上がりのチャイムが鳴っていた。


「何作るの?」


「もやたま丼とわかめの味噌汁とピーマンの炒め煮」


もやたま丼は二人の月末の定番メニューだ。卵をとろとろに炒め、いったん取り出してからもやしをさっと炒める。そこに卵を戻し入れ、別鍋で作った中華餡をその上にかける。それを炊き立てのご飯に乗せて食べるのだ。


有希が手早く二人分の丼を作ってくれた。有希の料理の手際はものすごくいいのだ。


「まじ美味い」


「これってなんで定食屋さんにないのかな?」


「こんなに美味しいのにね。あ、お酢かける?」


「うん」


途中から、酢を回しかけて味変するのも二人のお約束だった。


ここが、私の洞穴なのだろうか……。栞はもやたま丼を頬張りながらそんなことを考えた。


有希が声のトーンを変えて話しかけてきたのは、二人が食事もあらかた終えたタイミングだった。


「ね」


「何?」


「私、女優引退する。で、グラフィックやる」


「は? 引退って、デビューすらしてないじゃん」


「いや、そうだけど。グラに本腰入れていこうってこと」


「ほー」


有希は冷蔵庫からお茶を出してグラスに注いだ。


「ほら私、基本ブスだから」 


「は? そんなことない」 


「いや、毎日鏡見てるから。たまたま、体調いい日とか? 角度によっては? 可愛く見えることもあるけど」


「そうだよ」


栞はムキになって言った。栞は有希の顔立ちが好きだった。というか、存在すべてが好きだった。 


「でも、そのブスかわいいってジャンル案外きついのよね。そもそもそんな需要はないし。テレビや映画でも枠はあっても常にひと枠」 


「そんな」 


「そうだって。主役にはなれない。脇の脇にいてもいいかなってとこ、でしょ?」


「そうかな?」 


「いやいや、それは客観的な事実だから。全然いいの。でも、問題は……」 


「何?」 


「私が私の顔を好きだってこと」 


「は?」 


「だから、私は自分の顔も、この小っちゃい背も好きなのよ」


有希がなぜか嬉しそうに言った。


「じゃあいいじゃない」 


「よくないの。私は私をもっと活かす道に行くってこと。ブスかわいいグラフィックデザイナーのほうが、より私らしくいられる。私は自分をもっと肯定できる、それって人生を生きる上で一番重要でしょ?」 


「確かに」栞は有希の妙な言い分に頷いた。 


「だから、女優って表現方法にこだわらないで、グラフィックでガンガン行こうかなーって。好きだしね。演技するのも好きだけど、グラフィックも好きなんだ。私にとっては、どっちも表現することには変わりないの。栞とは違うのよ……。栞は女優が向いてる。結果だってちゃんと出したじゃん。そりゃ、今きついのはわかるよ。でもいつか必ず女優で輝くひと。せっかく、小さくても風穴が開いたんじゃない。三年かけて。こっからだよ、栞は。風通しよくなるって。だから、諦めないで……って勝手すぎるか」


有希がお茶を啜ってから苦笑した。 


「ううん、そんなことない……今まで一緒で、ありがと」


栞は急に泣きそうになった。これまでの三年間、二人で地道に頑張ってきたのだ。 


「うわ、やめて。湿っぽくしないでよ。ね、じゃあ、これから私の引退パーティするか。雄二くんとか大介とか呼んで」


「うん……」 


「朝まで歌うか!」 


「うん……歌う」栞は顔を上げて、鼻を啜った。


それから、栞は雄二と大介の二人を呼び出して南口のカラオケ店で合流した。二人は有希の突然の引退発言にびっくりしていたが、彼女の話をよく聞き、神妙に頷いていた。誰かに線引きされるのではなく、自分で進退を決めることがどれほど難しいか二人はよく知っている。生ビールをピッチャーで飲みながらずっと話しているうちに、方針転換は、挫折なのか新しい夢の始まりなのか、それを決められるのは本人だけだ、という結論になった。


二人はいつもよりやたらはしゃいで、明るく振る舞って、有希を前向きに送り出そうとしてくれた。


大介はその晩、やたらとブルーハーツの曲を歌った。ブルーハーツは、この街から出たロックスターだ。この街にいる誰もがそんなことは知っている。知っているけど、あえて言葉にしない。ブルーハーツになることは難しい。難しいから追い求める。この街にいる若者はみんなそうだ。危うくて傷つきやすい勘違いしたダイヤモンドの原石だ。だから滑稽で愛おしい。 


栞はこの街で出会えた友人たちに、心の中で感謝した。今回のことだって、みんながいたから何とか持ち堪えることができたのだった。


(今は甘えよう。いつか、甘えさせてあげるから……)


南口のカラオケボックスを出るときには、雨は上がって薄く朝日が上りかけていた。路地や駅前には始発まで待って居酒屋で飲み続けたグループがちらほらいた。


この時間帯の下北沢の街は、人の持つどうしようもないだらしなさや弱さを特別じゃないものとして受け止めてくれる。四人は、駅前の富士そばで腹ごしらえをすると、手を振って別れた。わかめそばの出汁が胃に染み渡り美味しかった。






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その日はカラオケの歌いすぎで喉が痛んだ。こういう日は、副流煙が一層きつい。栞は『Pirates』の奥の席でタバコを吸いながら盛り上がる四人連れを上目遣いに睨んだ。店内には彼らしかいなかった。いったい何がそんなにおかしいのだろう。さっきから何かと笑い転げている。スピーカーからリンダ・ロンシュタットの甘ったるい声が流れていた。ほぼ徹夜明けの栞は、眠気と闘いながらワンオペでシフトをこなしていた。


その男がやってきたのは午後の三時半過ぎで、他に客もいない時間帯だった。


「いらっしゃいませ」栞はいつものように、ごくふつうに声をかけた。


男は四十代前半くらいに見えた。皮膚が薄く浅黒い肌をしていた。洗いざらしのミリタリー・ジャケットに白いシャツを着て縞のネクタイを締めている。足元は革靴だった。人と関わる仕事だろう、と栞は思った。最近は、客の様子と仕草から職業を想像する無料のゲームを自分に課している。男が栞のいるカウンターに座った。


「コーヒーと評判のチーズケーキをください」


「あ、不味いですよ」


初めての客には、そう言うように店主から言われている。事実でありジョークなのだが、伝わらない人には全く伝わらない。男が少し笑った。


「正直だ。じゃあいいです」


その男には、どうやら半分だけ伝わったようだった。栞は自分の表現力のなさを小さく反省する。それからマグカップにコーヒーを注ぎ、カウンターの上に置いた。


男がコーヒーを一口啜り、顔をしかめた。


「不味いです?」


「いや、大丈夫。あ、私、こういうものです」男が栞に名刺を差し出した。


「クラレット、かっこS」


「代表の藤枝薫と申します。俳優のマネージメントをやっています」


「あたった……」栞は思わず口の中で呟いた。


「え?」


「あ、なんでもないです、すいません」


「うちのことご存知かどうか」


「すいません、あまり」


栞は恐縮して軽く頭を下げた。名刺を見ると代表取締役社長とあった。


「そうですか。まあ、正直うちは大きな事務所ではありません。しかし、芝居のできるいい役者が揃っていると自負しています。映画見ました。すごく良かったですよ、山名さん」


「え、見てくれたんですか?」


「はい。お客さん入っていますねえ。よかった。あ、YouTubeも面白いですねえ」


「嬉しいです、ありがとうございます」


映画の感想をくれた初めての大人の人かもしれないなと栞は思った。


藤枝が、栞に微笑みかけて用件を切り出した。


「あの、単刀直入に申しますと、山名さんをうちでマネージメントさせていただけないでしょうか?」


「は? 私を?」


「はい。色々いいお話は来てらっしゃると思うのですが、いかがでしょう? 大手の事務所さんのようなわけにはいきませんが、私は長くこの世界でやっていける実力がある人と、一緒に仕事をしたいんです」


「いえ、そんな私なんて、まだどこも……」栞は突然の話に戸惑った。


「バーディ・フィルムの柴崎プロデューサーから、山名さんが所属事務所まだ決まっていないとお伺いしまして。なんなら、もう直接お会いしようと」


「柴崎さんが?」


「はい、とても心配されていて。あの、今回のこととか」


「ああ……」


映画のキャストから、栞が不可逆的に外されたことを藤枝は知っていた。恥ずかしいことを他人から知られたときの惨めさが栞の身体を包んだ。


藤枝は再びコーヒーを飲んだ。少しの沈黙があった。


店主の好きなリトル・フィートが、能天気なロックを演奏していた。その日にかけるレコードを店主は開店前に決めている。その基準が栞にはよくわからない。藤枝が柔らかく話しかけてきた。


「もちろん、すぐに結論を出して欲しいとかではないので、とりあえず今日はご挨拶にと。ご相談したい人もいらっしゃるでしょうし」


「あ、わざわざ来ていただいて、すいませんでした」


「では今日はこれで。おいくらですか?」


「あ、550円です」


栞はレジからお釣りを数えて藤枝に渡した。


「ありがとうございます」


「あの、うちの会社の名前、Claret(s)の意味ですが……『クラレット』ってフランスのボルドー産の赤ワインのことなんです」


「ああ……」


とりあえず相槌は打ったが、栞にワインなんてわからない。


「赤ワインのように熟成させるといい味になる役者が何人も揃っています、という意味も込めて複数形のSをつけていると」


「ああ複数形の」


これなら栞も理解できた。


「山名さんも必ず熟成していい味になる役者さんだとお見受けしています」


「そんな。赤ワインって柄じゃ。せいぜい赤玉パンチで」


藤枝が笑った。笑うと目尻の皺が深く刻まれた。


「面白い人だな。ではまた、お邪魔します。次回は淹れたてのコーヒー、お願いしますね」


「え?」


藤枝があっさり帰っていった。


栞は藤枝に出したコーヒーをスプーンですくって舐めてみた。コーヒーはすっかり煮詰まっていた。


「まずったなあ……」


栞は藤枝からもらった名刺を改めて眺めた。




夕方のシフトに有希が来た。外は小雨が降っているようで、レインコートの肩が濡れていた。有希からは街の雨の匂いがした。栞はさっき来た藤枝のことを報告した。


「え? それってかなりラッキーかもよ!」


「そうかな」


「そうだよ。クラレットって、みんな入りたい事務所の一つだよ」


「複数形ね。ツ」


「単数系でも複数形でもいいけどさ、その話、乗ったほうがよくない? 所属事務所もない俳優なんて風当たり強いだけなんだから。クラレッツなら聞こえ超いいって」


「聞こえかあ」


「大事だよ。イメージって」


「どこの事務所って聞かれて、どこどこですって答えて、なんとなく色とかってやっぱあるから。誰も知らない事務所って辛いじゃん。まあ、ないよかマシだけど」


「まあね」


「それに栞のイメージに合ってるよ、クラレッツ」


「そうかな」


栞の声はわかりやすく少し高くなった。


「映画中心にやってる感じあるじゃん。あと舞台とか。まあ、それは所属してる俳優が、みんなそういう地に足のついた仕事してるからだけど。実力派揃ってるし」


有希が藤枝の名刺の裏書きにある所属俳優の名前を読み上げた。


「でも、私なんか超無名だし、実力もないし、ここに加えてもらうのって、なんかおこがましい感じ」


「これから、ここに名前があっても相応しい俳優になればいいんだよ」


「出た。相変わらずポジティブ・シンキングだなあ」


「まあねー」


栞たちが夢中で話していると、スイングドアが開いて、雨を避けた客たちがぞろぞろと入ってきた。二人はバタバタと接客に追われた。栞は客の注文が入ったので、厚切りのパンにバターをたっぷり乗せてからトースターに放り込んだ。この店で一番美味しいメニューだ。


やがて、バターの焦げる香ばしい匂いがしてきて、栞はその匂いを深く吸い込んだ。しばらくするとトースターがチン! とかわいい音を立てた。栞は藤枝に連絡してみようと思った。




栞は普段滅多に乗ることのない日比谷線に乗って、広尾にあるクラレッツの事務所を訪ねた。広尾商店街は、新しいお店と昔からある商店が混在している。覗いてみたい店がいくつもあったが、ちょっと高そうで躊躇した。商店街を抜けて、道なりに進むとクラレッツの入っている雑居ビルがあった。その四階にエレベーターで上がった。


事務所の中は、さほど広くはなかった。壁に所属俳優たちの出演している映画や舞台のポスターがきれいに貼ってある。入り口で挨拶をするとデスクにいた三十歳くらいの女性が穏やかに対応してくれて、応接コーナーにあるソファに栞は通された。


少しして、藤枝とともに先ほどの女性も着席した。


「マネージャーをしています田端美江です」


「山名です。よろしくお願いします」


「よく来てくれました。ありがとう」


藤枝が笑顔で栞を迎えてくれた。


「狭くてびっくりしたでしょう」


「いえ、そんな。ていうか、広尾来るのも実は初めてで」


「ああ、そうなんだ」


藤枝が意外そうに相槌を打った。


栞は俳優のマネージメント事務所に来ること自体も初めてだった。


「あと、二人マネージャーがいるんですが、今日は現場に出ていていないんですよ」


栞は適当な相槌を打った。この場合どうリアクションするのがいいのかわからなかった。


それから、少しの雑談のあと藤枝が栞に今後の希望を聞いた。


「そんなまだ何も……」


「どういう作品に出たいとかは?」


田端が助け舟を出した。


「あ、そうですね……。できれば、エキストラはあまりやりたくないです」


栞は正直に答えた。実際、エキストラは心が消耗するのだ。


「そりゃ、そうだ」


「ですね」


二人がやさしく笑った。


「映画とかドラマとか……そういうジャンルにこだわりは特にありません。ただ、やってよかったなと思える作品に多く出会いたいです」


「うん」藤枝が深く頷いた。


「俳優なら誰でもそうよ」と田端が言った。


「そうですよね」と栞が恐縮すると、


「でも、それは大事だと思う。全部がそう思える仕事ばかりじゃないけど、うちの所属の人たちにはそう思ってもらいたいと思ってマネージメントしてるつもりですから」田端が真剣な顔で言った。


「あ、はい」


栞は失礼なことを言ったのかと思い、少し慌てた。


「うちに入るとしたら……」


藤枝が具体的に条件を提示しはじめた。ギャラの歩合の割合、振り込み日、事務所が持つもの持たないもの、現場対応、交通費、宣材写真、ホームページの記載、公式SNS、個人発信の仕方……そのほかにも、俳優という個人事業主としての心構えや仕事についてなど。契約書やその更新など、わかりやすく丁寧に教えてくれた。


「最初に曖昧にするのが好きじゃないんでね」と藤枝が笑った。


「そんなにいっぺんに言っても、山名さんもわからないですよ」


田端が小さく釘を刺した。


「今の話はちゃんと書面にして、メールしますから」


「ありがとうございます。助かります」


「あとね、これはうちが持つから、少しボイストレーニングしたほうがいいと思うんだ。そういうの習ったことは?」


「あ、養成所時代にちょっと」


「山名さんは声も特徴があって素敵なんだけど、滑舌がちょっと悪いかなって。言われたことない?」


「あります」


「何かやってる?」


「自己流でちょっとだけ。あ・い・う・え・お・か・き・く・け・こ……」


栞は毎朝起きると続けている練習を二人に見せた。


「あとはカラオケボックスで大きな声出したり、セリフを出してみたりとか、ですかね」


「おお、偉いなあ。自覚あるんだね。でも、少しプロの人にも見てもらうといいと思うんだ。声が届けば、芝居にも余裕が生まれるしね。映像の仕事をメインにするなら、舞台俳優のような発声はまだできなくてもいいんだけど。まずは自分の声に自信を持てるようになってほしいなって」


「すいません、ありがとうございます」


「演技のレッスンなんかは?」田端が聞いた。


「特に」


「まあ、それもおいおい考えようよ。そのときそのときで必要なことが、これから出てくるからさ」


「はい」


栞はこういう話を誰にもしてもらったことがなかったので、実にありがたく感じていた。他者に自分のことを親身に考えてもらえるなんて初めての経験だった。それは栞にとってまるで夢のような持ちかけなのだ。


「じゃあ、とりあえず昼飯に行こう。近くに美味い定食屋があるんだ」


栞は朝から何も食べていないことを急に思い出した。




食事を終えて、藤枝が会計をしているのを外で待っていると、田端が微笑んで話しかけてきた。


「よかった。山名さんが魚の食べ方きれいな人で」


「え?」


「だって、ドラマでも食べるシーンって案外多いでしょ。若い俳優って出ちゃうのよ、素が。お箸の持ち方やお茶碗の持ち方なんて時代劇でもない限り俳優任せの現場が多いから。若い監督は演技のことは言っても、そこまで見ない人多いし。でもね、変な食べ方してそのまま撮られちゃって、損をするのは俳優よ。特に女優はね。何となく画面が汚く見えちゃうもの」


「そうなんですか?」


「そうよ。怖いわよ、映像って。俳優がしたことは全部映ると思ってね。でも、役で汚く食べるのは全然ありなんだけどね」


「へえ」


「そういうシーンあったらよく見ていて。売れている子や残っている子はちゃんとしてるわよ、そういうところも」


栞は田端の言葉に神妙に頷いた。


「私たちに何ができるかまだわからないけど。一緒に強くなれたらって思っています。だから、いいお返事待っていますね」


栞はめまいがしそうなほど嬉しかったが、何か言葉にしたら泣いてしまいそうで、ただ頭を深く下げた。


「行くよー」と言って、藤枝が出てきた。


栞はこの人たちになら自分を預けてみたいと思った。


 夜になって田端から送られてきた契約書を読んだが、固い言葉で正直ほとんど頭に入らなかった。それでも内容を箇条書きにしてくれた添付文書については概ね理解できた。


仕事があれば翌月にギャラは入るが、給料制ではなかったから栞の生活が急に変わるわけではない。


(結局、私次第というわけね……。そのほうがいい。甘えがなくなる)


しかし、これまでのように独りで立ち向かわなくていい。伴走者がいる。栞は、そう思うと心が軽くなった。そして、一層気を引き締めた。


数日後、宣材写真(アー写)を撮るからと田端から連絡があり、栞は指定されたフォトスタジオに向かった。スタイリストとヘアメイクが控え室にいたことに、思わず気持ちが高揚した。二人とも気さくな人で、栞の緊張はほぐれていく。さっと着替えとメイクを終えると、ホリゾントの前に白いシャツと黒いスカートを身につけて立ち、カメラマンにいくつかポーズを求められた。何しろ初めてのことなので、栞はどうにも居心地が悪い。なんとなく場違いな気分がするのだ。


シンプルで品のあるモード系の服は、栞のすらりとした体型によく似合った。初めて袖を通すタイプの服だ。へメイクもナチュラルに仕上げてもらえた。栞のどこか人好きのする目元が、ごく自然に強調されている。カメラマンは、事務所のホームページの俳優の写真をずっと撮っている人だそうだ。藤枝の昔からの友人らしい。硬質なポートレイトを撮るのが上手いのよ、と田端が教えてくれた。栞は時間が経つうちに、だんだん雰囲気に慣れてきてリラックスできるようになった。栞はカメラマンに言われるままに幾つかの表情を浮かべた。ストロボライトがとても眩しかったことだけが印象に残った。


撮影が終わると、田端が乃木坂の裏通りにあるカフェに誘った。田端は甘いものに目がないそうだ。そのせいか少しふっくらしている。店内は業界人らしい人やモデル風の人がいる。栞は下北沢との違いに臆してしまう。トレイに乗せられてきた美しいケーキの中から二人はそれぞれ好みのものを選んだ。


「お疲れ様でした」


「こちらこそありがとうございました。あんなふうに写真撮ってもらうの初めてなので……。あれでよかったんですかね?」


栞は恐る恐る聞いた。


「大丈夫よ。あとでセレクトしてもらったのもチェックするし、すごくいい表情していたから」


「ほんとですか?」


「ええ。山名さん、これからだね」


「はい」


「頑張りましょう」


田端の提案でバイトのないときに、先輩俳優の撮影現場を見学することになった。


「人の芝居を見ることが一番勉強になるから。それにね、早くあっち側に行きたいって気持ちになる。欲を出してね。それは決して悪いことじゃないし、最終的には俳優って、その人の放つ熱量だから」


「熱量ですか……」


栞は田端の言ったことを考えてみた。そして、自分の中の熱を推し測った。


「大丈夫。それは普段わかりやすいものじゃなくてもいいの。お芝居したときに熱を放てば。藤枝もあなたの中にそれを見たから声をかけたんだと思うの」


 栞は小さく頷いた。




バイトの休みの日のたびに、挨拶回りがてら所属俳優の仕事現場を訪ねることになった。そこで自然な形でスタッフや共演者に紹介してもらえた。所属の俳優たちは、皆、気さくに栞に接してくれた。栞は、少しずつ自分が事務所に入ったことを実感できた。行ったこともないテレビ局のスタジオや映画のロケ現場、舞台の楽屋……。それは、栞が今まで望んでも手が届かなかった世界だった。それが、今、目の前にある。まだそこに立つことはできていない。ほんの少し手前にいる。


三軒茶屋の立派な劇場で見た翻訳物の演劇がことのほか興味深かった。下北沢よりかなり敷居が高い立派な劇場だ。それは舞踏が得意な俳優たちが、イギリスから来た演出家と作り上げた音楽劇だったのだが、俳優たちの肉体の使い方が芸術的だった。今の栞には自分の身体をあそこまでコントロールすることはできない。イギリス人に演出されるのも何だか面白そうだった。そのことを田端に話すと、意外そうな顔をした。


「舞台に興味あるの?」


「時々、友人が出ている舞台をシモキタで見るくらいです」


「定期的に舞台を見るのはいいことだから続けてね」


「はい」


「見ておいたほうがいいかなと思うのがあれば、私も探しておくから」


「はい、ありがとうございます。映画は海外の作品をよく見ます。海外の俳優のするお芝居って何であんなに自然なんですか?」


「何でだろうね。メソッド演技だからってばかりじゃないだろうけど。もちろん厳選された作品が日本に入ってくるわけだから、ある程度素晴らしいのは当たり前だけど。とにかく海外は競争が激しいし俳優の数が何倍もいるから。ふるいにかけられているしね。ビジネスとして成立してるからなのかなあ。映画はもちろんだけど、配信のドラマとかもスケール感が違うものね」


「ほんとそうです! ああいうのいつか出たいです。『Shameless』とかハマって三回見ましたよ。なんでもない人が超演技うまいんです。だから毎回見るたびに発見があって」


「海外作品にも興味あるようだったら、藤枝にも言っておくね」


「いえ、私なんかまだ」


「あ、山名さん、『私なんか』ってよく言うけど、それやめようね。カメラの前に立てば、新人もベテランもない。同じ俳優部だよ。もちろん、先輩に対する礼儀はマストだけど、臆する気持ちや自分を矮小化することは芝居の邪魔だから」


「あ……はい」


栞は自分のよくない癖をズバッと言われたようで背筋が伸びた。この三年で、自己肯定感が正直下がっているのだ。


「それに、これからは日本の中だけで考えないでいこうよ。私たちも価値観を変えていかないと。世界の名だたる才能と出会うために自分はいるのだ、くらいに思ってないと。いつ、海外作品のオーデションが舞い込むかわからないんだからさ」


「はい」


海外作品……それはさすがに早過ぎるだろうと、栞は曖昧に微笑んだ。


「藤枝さんって、海外作品にうちの俳優出すの好きだから。実際、ごくたまにだけどうちも出ているしね。世界の映画作りを経験できるのは私たちにとっても財産ですもの。あの人、エミール・クストリッツアとスザンネ・ビアと仕事するの夢らしいよ。見たことある?」


「ないです」


「見てね」


田端がレンタルや配信で見られる作品を教えてくれた。栞は帰りに近所のTSUTAYAに寄って早速二本借りた。こういうのは早いほうがいい。帰宅後、すぐに栞は借りてきた映画を見た。『アンダーグラウンド』の世界観に圧倒され、『アフター・ウェディング』の人間の洞察にため息をつき、藤枝の趣味の良さに感動した。




翌日に見学に出かけた撮影現場で、栞はスタッフから声をかけられた。スタジオの端で先輩俳優の所作を見落とさないように集中していたときだったのでふいをつかれた。


「山名さん、元気?」


「あ、結城さん!」


結城はインディーズ版『ひとつだけ多い朝』を仕切っていたチーフ助監督であった。


「事務所入ったんだね」


「はい、おかげさまで」栞の胸に懐かしい気持ちが込み上げた。結城は何も知らない栞を陰で支えてくれた演出部のひとりだ。


「色々大変だったね」


「まあ……ですね」栞は苦笑いした。


結城がこっそり打ち明けるような口調で話し始めた。


「僕もさ、自主制作撮ろうと思って準備してるんだ。あの作品に関わったことで火がついたっていうか。助監督しながらだけど、同世代の奴らで集まって面白いことやりたいなって」


「いいですね」栞は結城に微笑みかけた。


「待ってるだけじゃつまらないしさ。ねえ、いいのが書けたら、そのときは出てくれる?」


「もちろんです」


大介や雄二からも横のつながりの大切さを散々聞かされている。事務所に所属したからといって急に仕事があるわけじゃない。それより自分で作った繋がりのほうが生きてくることがある、そういう時代だよと。


栞は俳優になりたいのだ。有名になりたいのではない。志がある作品なら、規模や役の大小に関わらずなんでもやってみたいと田端にも伝えていた。田端も同じ考えで、積極的に同世代のスタッフや俳優と交流していくことを勧めてくれている。今の時代、メジャーだとかインディーズだとか関係なく、面白いものを作ろうとする人たちと絡んだほうが絶対にいいと田端も言ってくれていた。


「山名さんの存在が、自主制作映画を盛り上げるきっかけになればいいね」結城が笑った。


「そんな、大袈裟な」栞も思わず笑った。自分の存在が誰かの刺激になるなんておこがましい、考えてもみなかった。


「いや、この世界何がきっかけになるかなんてさ、誰にもわからないよ」


そう言い残すと、結城は足早に撮影現場に戻っていった。


確かに。価値観は自分で決めればいいんだ、と栞は改めて思った。




 バイトの合間を縫うようにして、ボイストレーニングが始まった。渋谷にあるスタジオに週に二回通う。ボイストレーナーは三十代の女性で姿勢のよいすっきりとした立ち姿の女性だった。


栞が挨拶すると、トレーナーはにっこりと笑いかけてくれた。


「いい声。鍛えがいがありそう」


「よろしくお願いします」栞は頭を深く下げた。


発声の基本は腹式呼吸だ。お腹から声を出す。しかし、それが立ちすぎると個性がなくなるらしい。栞は横隔膜を意識しながら、声を出した。それまでいかに喉元からだけでしゃべっていたのかが実感できた。


「最終的には、心がしゃべるのよ」トレーナーは神妙な顔をして言った。「テクニックは大切だけど、それだけじゃだめ。役になりきったあなた自身の声じゃなきゃ。誰かの声が心地いいとか、癇に障るとかあるでしょう?」


「ありますね」栞は頷いた。


「それって、どういうことかわかる?」


栞は首を傾げた。


「それはね、あなたの心がその人の声に反応するからよ。普段から意識して人の声を聞いてみて。なんとなくわかってくるから。あとね、声に芯がない人っているのね。そういう人の声は人の心に届かない、流れちゃうって言うのかな。きっと、レコーディングスタジオの波形モニターとかで分析すればすぐわかるんだろうけど」


「意識して聞いてみます。」


確かに、改めて耳をそば立てて聞いてみると人の声は様々だ。ちゃんと耳に届く声というものがある。逆に何を言っているのかよくわからない声もある。


人の声を聞くにはバイト先の『Pirates』はうってつけだ。多くの見知らぬ声が交差するから。人の話を聞く、ちゃんと話す。当たり前のことを流さず毎日繰り返す。無自覚に反応せず、意識して心を動かす。店にいてもできることだ。注文をとって、運んで、代金をもらい送り出す。その中にも発声の練習に役立つことはあった。


演技するときに、自信を持って自分の声で喋る、それは案外と難しいものだ。それに自分の声を客観的に聞くことは普段あまりない。栞はスマートフォンにセリフを言う自分の声を録音し、繰り返し聞いた。


(こんな声なんだ……この声でこれから私はやっていくんだ)


改めてボイストレーニングに真剣に取り組んでいると、少しずつ声の出し方のコツみたいなものが体感できた。


「そうそう、そういう風に感情を出すと、もっと人に伝わるわ」


トレーナーは褒め上手で、栞のような初心者を扱うのがうまかった。やる気を引き出してくれる。栞は自分の声を自由に使って、いつか思い切り芝居する姿を想像した。そうすると余計にやる気が出てくる。やる気が出てくると、背筋は伸びてますますいい声になる。いい循環だった。栞は、わずかだが小さな手応えを感じつつ日々を過ごすようになった。






           17






木枯らしが強く吹いたその晩、インターネットにスキャンダラスなニュースが飛び交った。




四谷あすみ、まさかの不倫! 妊娠中絶? 自殺未遂か!? お相手はカリスマ・スタイリストのナカムラ航太!




ドラマ関係者、広告関係者、そして万映の関係者に衝撃が走ったのは言うまでもない。あらゆるリスクを避けるためにキャスティングされていたのが、四谷あすみでもあったはずなのに、今の時代に最も避けなくてはならないことが起きた。


記事によると……


 


四谷あすみ(22)とカリスマ・スタイリストのナカムラ航大氏(34)は二年ほど前にT製薬のスポーツドリンクのCM撮影で知り合い、意気投合。以来密かに交際を続けていた。


最近では、西麻布の会員制レストラン『K』での目撃情報が、度々本誌にも寄せられていた。問題はナカムラ氏には妻子がいたことだ。今年に入って四谷の妊娠がわかるとナカムラ氏サイドから中絶を強要され、それに一旦は従ったものの、その後別れ話に発展することとなった。  


そして、昨夜未明、四谷は自宅バスルームで手首を切った状態で発見された。第一発見者のナカムラ氏はすぐに救急車を呼び、何とか四谷の一命は取り留めたが、今後の仕事はすべてキャンセルとなった。すでに収録済みの作品を放映するかどうかは検討中との回答が各局への取材で分かっている。また、オンエアされているCMは、現在すべて別のCMに差し替えられている。所属事務所の関係者によると、現在の四谷の病状は入院先で落ち着いているとのことだが、詳しいことは現在医師の診断待ちとのことで、憶測報道は控えてほしいとのことだった——。


 


万映では製作委員会の面々が集まって協議を進めた。まずは四谷の事務所からの聞き取りをはじめ、現状把握を共有した。面々にとっては重苦しい共有作業だった。今までのようにあまり口を開く人もない。


数日後、製作委員会の意見は二つに割れた。製作中止か代役で続行かの二択だった。製作発表を正式にしていないのだから、四谷の主演話はまだニュース段階だと幹事会社の万映は主張した。もちろん水面下では出演が決定していたし、他のキャスト陣の事務所にもそう伝えてある。製作委員会に集った会社は、そもそも四谷主演という条件でこの企画に乗っていたのだ。


「代役を至急立てます」曽根は鎮痛な面持ちで会議で発言した。


「他に候補はいるのですか?」出資比率が高いIT系M社の担当が聞いた。


「いなくはありません」


「誰ですか?」


曽根は売れっ子のAとBの名前を上げた。もちろんブラフだった。万映には幹事会社としての責任と面子があるのだ。一タレントの不祥事で軽々しく製作中止は言えない。


広告代理店・電萬の出資担当は暗い顔をしていた。彼の会社では四谷のCM案件を数社抱えているのだ。それらの今後の交渉や賠償の調整、その他の損害を考えれば、映画の出資案件は小さなことである。しかし、いきがかり上、自分たちが最初に抜けるわけにはいかなかった。


会議は結論の出ないままお開きになった。各社がそれぞれ会社に持ち帰り、上席の判断を仰ぐ。要するに会議に出ている人は誰も決定権がない各社の担当だった。


 


 曽根の代役探しは難航した。一つはスケジュールだ。売れっ子のスケジュールは一年先、二年先まで埋まっている。スケジュールを縫うにしても、今回は他の出演者も含め多数いるので、大きく変更するとなると大手術になる。できれば従来のスケジュールに、そのままハマる女優が製作サイドにとっては望ましい。


もう一つはイメージの問題だ。スキャンダルで降板した後を受ける理由が、売れっ子にはない。対世間への見え方が、四谷の格下とわざわざ認めるのも、同格の女優かそれ以上の女優だと難しい。それほどのリスクを背負う案件(=企画・脚本・監督)ではない。


若手の抜擢案も万映では検討された。しかし、今度は製作委員会が納得できない。至急決めなくてはならないのだが、うまくハマる女優はなかなか見つからなかった。


曽根は毎日青い顔をして上に下に対応に追われていた。他のキャストの事務所からも、そもそもやるのかやらないのか、スケジュール通りクランク・インするのか連絡がひっきりなしに入った。どこの事務所も、今回は万映に恩を着せるためにエースクラス・準エースを出したのだ。映画が飛ぶと、長い期間押さえられている分、調整が要るし、何より、出演を楽しみに準備している俳優たちの気持ちがある。確かな情報が欲しいのだ。マネージャーたちは所属俳優にきちんと説明しなくてはならない。それに、結果空いてしまうのなら、今から他の仕事をブッキングしたいのだ。今回は加えて音楽関係のバンドも多数キャスティングしていたから、畑違いの面々とのやりとりはさらに大変だった。


元々、一月中旬の今井組の延期(そのころには、ほぼ無期延期になるだろうと言われていた。つまり今井監督の病状が回復の見込みがないことを意味する)に伴うピンチヒッター的な企画だ。この時期に撮れないのならあまり意味がない。しかし、曽根にしても二本続けて流すというのは、どうにも具合が悪い。縁起の悪いプロデューサーと周囲から思われ、会社での立場も微妙なものになる。どちらも、曽根のせいではないのだが、巡り合わせというか、困った状況だった。しかし、側からすると、曽根はどう考えても縁起の悪いプロデューサーにしか見えなかった。


 


倉田の元に、たいした連絡はなかった。「諸々調整中です」と、業務連絡的なメールが数日おきに来るだけだった。最初、倉田はこのニュースを柴崎からのメールで知った。すぐに記事をパソコンで読みながら、これはバチが当たったのだろうと粛々と受け止めた。これでもう個人の想いや物づくりとは別のフィールドに事態は上がってしまったのだ。


倉田の妻がキッチンでカレーを作っていた。日に日に大きくなる妻のお腹を倉田は横目で見た。こういうときは、いくら焦ったところで、無駄なだけだと倉田は知っている。ただ、待つしかなかった。そして、もうこの企画は流れるだろうと覚悟した。


映画にはうまくいくときの流れがある。そして、その逆もある。これまでいくらでもそういう場面を倉田は見てきたし、師匠や先輩たちが苦い酒を飲むのに何度も付き合ってきた。助手時代だって流れれば辛い。その間に保証されていたギャラもなくなる。かといって、率先して他の仕事を探すのも道義的にしづらい。制作会社と契約書を交わしていないからといって、それをやってしまうと評判が悪くなる。評判はお金では買えない大切なものだ。フリーランスで働くスタッフたちにすれば、予定されていた作品が直前で飛ぶことは、何より困ったことだった。


今回のスタッフは、声がけを倉田からしていないとはいえ、監督としての道義的な責任は残ってしまう。倉田は被害者でありながら、加害者でもある。


倉田のパソコンに、またスタッフからメールが入った。倉田は改稿途中の原稿の文字を打つのをやめパソコンを閉じた。自分の無力さを呪った。師匠のS監督なら、こんなときどう振る舞うだろう。倉田は遺影に煙草を一本供えた。頬杖をついた遺影はただ静かに微笑んでいて、何も答えなかった。


クランク・インの予定日まであと二ヶ月をとうに切っていた。


 


 


            18






 『Pirates』の夜のシフトは、いつも若い客で混み合う。下北沢は昔から若者の街だ。ずっと主のように留まる人もいるが、多くの人は卒業していく街でもある。栞は今夜も相変わらず忙しく立ち働いていた。  


その晩、カウンターには大介と雄二が遊びに来ていた。二人とも四谷あすみのスキャンダルの話題は避けている。栞にしてもそのほうがありがたい。それに、話すと言ったって何を話せばいいのかわからなかった。人気抜群の清純派女優のスキャンダル報道は、日々加熱するばかりだ。だが、人の不幸を笑う余裕なんて栞にはなかった。むしろ、インディーズ版に悪い影響がなければいいと思っていた。裏切られた思いはまだ少なからずある。しかし、もう内心チャラにしたい。自分は新しい気持ちで前に進みたい。栞はそう切り替えていた。


「ほんとにチーズケーキ食べるの?」栞は二人にもう一度聞いた。


「食う食う」


「俺も」


「不味いのに」


「それがいいんだよ。美味いのなんか、今どきどこでも食えるじゃないか。これは、ここでしか食べられないの」


「変なの」


二人が栞に気を遣ってふざけているのが分かった。きっと、栞が味わったようなことを少なからず二人も味わったことがあるのだ。だから、痛みを共有できる。


「おっ、栞ちゃん、事務所のホームページ出てるじゃん」雄二がクラレッツのホームページをスマートフォンで開いた。


「可愛く撮れてるじゃない」と大介が言った。


「こういうの載ると、役者って感じがするよな。モノクロ写真だもんな。かっこいいよ」


「バカにしてる?」


栞が文句を言うと、雄二は笑った。


「してないよ。でもさ、よかったよなあ、いい事務所入れて」


業界の先輩にそう言われると栞も嬉しい。


「うん。みんないい人だし」


「ここからだなあ」雄二が先輩ヅラをして言った。


「何だよ、偉そうに」と大介が大袈裟に笑った。


そのとき、栞のスマートフォンに田端から着信があった。栞は店主に目で合図してからこっそり出た。


「ごめんね、仕事中に。いま大丈夫?」


「あ、はい」


「ちょっと確認しておきたいことがあって」田端の声はいつもより硬かった。


「何ですか?」


「うん、あのね……」


田端がクラレッツにかかってきた電話の内容についてかいつまんで話した。


「え……?」


雄二と大介が声の調子が変わった栞を心配そうに見た。


「……すこし時間ください」






             19






製作委員会の誰もが納得できる代役は、まだ見つかっていなかった。


〇〇はA社がよくてもB社が首を横に振る。●●はC社がよくてもD社は乗れない。何名かの候補は上がったものの堂々巡りだった。時間だけが過ぎて行った。


曽根は候補を立てるにあたっては、代役と理解してもらっての出演交渉・調整をした上で製作委員会に提案している。当然スケジュール・ギャラ等の裏取りもしなくてはならない。それは短い時間でするには、かなり労力が必要で難易度が高い作業だった。曽根は自らパズルを複雑にしてしまっていた。


結局、八社ある製作委員会が全社前向きに乗れる代役はなかなかいなかった。そして各社が出資比率を下げてきたり、そもそも参加を見送ったりと、流れは製作中止に傾きかけていた。四谷あすみの降板は大きく尾を引いた。映画の企画は立ち上げるのも労力が要るが、閉めるのにも別の労力が要る。




              *




曽根が困り果てて、倉田に正直なところを報告し、相談してきた。倉田は話を聞き、もうこの映画は流れるだろうと踏んだ。というより腹を括った。


数日後、曽根がさらにギリギリの状況を伝えてきたメールに倉田は再開にあたっていくつか条件を提案してみた。それが正しい判断だったのか、倉田は正直わからなかった。しかし、もつれた糸を解きほぐすには、それがいいような気がした。曽根が電話口で考え込むように無口になっていた。


倉田の提案の判断は製作委員会に預けられた。そして、一週間後、それは渋々だが了承された。製作委員会は、中途半端なバリューより〈鮮度〉を選んだのだった。事態が動くと、一気に物事は加速する。そういうところも映画製作にはよくあることだった。先方が、条件を飲む代わりに出したのは、予算の大幅な削減と脚本のリライトだった。ローリスクでハイリターンなら文句はないが、今回はローリスクでローリターンでも仕方ない。そういう判断だ。


倉田はそれを了承した。予算が減るくらい何でもない、と倉田は思った。大切なのは、この物語を元の志に戻すことだった。




               *




製作陣に急遽呼び出された藤枝は、銀座にある万映の会議室にいた。ガラス製の灰皿が置いてあるような古めかしい会議室だった。いったいどれくらいの俳優事務所のマネージャーがこの席に座り難しい交渉をしてきたのだろうと藤枝は思った。いずれにしろ、ここで話すことは、外に漏らしてはいけないことしかない。藤枝は、目の前に置かれた準備稿と印刷された脚本とスケジュール表に目を落とした。まだ、触れることはしなかった。


「チャンスでしょう?」


「はい、ありがとうございます」


プロデューサーたちの横には監督の倉田もいた。いつにも増してプロデューサーの曽根が饒舌だった。


「映画は夢があったほうがいいと思うんですよ。最近の邦画って作っている我々が言うのも何だけど、夢がない。大昔はあったじゃない。80年代だけど……90年代の頭まではあったかな。まあ、実際そのころは僕も知らないけど。で、映画界に突然現れる新人がいたじゃないですか。俳優も監督も。でね、この作品で、そういう再来みたいな見せ方したいんですよ」


「いいですねえ」藤枝は愛想笑いをした。


「いや、これは何かの縁だと思うんですよ。山名さんが藤枝さんところに所属決まったタイミングですからね。これは事務所の見映えっていうか、看板になるじゃないですか。いきなり映画の主役に抜擢って。監督も元々、山名栞で行きたいって言っていたわけだから。まあ、そのときはこちらの事情が許さなかったけど、今はまた事情も変わったしね。それに、今流しちゃうと、もう撮れないと思うんですよ、この作品。せっかくいい脚本(ホン)できたしねえ。そうなると押さえている他のキャストもスタッフもね、まあまあきついし」


「ですね。……監督はどうなんですか?」


藤枝は曽根に相槌を打ちながら、倉田の顔を見た。


「はい……もし山名さんが許してくれるなら出て欲しいです。インディーズ版が海外に出れたり、ミニシアター公開が決まったのも彼女の頑張りがあってこそですから」


「いえいえ、それは監督の力ですよ。役者に愛情がありましたからね」


藤枝は正直に言った。映画を見てそう感じたからこそ、栞を自分の会社でマネージメントしたいと思ったのだ。スタッフに愛される役者は伸びるからだ。


「ただ、この状況でもう一度、山名をとなりますと……」


「まさか断るの?」


曽根が眉を軽く潜めた。藤枝は小さく首を振った。


「一つだけ、お願いがあります。倉田監督から山名に一言だけでいい、きちんと謝ってもらえませんか?」


「え?」


その場にいた、製作陣が一瞬言葉を失った。


「他に条件はありません。スケジュールもギャラもすべてお任せします」




藤枝は事務所に戻ると、田端に簡単に経緯を説明した。


田端が軽く天を仰ぎ、冷蔵庫から水を出しテーブルの上に置いた。


「そんなこと言っちゃったんですか?」


「いやあ、ついな」


「ついな、じゃないですよ。印象悪いなあ」


「ダメだったか?」


「いえ、最高ですね」田端がクックッと小さく笑ってクッキーを頬張った。


「俳優は作品のしもべじゃない。作品にギフトを与える存在だ。俺はそう思ってこの仕事をしている。その対価がギャラでしかない。今は、順番が逆になってるよな」


「まあ、仕方ない部分もありますが」


「でも、せっかくうちに来てくれたんだ。なんていうのかなあ、事務所があんまり下手に出るようだと足元見られるだろ」


「誰にですか?」田端が意外そうに聞いた。 


「山名にだよ。信頼関係がまだできてないんだからさ。がっかりさせるようなことはしたくない。何だこんなものかって思われたくないのさ。これから先の付き合いのほうが長いんだ。大人ってやるときにはやる、守るべき存在は守るって見せたかったんだよ」


「見栄っ張りですよね、社長って」


「悪いか」


「それが大切なときもあると思います。で、どうするんですか?」


藤枝はニヤリとして、ペットボトルのキャップを捻った。


「監督にうちに来てもらって、一言だけでも侘び入れてもらって、手打ちだ。山名にはしっかりやってもらいたい」


「彼女の気持ちは?」


「聞くよ。それが一番大切さ。でも……どう考えてもチャンスだ。あの子、引きが強いよ」


藤枝はペットボトルの水を大きく飲んだ。






            20






午後の広尾商店街は、いつも通り適度な人の流れがあった。明治通り沿いは高級な感じだが、一本入れば生活感もある。いつかこんな街で暮らしてみたいものだと思いながら、栞は歩いた。すり減ったスニーカーの底は、そろそろリペアが必要だ。直して履くか新しいのを買うか、いつも迷っているうちに穴が空いてしまい、結局捨てることになる。直すなら今なのだ。


栞はエレベーターを上がり事務所の扉を開いた。


「おはようございます」


「おはようございます」と田端が返した。


栞は応接コーナーに座るよう言われた。電話を終えた藤枝が向かいに座った。


「悪いね、わざわざ」


「いえ」


田端がペットボトルの水を栞の前に置いた。藤枝がソファに座ると早々に切り出した。


「で、どう思った?」


「はい……正直、嬉しいようなムカつくような」


「そうだよなあ」藤枝は笑った。


「勝手に喜ばせて、勝手に傷つけて」


「そうね」田端が相槌を打った。


「そういうものなんでしょうか?」


「うーん……そういうところもあるかな」


「乗り気じゃない?」田端がテーブルの上のカットパイナップルを一切れ食べた。


「自分でもわからないです」


「ここでは思ったこと何でも言ってくれていいんだ。僕たちはパートナーなんだから」


「そうよ、何でも言ってみて」


 藤枝も田端も栞を尊重してくれているのが伝わってくる。


「はい……ありがとうございます。……私、前のインディーズ版に出演が決まったとき、ほんと嬉しくて……まさか自分が選ばれるなんて思ってなかったから。それで、撮影も楽しくて、スタッフの皆さんも監督もなんか温かくて。手作りっていうか、一緒に作ってる実感があったんです。ようやく俳優らしいことできて、なんだか嬉しくて……あれが完成したのを立派な試写室で見たとき、正直、これで終わっても悔いないくらいに思っちゃって」


「うん、よかったもんなあ、あの映画の山名は」


「それで、まさか、それが長編になるとか考えてもみなかったし、でも監督に、新しい脚本見せてもらったとき、もしかしたら……また、同じかそれ以上の感動が得られたら最高だなって、正直思いました。でも、どこかでそんなうまくいくわけないよなって思ってました。だって、それまで、ほぼエキストラみたいなわけですから、私なんて」


「ふむ」藤枝が静かに頷いた。


「確かに、一瞬夢見ました。それがどんな意味があるかとか、監督やスタッフの皆さんがどんな思いかとか考えられなくて、ちょっと自分のことだけ考えて浮かれました。それで、しばらくしたらスコンと穴に落ちました。監督と並んで歩いていたと思ったら、私だけ穴に落ちた感じがしました。落ちたら、真っ暗でした。


でも、誰かを責める気持ちっていうか……あ、最初はあったんです。すごくあったんです。でもそのうち、そういう感情じゃなくて、自分を責め始めました。夢見たお前が悪いんだろって。美人でもなく、スタイルがいいわけでもなく、芝居もたいしてできないくせに、たまたま小さな映画に出たくらいで、そんな大きな映画に出られるわけないだろって、世界中の俳優に笑われているような気がしました。


だから、当然なんだ、これで元に戻っただけだって。だからって、俳優辞めようとか、そういうのでもないんです。皆様、現実を教えてくださりありがとうございますって感じでした。その暗闇の中で、毎日色々考えました。私は何で俳優を目指したのかとか、どうなれば幸せなのかとか、何が好きなのかとか、でもなかなか考えはまとまりませんでした。台本にあることを演じる、役を生きるなんて、今の私が言うとほんと安っぽいんですけど、でも……いつかまた、そういうの思い切りやりたいよなって」


「そう」田端が真面目な顔で頷いてくれていた。


「そのとき、落ちた穴の上からロープを垂らしてくれたのが、藤枝社長だし、田端さんです。私はそのロープを掴みました。ありがとうございます」


「いや、そんな」


藤枝は組んでいた腕を解いた。


「今は、まだそのロープに掴まってようやく穴から出られるかもしれないと、もがいています。正直、そんな状態なんです。だから、お電話いただいたとき、時間くださいって田端さんに言ったんです」


「そうだったの」


「苦しかったなあ」


「はい……今も苦しいですけど、向き合おうって」


「そうか」


「ただ……怖いんです。どこか疑ってしまって」


「何を?」


栞は正直に言った。


「イエスって答えて、またすぐノーって突き落とされること」


「うん。しかしそれはないだろう、今度は」


「そうでしょうか? 私、何もわかんないから」


「倉田監督も二度はしないよ。イコールこの企画は今回流れるってことだ。一度流れたら、そう滅多なことで再開することはない。もちろん、例外はあるけどね。あ、流れるっていうのは業界用語で、企画や撮影が実現直前でなくなるとか見送られるって意味だよ。製作者や我々にとって作品は大切な赤ん坊のようなものなのさ」


「そうなんですか」栞は頷いた。


藤枝が続けた。


「それに、四谷あすみが降板したときに、監督が他の代役蹴ったんだよ」


「え?」


「プロデューサーの持ってきた候補にね。実際、難航したらしいんだ。スケジュールも急だし、代役のイメージを嫌う事務所も多い。それでもOKとなると、やはり実力も鮮度にも欠ける」


「倉田さんは、昔から知っているけど、うちの事務所も陰ながら応援している監督なのよ。時々、彼の撮る深夜ドラマ出ているしね、うちの俳優も」田端が補足した。


「そうだったんですか」


「助監督時代からよく知ってるよ。当時からうちの俳優にもよく声かけてくれていたし。苦労してきたからなあ、いろんな監督の下で。まあ、まだちょっと迂闊なところはある男だが」


藤枝が苦笑した。田端もしきりに頷いた。


「倉田さんって、そういうところありますよね。まあ、そこが子供っぽくて監督らしいのかも知れませんけど」


「浮かれちゃったんだよ。メジャー作品だもんな。そんなもんさ、監督だって。山名もわかったろ? 監督なんて絶対的な存在じゃないんだ。俺たちと同じように、誰かに選ばれる存在でしかないのさ。だからこそ、今回の山名のこととは別にして倉田さんにはうまくいって欲しいなと思って見ていたんだ」


「ああ、そうなんですね」


栞は藤枝の言葉に顔を上げた。


「まあ、貸しだと思えばいいんじゃないかな。縁あって倉田さんと交差して、運悪く一旦離れた。そしてもしかしたらまた交差するかもしれない。お互い、これからこの世界でやろうっていう旅の途中で偶然に出会ったんだ。監督やプロデューサーたちと俳優ってさ、どうしたって貸し借りはあるものなんだよ。同時代に生きていれば必ずある。十年経ったらお互い笑えるようなエピソードにすればいいのさ」


藤枝が諭すともない口調で言った。ただの事実として栞に伝えているような雰囲気がした。


「はあ……」


栞は曖昧な返事をした。そういう考え方を持てるほど栞には人生経験がなかった。


「でも、いずれにしても山名の気持ちはわかった。少し時間をもらおう」


「すいません」


 栞は頭を下げて、席を立つと事務所を後にした。




 栞はぶらぶらと商店街を駅に戻り、明治通りの横断歩道を渡った。藤枝の言葉が思い出される。貸し借りか……考えたこともなかった。オーデションに落ちてばかりのこの数年、受かるか落ちるか、どちらかでしかなかったのだ。その間に、何かがあるなんて想像したこともなかった。見上げると空はすっきり晴れていて気持ちよかった。ふと、この辺りを少し散歩してみようと思った。


栞はそのまま有栖川公園に向かった。公園内はとても整備されている。きれいな図書館もある。歩いている人たちも、場所柄なのか外国人も多いし、裕福で満ち足りた人生を送っているようにしか見えない。栞のアパートの近所にある小さな区営公園とはまるで違った。散歩している犬ですら血統書付きの名犬に見えてしまう。栞はデニムジャケットのポケットに手を入れたまま、ぼんやりと遊歩道を歩いた。


すると、前方にカメラクルーの一群がいた。少人数なところを見るとバラエティ番組の収録なのかもしれない。栞はその様子を遠巻きにして眺めていた。


「はい、OKです!」若いディレクターの大声がして、撮影がブレイクになった。栞は急ぎ足でその場を通り過ぎようとした。


「栞!」


「え?」


栞が振り向くと、手にクレープを持った安藤麻里恵がいた。栞が驚いていると麻里恵が話しかけてきた。


「何してんの?」


まるで、栞がこの辺りを歩くことがいけないかのような口調に感じられた。


「え? 散歩だけど」


「あーそうなんだ」 


「あ、あの……事務所が近くで」


言い訳がましい、と栞は自分で言っていて思った。何で彼女の前だと引け目を感じてしまうのだろう。 


「へー、事務所入ったんだ、やっぱり」


麻里恵の口調は業界人風で癇に障った。 


「え、何が?」 


「この前さあ、『ひとつだけ多いバージョンなんちゃら』って映画の面接みたいのあって」


「え……」


「四谷あすみちゃんが降板したやつ。知ってるよね? 代役難航のニュース。あれ」


栞の胸が動揺のためか激しく波を打った。まさか麻里恵の口から、あの映画のタイトルが飛び出すとは考えてもみなかった。


「候補の中では有力的なことマネージャーから聞いてたんだけど、なんか監督のイメージと違うとか言って断られた、ていうか逆にムカつく話なんだけどねー」


「あ……そうなんだ」


二人の距離は数十センチしかなかったが、まるで大きな川の対岸で話しているように栞は感じた。


「結局出るんでしょ、あれ?」 


「え?」 


「悔しいなー、追い抜かれるみたいで」 


「え?」 


「それとも周回遅れのランナー?」 


「は?」


栞があの役にどれほどの思いがあったのか、麻里恵は考えてもみたことはないのだろう。それが突然もぎ取られた絶望や惨めさを麻里恵は知らないのだろう。栞は麻里恵の態度に腹が立ってきた。


それに、麻里恵の持っている生クリームがべっとり巻かれたクレープ、絶対食べたくない。こんなことしたくない、俳優でいたい。栞は麻里恵のウエーブの効いた髪型と頬のチークを憎んだ。その甘ったるい声と派手なネイルを憎んだ。


しかし、公園に一陣の風が抜けると、不思議なことにその気持ちとは裏腹な言葉が口から溢れた。 


「ありがと」 


「え、何が?」麻里恵が拍子抜けした顔をした。 


「麻里恵のおかげなんだよ、変われたの。その……なんていうか、きっかけ。麻里恵が、去年テレビでクリスマスケーキの生クリームをぺろっと舐めなければ、今も私は、まじくずのままだったと思う。あのとき……激しく嫉妬したから、私の中の何かに火がついたんだ。自分の中にあんな浅ましい感情があるなんて知らなかった。そしたら、なぜかすぐ麻里恵が出てたドラマでエキストラやって。何度も転んで……それで、とにかく変わらなきゃって」


麻里恵が不機嫌そうに笑った。そういう顔は昔から得意だった。人によってはそれが魅力的に見えるのだ。 


「ふうん。変なの。でもちょっとわかるかも。今の私がそうだからかな」


今度は麻里恵の目が少し笑ったような気がした。


「やんなよ、あの役。カゴメ役は栞がいい。なら諦められる。他の誰かがやったら、もっと嫌な気持ちになりそう。ていうか、言ってて悔しいから、もう行くわ。まだ二軒食べ歩かないと」 


「あ。大変だね」 


「仕事だもん。仕方ないよ。じゃあね」 


「じゃあ……」


麻里恵は、踵を返すと撮影クルーの元に走って行った。栞に背を向けた瞬間から、安藤麻里恵を全身で演じていた。麻理恵も立派なプロなのだな、と栞は妙な感心をしながら後ろ姿を見送った。 


 


翌日は、『Pirates』のシフトが入っていた。栞は、カウンターの中に入り忙しく働いた。頭の中では、色々な考えが行ったり来たりしていたが、店の忙しさがじっくり考えることをさせてくれない。


夕方の遅い時間に、スイングドアが大きく開いて冷たい風が入ってきた。入り口に顔を向けると、かつてインディーズ版でヒロシの母役で共演した葉月良子だった。葉月は、ベージュのトレンチコートのボタンを全部留めてポケットに手を入れていた。葉月が店に一歩足を踏み入れた瞬間、店内の空気が一変するような女優オーラがあった。まるで、この前配信で見た映画『グロリア』のジーナ・ローランズのようだ。


店内にいた若い客たちが、その迫力に明らかにびびっている。葉月がカウンターにヒールの音を立ててやってきて座った。


「今どき、煙い店だなー。マスター火ある?」


「あ、はい」店主がエプロンから100円ライターを出して葉月に渡した。 


葉月は小さなハンドバッグから出した細巻きのマルボロに、慣れた動作で火をつけた。ミントの香りがした。


「栞、コーヒー」 


「あ、はい」 


栞はコーヒーをマグカップに注ぐと、葉月の前に出した。葉月がそれを一口啜った。


「不味っ」 


「あ、すいません」


すかさず店主が謝った。なんだか葉月に叱られているみたいでおかしかった。


「これ、昔のロスの味だ」 


「え、わかります?」店主が今度は嬉しそうに言った。 


「わかる。いたもん、若い頃」葉月が店主に笑いかけた。


栞は店主が一瞬で葉月のファンになったことがわかった。葉月がもう一口コーヒーを飲んだ。やはり不味そうな顔をした。


「ていうか、栞、やるよね?」


「え?」


葉月が今度は栞に話しかけてきた。強い口調だった。 


「やるよね?」 


「あ……」


「あ、じゃないんだよ。やるべきだって言ってんの」


「あー、でも」 


「ガキみたいなこと言ってんじゃないわよ 他の子に取られていいの? あんたが作った役でしょ」 


「あ、まあ、でも……」栞は、予想していなかった展開にしどろもどろになった。 


「でもーじゃないわよ。あんたね、一周して役が戻ってくるなんて奇跡なんだからさあ。それを掴まないでどうするの? 今のあんたには失うものなんて何もないでしょ?」 


「まあ、そうなんですけど」


葉月がマルボロを深く吸い込み、天井に向けて煙を吹いた。 


「チッ、焦ったい子だなー。ていうか、私もそんなんばっかだったから。監督がぜひ私でって内々に脚本渡してきて、読んでやる気になってたら、いつの間にか別の女優で撮影してたとか、散々食らってるから」 


「ええっ、そうなんですか?」


「そーだよ。悔し涙なんか三千リットルくらい流してんだよ、こっちは。あんたはまだコップ一杯の……いや、その半分も流してないんだから」 


「流したし」栞は小さくつぶやいた。 


「は?」葉月が聞き咎めると、栞はすぐに首を竦めた。


「いえ」 


「だから、やんなさいって。私? 出るわよ。私の下支えのおかげで、前のは作品成立できたくらいに思ってるからね。ていうか、それくらい傲慢じゃないと生きてけないから、友達はいるけどまだ旦那いないし」 


「ああ、そうなんですね」


栞は硬軟使い分けて喋る葉月の言葉に感情が釘付けになっていた。映画じゃないのに、まるで役のセリフのようだった。


「で、やる?」


「あ、はい」栞は思わず返事をした。そのとき、きっと本心をスッと吐き出せたのだ。それを引き出してくれたのは葉月だった。 


「ならいい。つーか、こんなこと役者やってりゃ、これからいくらでもあるんだからね。一々、傷ついてんじゃないのよー。ナイーブなのは今回限りにすること。あ、私がここ来たこと監督には言わないでね」


葉月がターコイズブルーの財布から一万円札を出すと、ピシリとカウンターに置いた。


「じゃあ、コーヒー代。お釣りとっておいて」


「え? 多すぎ……」 


「いいの。一度やってみたかっただけだから。じゃあねー」 


葉月がまるで自分のアップショットのためのような笑顔を残して去っていった。再びスイングドアから入った風が店内の空気を大きく揺らした。栞は半ば呆然と葉月を見送った。 


「お前、いい先輩いんのな」


店主が惚けたように言った。 


「はい、ほんとですね」 


「他人事か」 


「あ。ちょっと呆気に取られちゃって」


カウンターに置かれた指の切れそうな一万円札は、葉月の生き方のように凛として見えた。  






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翌日。栞は藤枝と田端に連れられて恵比寿の外れにある中華レストランの個室にいた。その店は藤枝が大事な打ち合わせがあるときに利用する店だそうだ。栞は落ち着かない気持ちでいたが、気持ちはもう決めてある。時間通りに倉田が店に現れ、個室に案内されてきた。


「どうもわざわざ……」


「いえ、こちらこそ」


藤枝と倉田が儀礼的な挨拶を交わした。着席すると倉田が早々に切り出した。


「山名さん……」倉田が神妙な顔をした。


栞はスッと立ち上がった。


「監督、セリフは全部入っています。どうぞよろしくお願いします」


倉田が驚いた顔を一瞬したが、栞に深々と頭を下げた。


田端が合図して藤枝も立ち上がった。そして、山名をどうぞよろしくお願い致します、と丁寧に挨拶した。倉田が恐縮していたのが、栞は内心おかしかった。


すぐに食事が次々と運ばれてきた。栞は食べたことのない中華料理に驚愕した。下北沢の王将とは何もかもが違った。紹興酒を甕で何十年も寝かせた古酒は舌の上で溶け喉元を通り過ぎた。とろりとした飲み口は深みのある甘さで、栞が飲んだことのある紹興酒とは別次元の代物だった。正直、食べた気がしなかったくらいだ。


「監督……」


「何?」


「あの、今さらかもしれないんですが、またユーロスペースで登壇する機会があったら私も呼んでください」


「え?」


「いずれ、このお話ってネットニュースとかになっちゃうと思いますけど、私からのは、できればあそこで自分で言いたいです。あの映画に感謝を込めて」


「いいの?」


「いや、こちらこそですよ」と藤枝が言った。


「万映さんが許していただけるなら。あちらの発表は、あちらの仕切りできちんとなさるでしょうけど、それはそれで」


「そうですよね、あの映画はあそこから始まったんですから」田端が相槌を打った。


「ありがとう。みんな喜ぶと思う。待ってるよ」


「はい」


それから、しばらくして倉田と藤枝はタクシーで万映の曽根が待つ店へと向かった。栞と田端は二人を見送ると席に戻った。


「ご苦労様。立派でした」


「大丈夫でしたか?」


「もちろん。あ、胡麻団子と杏仁豆腐とマンゴープリンでいい?」


「え、まだそんな食べるんですか?」


「デザートは別腹だから」田端が涼しい顔をして卓上のベルを押したので、栞は笑ってしまった。


翌日の午後、ネットニュースが一斉に流れた。




映画『ひとつだけ多い朝』メジャー版ヒロイン決定! インディーズ版と同じく新人・山名栞を大抜擢! 映画初出演のラットネイルスパング井上光も参戦。初の音楽監督にもチャレンジ!


 


ネットの情報は、あっという間に上書きされていく。誰かが不幸になるネタがあればそこに群がり、同じニュースが今度はシンデレラストーリーに逆転する。それは決してコントロールできるものではない。そのときに、そのネタを見る人たちの気分、それ次第だ。


ユーロスペースのロビーには入りきれないほどの人が並んで整理券が配られた。黄菜子が情報を拡散したせいで、今日の栞の登壇はサポーターたちの知ることとなっていた。インディーズ映画に限らないが、映画自体にファンというか自発的な応援団ができることは興行にとって大切なことだ。一人の観客が十回見るのも、十人の観客が来るのも売り上げは一緒だ。もしかしたら、そのコアな観客が次は友人を連れてきてくれるかもしれない。そうやって少しずつ観客の輪が広がっていく。それは計算できることではない。今日来ている観客にはそういった人たちも多くいた。サポーターになってくれた映画にとってありがたい人たちだ。


登壇時間が来て、劇場は熱のこもった拍手に包まれた。栞は司会の黄菜子の合図を受けて一人で入っていった。マイクを握った栞は幾分緊張している。栞は深々と観客にお辞儀した。客席から拍手や掛け声がかかった。栞は顔を上げると、少しうわずった声で話し始めた。


「こんばんは。お久しぶりです。(ひさしぶりー)あ。ありがとうございます。あの、しばらく来られなくてすいませんでした。えっと、色々ありまして……。(笑い声)ご想像の通り、ちょっと落ち込んでました。(ため息)まあ、そんなこと、この世界にいくらでもあるよって、皆さんは思ったかもしれないんですが、私には初めてで……ちょっと受け止められなくて。また、まじくずな日々に逆戻りしそうでした。くずなりに、毎日もがいてはいたんです。友達とかに救われて、なんとか息してました。


そしたら、この作品見て助けてくれる人が現れたり、なんか事件が起きたりで、あー、あっちの映画はなくなるのかなーなんて、他人事のように見ていたら、なんか、あれですね。ネット怖いですね(失笑)スマホ見なきゃいいのに、私も振り回されて勝手に傷ついて、一時恐怖症みたくなってました。自分が書き込みされる対象になるなんて初めてで……。


そうこうしていたら、ある日、突然、お前もう一度やらないかなんて言ってもらえました。(軽いどよめき)でも、誰かが辛い気持ちになって、そのおかげで私がって……どうなんでしょう? 一瞬わけわからなくなって……」


栞がそこで一息ついた。客席がしんとなり、栞の次の言葉を待った。栞は計らずも人の注目を集める呼吸ができていた。


「それに、またギリで切られるんじゃないかと疑いました。(笑い声)ていうか、すぐに受け入れられないっていう感じで。ちょっと前には……渋谷の誰も通らない路地で一人で泣いたんです。まじ号泣で……。そのときは、カゴメが自分から奪われた、そう思ったんですけど……しばらくして、私、間違ってるなって。ていうか、この劇場でかけてもらってる映画の中に私いるじゃんって、なのにそれ否定したらおかしいって。カゴメはこの映画の中にいる、今もそう思ってます。


だけど……新しいカゴメのことも、私好きになりかけてて……。初めて出会えた私の大切な役です。だから、誰にも渡したくなかった……それが本音です。カゴメが戻ってきて正直嬉しいです。浅ましい考えかもしれないけど、嬉しかったんです、本当は。それを皆さんに伝えたかったです。私の持ってるやましさっていうか……」


栞の率直な物言いは、観客の心に届いているようだった。藤枝と倉田がその様子を客席の最後部で見守っていた。


「カゴメは別のカゴメになります。でも、この映画の中のカゴメの進化形っていうか。同じなんだけど違う。きっとパラレルワールド? みたいな感じに思ってます」


栞の妙なトークは、劇場内の百人以上の人を飽きさせず引き込んでいた。百人の先には千人がいて、千人の先には一万人がいて、その先には十万人がいるかもしれない。その先にも、もしかしたらいるかもしれない。それは誰にもわからない。しかし、まずは百人に愛されなくてはいけない。


「あの……皆さんがこの映画を見てくれたから、私、自称女優から一歩踏み出せました。これからもこの映画を応援してください。今日はお時間いただきありがとうございました。(拍手喝采)えー、それでは、ごゆっくりご鑑賞ください(笑い声)」


場内が暗くなり、レイトショーが始まった。




それから、ユーロスペースでの客入りは再び上向きに転じ、レイトショーはすぐに延長されることになった。地方ミニシアターの公開も順次決まっていった。機を見るに敏なのは、大手もミニシアターもない。むしろ、支配人の差配で物事が決まるミニシアターのほうが、フットワークは圧倒的に軽い。相乗効果が生まれる機運があった。


マイナスの情報は、いつの間にかハッピー・ストーリーに上書きされていた。


ウイルスのせいで人心が荒れているのは事実だが、何も人々は粗探しだけをしたいわけでもない。自分たちも同時に乗れるいい話も欲していた。それは振り子のように行ったり来たりする。それを抗うことなく受け入れていくのも、俳優が生き抜くための条件だ。






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万映スタジオ内にあるスタッフルームでは、演出部や制作部が勢いよく動き始めた。クランク・インに向けての準備が開始されたのだ。遅れていた準備を取り戻すためにはフル回転の作業が求められる。キャストやスタッフに正式なゴーサインが出ると、あらゆるパートの動きが活性化する。スタッフたちも作品が流れるかもしれないというのでは、動きも鈍化するものだ。


最近の邦画のほとんどはデジタルカメラで撮影される。しかし、倉田は35ミリのフィルムカメラで撮影したいと、最後まで製作陣と交渉した。もちろん仕上げはデジタルで作業する。カメラマンの町井もその意見を後押しすべく、現像所や機材屋のバックアップを取り付け、プロデューサーたちと予算面でも交渉してくれた。


35ミリフィルムで映画を撮影することは、倉田の子どもの頃からの夢だった。海外に目を向けると、まだまだフィルム派の映画監督は多い。クエンティン・タランティーノ、スティーヴン・スピルバーグ、クリストファー・ノーラン、ポール・トーマス・アンダーソン、グザヴィエ・ドラン……。倉田がそうした監督の作品をあげて作品全体のルックを製作陣にプレゼンテーションした。その結果、予算に収まるのならと、ようやくOKが出た。この作品がオールドスクールで撮る最初で最後かもしれない、と倉田は内心思っていた。


スケジュールを急ぐのは、雪の問題もあった。当初の予定通り北海道の雪が一番いいときに撮らなくてはならない。倉田たちスタッフは、ロケハンや準備に追われていた。


再開にあたって改稿する脚本は、大掛かりになる渋谷ロケを避けて、ライブハウスやロックのイメージも強い世田谷区の下北沢に変更された。


栞(=カゴメ)の住居とライブハウスは、万映の持つスタジオ内にセットを組む。外回りはロケセットだ。外観はCGで架空のライブハウスを合成する。元々、渋谷の街の開発をストーリーに絡められないかと受けていたリクエストに、渋谷と比べれば小規模開発だが、下北沢も当てはまった。


まさに、現在の下北沢は普請中だ。駅が新しくなっただけではない。昭和の大昔に行政が決めた道路の拡張工事。土地の売却・補償。立ち退き。それに伴う住民や店舗の退去……。古いものは壊され、新しい資本がどしどし入る。古屋が壊されアパートに変わる。古いアパートはマンションになる。街には利権を狙う不動産屋が闊歩し、飲食のチェーン店が溢れていた。


さらには街の商店街自体の世代交代。街を支えるビジネスモデルが変わっていく。その中を変わらずに営業を続ける飲食店やライブハウス、小劇場がある。しかし閉店するライブハウスが出てきた。歴史のある飲食店の閉店も毎年増えた。コロナ不況だけではない変容が、この街の行く末を暗示していた。


映画は、その様子を取り込もうとしていた。この国のどこの街・町にも起きていることは観客にとって普遍性がある。


アンダーグラウンドの気分を残したサブカルチャーから、小綺麗でわかりやすいポップなサブカルチャーへと、時代も人も求めるものがとっくに変化している。それに乗じて開発は加速度的に街を侵食していた。その変化の匂いみたいなものをフィルムに撮れないだろうかと倉田は考えた。時代をポップに切り取るのは、自分でなくてもいい。映画監督に必要なのは眼差しだと、倉田は若い頃から教わってきた。それをなんとかこの作品で実践したかった。


倉田は今回も路地にこだわった。路地にこそ、この街の真味はある。新宿や渋谷の路地とはまた違う多くの生活者が歩く路地だ。そこにカメラを置きたい。ロケハンは、そのようにして進行していった。




一方で、俳優部を集めてのリハーサルが行われた。予算が縮小されるということは、簡単に言えば撮影日が少なくなる。セットが狭くなる。しかし、脚本の長さは変わらない。要は一日に撮らなくてはならない脚本のページ数が増えるだけである。つまり、撮影現場で粘ることは監督に許されない。きついスケジュールをきちんと消化して、取りこぼしなしに毎日撮影しなくてはならないのだ。多少のバッファーは、スケジュールを切るチーフ助監督が見てはいるのだが、そこに甘えた撮り方を新人監督がする訳にはいかない。


倉田はその足りない分をリハーサルに充てることにした。それなら、機材がなくてもできる。あとは俳優部のスケジュール調整にかかっている。リハーサルで入念に芝居を固め、本番では迷わず、テイクを少なくする作戦だった。倉田は舞台の演出も手がけたことがあったので、演劇的なアプローチをしたかった。その考え方をキャスト陣との顔合わせの際に伝えた。


「僕は昔からシドニー・ルメット監督の映画が大好きなんです。彼は、どの作品でも最低三週間は全キャストを集めてリハーサルしたそうです。まあ、彼の書いた本によるとなんですが」


「それはいくらなんでもやりすぎだろう」とヒロシの父親役でスポットで出演する原田淳平が大声で言った。その言い方が面白いので、キャストが笑った。


「はい、三週間全キャストを集めるなんて、皆さんお忙しいのでとてもできません。ですから、衣装合わせとか、そういうタイミングをいただいて」


「なあらいいけどー」原田がまた笑いを取った。この俳優のいいところは、天性の明るさで撮影現場を陽性に持っていくことができることだ。その妻を演じるのは、インディーズ版に引き続き葉月良子だ。倉田は、原田と葉月の夫婦なら脚本にハマると考えていた。肝心のヒロシはミュージシャンの井上光だ。井上の芝居は未知数だ。自意識の高そうなこの音楽家も、そうそうベテランの二人には逆らわないだろう。それにこの二人なら井上を引っ張り上げることができると、倉田は踏んでいた。


栞がチーフ助監督に紹介され全キャストに挨拶をした。


テレビや映画で見たことのある人たちしか目の前にいない……栞がそんな顔をしていたので、緊張しているのが周囲に伝わった。倉田はリハーサルを通して、栞がプロの現場や俳優たちに少しずつ馴染めばいいと思っていた。先輩たちに自分をそのままぶつけたり、預けたりすればそれでいいのだ。


 しかし、俳優たちのスケジュールを合わせることは予想以上に困難だった。特に、出番の多いヒロシ役の井上光の事務所はなかなかスケジュールの融通が効かなかった。倉田は始終、スケジュール担当のチーフ助監督に文句を言ったが埒があかなかった。井上が来なければ、北海道のパートのリハができない。昼間はロケハンに追われ、夜は歯抜けでリハーサルと打ち合わせ、決めなくてはならないことが怒涛のように倉田に押し寄せた。


監督の仕事は選択の連続である。それも瞬時に判断が求められる。AとBを提示されてAを選ぶだけの単純な話ではない。方向性を示し、修正も頼まなくてはいけない。しかし、押し付けるのではなく、スタッフの力も引き出していかないとチーム力が上がらない。


出演バンドの見直しも同時に行われた。舞台が渋谷から下北沢になったことで、そこに相応しいバンドに調整しなくてはならない。クライマックスでは多数のバンドが出演するのだ。演奏シーンの曲の選択、撮影方法、それらも話し合われた。倉田は、準備に追われ、リハーサルを入念にしたいという当初の目論見が軌道修正されていくのをどうしたらいいものか悩んでいた。スタッフにしてみると、リハーサルはさほど重要だとは見ていない。こだわっているのは監督だけなのだ。倉田は日々苛立っていた。






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栞はリハーサルに呼ばれたらいつでも行ける体制を取っていたのだが、なかなか声がかからず不安に思っていた。連絡も今までのように直接くるわけではなく、事務所経由でワンクッション入る。スタッフの肉声が聞こえない。


「井上くんのスケジュールがなかなか取れないらしいのよ」


田端が困った声で毎日のように電話してきた。


「そうですか……まだ一回しか会ってないから不安で」


「そうよね。こちらからも頼んでみるからもう少し待ってね」


「はい」


栞は電話を切ると、アパートを出て下北沢の街を歩いた。渋谷から下北沢にロケ地が変更になったことは、かえってよかったかもしれないと栞は思った。この街は栞のホームタウンだ。路地の歩きかたなら知っている。カゴメはこの街で生まれ育った設定だったから、栞はさらに細かく路地を歩いた。自分とカゴメは違う。そこのズレを埋めたい、と栞は思った。


栞はカゴメの履歴書を改めて作り始めた。ローカルの学校の通学路を歩き、昔からある地元の酒屋でビールを買い、パンを買った。視点を変えてみると、下北沢の街はまるで違って見えた。栞はこの街に三年前にやってきたばかりである。ローカルの人の歩きかたとは違った。


鎌倉通りに古くからあるクレープ屋に並んで、生クリームがたっぷり入ったクレープを頬張った。口が甘くなったので隣の食料品店に入り烏龍茶を買った。この店は1960年から営業しているそうだ。下北沢の変貌を定点で見続けてきた貴重な店だ。一体、その頃の下北沢はどんな街だったんだろう。栞には想像ができなかった。 


歩きながらクレープを食べ、そのまま井の頭線の踏切を渡った。この辺りはどんどん変化している。緩やかな坂を下ると右手に新しい商業施設がある。栞はこの辺りに来る機会がなかったので入ったことがなかった。入ってみると、とても下北沢とは思えない整然としたスペースだった。このエリアは、小田急線が地下に潜ったことで空いた線路上の土地が再開発された。隣の世田谷代田駅まで施設は続いて伸びている。振り返って下北沢駅のほうを見ると、大掛かりな工事をしていた。今、栞が立っている場所といずれ繋がるらしい。


まるで、違う街に生まれ変わろうとしているみたいだ……。


栞は改めてそう思った。きっと、地元民のカゴメは複雑な思いでこの風景を見るだろう。少し悲しくもあり、そして生きていくためには取り残されないようにと思うだろう。昔の下北沢は良かった、などというタイプじゃないはずだ。この変化をポジティブに受け入れ、自分も実家が経営するライブハウスも変わろうと、きっともがく。


栞は自分だけの新しい地図を作るために街を歩き始めた。






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栞は今回のメジャー版について、自分なりに決めていることがあった。それは前作と同じ演技をしないということだ。同じなら、前作を見てくれた人に発見がないし、自分にもない。変化を恐れずにいこうと決めていた。


それをリハーサルで色々試したいのだが、できないことがもどかしかった。


北海道のロケハンから、倉田とスタッフが帰ってきた。ロケ地の夕張郡・長沼というエリアの雪がいい時期は二月中頃までだそうだ。二月の頭までには北海道ロケを組むとすると、それまでに東京ロケ分とセット部分を撮影するには、明らかに準備の時間が足りなかった。


栞の不安はますます募った。


映画の撮影は、脚本の冒頭から撮影するわけではない。後半部が最初の撮影ということもある。今回は新人俳優に新人監督ということも配慮されて、当初はなるべく脚本冒頭部(下北沢パート)から撮影される予定だった。といっても、それはロケ部分の話であり、セット撮影は別途まとめて行われる。つまり脚本上は行ったり来たりしながら撮影し、歯抜けでピースを埋めていく。脚本の順番に撮っていくほうが、撮影に慣れていない栞や井上にとってはやりやすいが、予算やスケジュールのことを考えれば、そうも言っていられないのだ。


物語の進行に合わせて演ずる気持ちを自然に変化させたいのは山々だが、脚本をしっかり読み込んで、どこから撮られてもいいように、登場人物の気持ちを理解しておくのも俳優の仕事だ。


予定が変更されて、北海道ロケが頭に来るということは、脚本上は真ん中以降くらいから始まることになる。それは栞も予想していなかった。


(また難易度が上がった……)


栞は目を瞑って全体の流れを反芻した。セリフを全部覚えていればいいわけではないのだ。感情の流れを把握しなくてはいけない。栞は頭の中で、上がったり下がったりするカゴメの心情を指でなぞった。


数日後、ようやくヒロシ役の井上光とタイミングが合った。その日は、昼過ぎから夕方まで衣装合わせとリハーサルの時間が取られていた。


昼過ぎに井上がミュージシャンらしい派手な出で立ちでリハーサル室に現れた。


「おはようございます」すでに到着してストレッチしていた栞は立ち上がって挨拶した。


「おはようございます」井上が不機嫌に挨拶を返した。まだ寝起きのような顔だった。


倉田が現れ、早速リハーサルを始めようと言い、演出部がバタバタと用意を始めた。


すぐにリハーサルが始まった。栞は自分のセリフを懸命に井上に投げかけたが、拍子抜けするほど空回りした。井上はセリフをほとんど覚えていなかった。倉田が明らかに不機嫌になった。  


セリフが入っていなければ自由に動くことは難しい。脚本を片手にセリフを言うだけにエネルギーが取られてしまうからだ。相手役も見ることはできないし、そもそも身体を自由に使うためには、セリフから自由になっていなくてはならない。栞にしても、相手役がセリフを覚えていないとどうしていいのかわからない。リードできるような技術はまだないのだ。


しばらくぎこちない時間が続いた。栞はなんとか打破しようと焦った。そうするとますます浮いた予定調和の芝居になった。


倉田がいくつかの言葉を井上に投げかけたが、レコーディングの合間を縫って参加しているという井上はわかりやすくやる気に欠けていた。畑違いの人間をキャスティングする難しさはここにあるのだろう。本業がある人は逃げ場がある。ここでうまくいかなくても生きていく術がある。これしかないと思っている役者との大きな違いだ。


しばらくすると、仕方なくブレイクとなった。倉田と演出部が美術の打ち合わせにスタッフルームへと出ていった。


栞は井上と向き合うことになった。会議室に気まずい沈黙が流れた。


「難しいもんだね、演技するって。セリフなんて全然覚えられないよ、もっとサクッと行くかと思ってたのになあ」


井上が照れ隠しなのかぶっきらぼうに言った。


「ですね。私も始めたばかりですから」


「そうなんだ」


「はい。これが世間的にはちゃんとしたデビュー作です」


「へー。じゃあ大変だ」


井上は息を吐いて立ち上がると、置いてあった小道具のキーボードを膝の上に乗せて、思いついたようにいくつかのフレーズを気まぐれに弾いた。独特なリズム感と指さばきが華麗だった。


「うまいですねー」


栞がふと正直に言うと、井上が苦笑した。


「一応プロだし。音大出てるし。ピアノ、五歳から弾いてるんだぜ、これでも」


「あ、そうですよね、すいません」


井上の弾いたフレーズは、簡単なコード進行で不思議な諧調だった。井上が気まぐれにハミングした。


「いい曲ですねえ」


「そう? 適当にやってるだけ」


「じゃあまじ天才ですね」


井上が栞の言葉に微笑んだ。


「そうかな。信じちゃおうかな、君の言うこと」


「井上さんは天才ですよ」栞は微笑みながら言った。それからペットボトルの冷たい水を飲んだ。


「でも……ヒロシは違うんですよね」


「え?」


「あ、すいません。役の話で」


「ああ……」井上がまた曲の続きを適当に弾いた。テンポが不自然にスローになった。


「オレ、わかんないんだよなあ、ヒロシって。ほら、こういうと傲慢かもしれないけど、オレ、デビュー前からYouTubeとかで話題になってて、デビュー曲出す前から、ある意味もう売れてて、デビュー曲出したら、すぐにリアルに売れちゃったでしょ。だから地方から出てきて売れなくて、路上で歌ったり、ガラガラのライブハウスの支払いに困ったりとかさ、地方に出戻るとかさ、また東京に来るとかさ、なんのリアリティも感じないんだよ、正直」


「ああ……」


「役者さんてさ、自分にない役やるとき、どうするの?」


「あ、えっと……」栞がどう答えようか考えていると、井上が畳みかけるように聞いた。


「もっと言えば、やりたくない役やるとき、どうするの」


「え。それってどういう意味ですか」


井上は笑って答えず演奏を続けた。コードに不協和音が混ざった。まるですべてを自分から壊すようなノイズだった。


「だって、この映画ってさー、オレじゃなくて、確実に売れそうなオレの曲が欲しいだけでしょ」


井上が少し意地悪い目をして栞を見た。栞はどう反応すればいいのかわからなかった。後ろから誰かに頭を叩かれたような気分だった。




次のリハーサルはお互いの感情が激しく交差するシーンだった。栞は何とかして井上の感情を動かそうと自ら仕掛けたが、うまく噛み合わなかった。井上が自分の感情を演技にして乗せることに躊躇があるように栞には感じられた。その壁を取り払ってくれなければ二人のシーンは弾けない。井上が気持ちの入っていない芝居を繰り返した。


「それじゃあ、棒読みだよ。音楽で言えばメロディがないよ」


倉田が首を振った。すると、井上は倉田を馬鹿にしたように言った。


「じゃあ、監督がやってみてくださいよ。どんなふうにやればいいのか」


リハーサル室にいる誰もが凍りついた。役者なら口が裂けても言わないことだ。倉田が眉を顰めた。


瞬間、声が鋭く飛んだ。


「あ! じゃあ俺にやらせて!」


皆が声の主を見た。物語の中でカゴメの店に地上げを仕掛ける不動産屋役の早野克己だった。早野は衣装合わせに来ていたのだった。早野は大股でリハーサル室を横切り、井上の前に立つとニヤリとした。そして、驚いている栞に振り向いた。


早野に突然スイッチが入り、井上の言うはずのヒロシのセリフを言い始めた。


「だからー、オレはそんなんじゃないんだって! オレには音楽の才能なんてないんだって。この街の誰にもオレの歌は届かないし、カゴメさんのハコいっぱいになんてできないよ。こんなもの意味なんて……」


「あるよ。意味なんてたくさんあるよ。ていうか、意味なんかなくていいよ。そのギターで、ヒロシさんの歌で救われたって人だっているよ」


栞が早野のセリフを受けて芝居を続けた。


「じゃあ、連れてこいよ、そんな奴が一人でもいるんなら、オレの前に連れてこいよ!」


「いるじゃない、目の前にいるじゃない!」


栞の感情が早野によって瞬時に動かされていく。


「ぜんぜん足りねえんだよ! たった一人じゃ、どうにもならねえんだよ!」


早野は横にあったパイプ椅子をギターに見立て、会議室の床に何度も叩きつけた。パイプ椅子が激しく壊れた。会議室が早野の芝居の世界観に飲み込まれて、しんとなった。


「……みたいな感じ? 例えばだけど」早野が素に戻って倉田を見た。


倉田が軽く早野に目礼をした。


「井上くんさー、音楽もいいけど、芝居も結構面白いから。頑張ってよー。あ、今のアプローチは俺がやったやつだから、自分なりの芝居考えてね。じゃあ、またあとで」


早野は会議室を軽やかに出ていった。井上が声を失くして佇んでいた。


栞の頬は紅潮していた。栞はプロの俳優の凄みに内心興奮していた。






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夕方、メインで着る服の衣装合わせが終わり、井上は衣装のままスタジオのセットの中を歩いていた。身体に馴染ませるためにしばらく着ていてほしい、とスタイリストが言ったのだ。スタジオ内はまだ飾りが済んでいないので、ただのがらんとした空間だ。栞が所在なさげに後ろからついてきた。


井上は、早野から受けた行為に腹が立っていた。これがアウエイの洗礼なのかもしれない。仮に、自分のステージに役者が上がったら自分はどうするだろう。まあ、音程が取れなかったらマイクは握らせないかもな、と井上は内心苦笑した。しかし、役とはいえ誰かになることが、自分にそう簡単にできるとも思わなかった。井上はずっと自分自身を表現してきたからだ。


「ここが、カゴメのライブハウスになるんですね」と栞が言った。


「そうなんだ」井上は気のない返事をした。井上はオーバーサイズのダブルのライダースを羽織っていた。


「革ジャン似合いますね」


「え? あ、君も、その赤いジャケット似合うよ。形は全然違うけど、昔マイケル・ジャクソンもそんな色のジャケット着てたよね」


「そうなんですか?」


「うん」


「マイケル、あんまり聞いたことないです」


「普段、どんなの聴くの?」


「ウチの中では映画ばっかりで、最近音楽聴いてないです。だけど、バイト先のお店でいつも店主がレコードかけてて、それ聴いてます。古いアメリカンポップスやロックですね」


「へー、レコードか」


「レコードって面白いですよね。あれ、なんで音出るんですか? 黒くて丸い円盤なのに」


井上は笑いながらレコードの音の出る仕組みを栞に教えた。


「そんななんですね。へー、勉強になったなあ。今、スマホから普通に音楽出る時代ですもんね。あれはあれで仕組み全然わからないけど」栞がさもおかしそうに笑った。


井上は転がっていたパイプ椅子に座った。座面が歪んでしまっている古い物だ。


「三回……」


「は?」


「三回、突き返されてるんだ。曲」


「誰に?」


「あの監督にだよ」


「まじで?」


「何が気に入らないんだか」


「そうですか……それもきついですね」


「まあね」


井上はこれまで自分の曲に他者からNGを出されたことがなかった。音楽家でもない人間に、自分のアイデンティティを否定され、まったく納得していなかった。


「でも、井上さんの書いた曲が悪いんじゃないと思います。きっと」


「え?」


「ただ、今回監督の撮りたい映画とどこかが合わなかっただけですよ」栞がさらっと言った。


「どういうこと?」


「わからないですけど、監督は作り手としての井上さんと向き合いたいんだと思います」


「そうなのかな」


「絶対そうですよ。だから、この映画のことを曲にしたらいいんだと思います。映画の中のヒロシになって」


「ふうん」


井上はため息混じりにスタジオの天井を見上げた。二重と呼ばれる照明を吊り下げる枠が見えた。まだ灯りはついていない。埃が舞っているだけだ。そして、栞の言ったことを反芻した。


「なるほどなあ。考えてもみなかったよ。狭いライブハウスすら一杯にできなくて、もがいているミュージシャンの作る曲なんて」


栞が井上を見て微笑んだ。


「私のバイトしてる店にいっぱい来るんですよ。そういう人たち」


「そう」


「銀杏やフジファブとかに憧れて、なれないかもしれないのに、それでも音楽やってる人たち。でも、そんな人たちにこの映画を見て欲しいんです」


「そう」


栞がスタジオ内の転がっている物を一つ一つ不思議そうに見ては触っていた。きっと、ここにいられることを幸せに感じているのだろうと井上は思った。


撮影所のスタジオの天井はとても高い。常夜灯がぼんやり光っている。カビ臭いような匂いがして、来たこともないのになぜか懐かしく思えてくる。ここもまたゼロから1を作り出す場所なんだろう。それなら自分と共通項がある。とはいえ、自分がここに馴染めるのかどうか……井上は内心不安だった。今のところ、自分にも非があるかもしれないが、予想は的中している。映画村は居心地が悪い。これまで自らの音楽で築いてきた実績が、この映画で失われるのは御免だ。お客さん(アウエイ)のまま終わるのかもしれない。それならそれで仕方ない。さまざまな考えが胸の中で交差した。


それなら栞が言うように、役と自分を切り分けてみようか……。


ふとそう思ってしまうと、何もないスタジオにいる自分がなぜか妙に心地がいい。不思議な手触りの時間が流れた。井上は椅子から立ち上がった。


「メロディ、浮かんじゃった」


栞が笑顔を返した。


「やっぱ、井上さんて天才ですね」






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翌日、井上はリハーサル時間のずいぶん前に、撮影所のスタッフルームに向かった。ダボっとしたスエットの上下に、ウインドブレーカーを羽織っただけの格好だ。ドアを開けてスタッフルームに入ると、倉田以下スタッフたちが難しい顔をして何やら話していた。ホワイトボードに段取りや北海道ロケのメモ書き、問題などいくつかが箇条書きになっていた。どうやらスケジュールの変更を検討しているらしい。


「おはようございます」


「おっ、早いな。リハまだ先だろう」


倉田が苦い顔を隠すかのように陽気に声をかけた。


「あー、まあそうなんですけどね、曲聞いてもらおうと思って」


倉田が一瞬驚いた顔をして井上を見た。井上はいつもデータでしか曲を送っていなかったのだ。


「聞きます?」


「当たり前だろ」


井上は倉田の横に座るとステッカーだらけのMacBookを開き、曲を再生した。曲はシンプルな8ビートだった。途中からリズムが16になる。ギターのリフが特徴的だ。ロックとダンスミュージックをミックスした曲だった。歌詞はまだフェイクで、英語混じりのハミングのような仮状態だった。サビ部分が、洋楽テイストで井上らしさも感じさせる。しかし、いつもの井上の曲より捻りがなくストレートだった。


「ヒロシのバンドの曲です。だから、オレの曲とは少し違うんです」


井上はボソボソと言った。スタッフルームにいた誰も喋らなかった。そのまま曲が終わるまで沈黙が続いた。


「いいなあこれ」倉田が口を開いた。素直な感想がそのまま口をついたような口ぶりだった。


「いいすか」


「うん、かっこいいよ」


井上はホッとしたように微笑んだ。倉田が御愛想を言わないタイプなのは、このところでよくわかっている。


倉田がスタッフたちに意見を求めた。全員、この曲ならいけると思っている顔をして頷いていた。


「歌詞は、どれくらいで書ける?」


「方向性さえ見えればすぐ」


「そうか」


「じゃあさ、今度のテスト撮影、この曲使って#S(シーン)20と#S21やらないか?」と突然、倉田が言い出した。


「許可取り間に合いますかね?」チーフ助監督が釘を刺した。


「それはなんとかするだろう、制作部が」


制作部の若手があわてて京王電鉄に電話をかけた。


倉田がテスト撮影にどうかと言ったそのシーンは、夜遅くにヒロシが一人で下北沢西口の道路で、井の頭線のホームに向けて演奏している。それをホームから偶然見かけたカゴメが聞き留めて、その音楽に魅了され、聴き入る。二人の間には時々電車が走る。カゴメは、ヒロシに声をかけようとホームを走り抜け、改札口を抜けて踏切を渡る。追いかけるカゴメはヒロシの前に息を切らせて立つ、という内容だった。


井上はテスト撮影のシーンを脚本で確認すると、小さく頷いた。そして、以前から疑問に感じていたことを聞いた。


「あ、監督、なんでヒロシは道路に背を向けてホームに向かって歌うんですかね? ふつう逆向きじゃありませんか?」


「なんでだろうな……オレもわかんないんだ」


「そんなあ」


井上がおどけた声を出した。そんなふうに登場人物の行動について、倉田に話しかけるのも初めてだった。倉田が笑って答えた。


「見かけたんだよ、シナハンしていて。そのバンドは3ピースだったんだけど。オレも変だなって思ったよ、最初は。でもね、しばらく見ていたらなんかわかるような気もしてきてさ。変に訴えてくるものがあるのな。だから、井上くんもやってみればわかるんじゃないかな。あそこから何が見えるのか」


井上はリズムに乗ったような感じで倉田の話を頷いていた。


「わかるといいな」


「そうだな」


井上は何か考えているようだった。


「曲、メールでも送っておきます」


「あ、頼むよ」


「じゃあ」席を立った井上は、思いついたように言った。


「あ。ここでしばらく作業してていいすか?」


「いいよ。その辺の空いてるデスク使えよ」


井上はMacBookを持って端に移動し、イヤフォンをはめた。それから、歌詞の断片を書き留めるためにコピー用紙を数枚取りペンを持った。


井上は遠目で見ると寝不足のスタッフの一員のようにも見えた。






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一週間後、下北沢でテスト撮影が行われることになった。当日、初めて目にした映画撮影用の黒い大きな35ミリのフィルムカメラに、栞は驚いていた。まるでハイスペックの外車のような雰囲気を醸し出している。それにスタッフの人数も想像していたよりずっと多かった。これでもテスト撮影だから少人数らしい。インディーズ映画とは規模感がまるで違った。


映画におけるテスト撮影とは、メインの出演者を使用するカメラ機材やフィルムで撮影し、本番の撮影に向けて仕上がり全体の色味や雰囲気を確認する大切な儀式なのだそうだ。カメラマンの町井は夜のシーンやライブハウスでのシーンのことを考え、高感度のフィルムと(北海道ロケで使用する)デイライトのフィルムとを分けるつもりらしい。その夜のテスト撮影には、ナイター撮影本番で使用するカメラ機材が一式揃っているとのことだった。


倉田監督から井上と一緒に流れの説明を受けていても、唇が乾き何度も舐めてしまう。ロケ場所は、下北沢駅西口の井の頭線と並行に走っている路地だ。カメラを置く場所から、駅のホームが見える。栞のこわばった表情を見て、倉田が笑顔で小さく頷いた。それで少しだけ緊張がほぐれた。本当は栞も笑い返したかったのだが、うまく笑えず頷くだけにした。


段取りは事前に演出部が念入りに準備をしてあり、栞が乗る車両、降りるドア、井上の立つ位置を決めてある。栞は下北沢の一つ手前の駅・池ノ上に移動しスタンバイした。


栞のそばには演出部も同乗し、タイミングを図る。すぐに現場から連絡が入り、栞は指示に従い、電車に乗り込んだ。緊張が全身に走る。何度もできない撮影なのは演出部の雰囲気から嫌でも伝わってくる。NGを出してもう一回やるためには、また電車で一駅戻るところから始めなくてはいけないのだ。


栞は目を瞑って集中した。大きく息を吸ってゆっくり吐き出す。それを何度か繰り返す。自分の胸の鼓動だけがやけに大きく聞こえ、電車の音も人の声も聞こえなくなる。


(できる……絶対、大丈夫)


栞は念じるようにして、強く握った手を何度も結んだり開いたりした。


「山名さん、そろそろ駅着きます」演出部が声をかけてきた。


「はい」栞は短く返す。緊張がピークになった瞬間、栞は頭が白くなった。そして……すっとカゴメになった。そこから、カゴメとして車内の人になった。


電車が下北沢駅に着くと、窓から井上が歌っているのが見えた。カゴメになった栞は、その姿を目で追った。カメラはすでに回っているのだろうが、全く目に入らなかった。


ホームに降りて井上の表情をはっきりと見た瞬間、栞は胸を鷲掴みにされた。今までのリハーサル室で見せていた井上とはまるで違う。


(あ。ヒロシだ……)


栞は井上をじっと見つめた。井上の歌は、立ち止まる人のいないホームに向けてエールを贈るかのようだった。ホームに吐き出される人たちの送っている小さな人生を自分の歌で肯定しているのだと、栞は感じた。


カメラが路上から栞を捉えている。しかし、栞はスタッフのことが気にかかることはなく、無心で井上の歌を聴くことができた。映画の中のカゴメが、ここに立つまでの出来事が急に胸に去来した。栞はカゴメになって井上の歌に聴き惚れていた。やがて、曲が終わった。栞は思わずホームから拍手した。井上がはにかんだような笑顔を見せた。栞は走り出した。身体が弾けるようにして、改札へ抜ける西口の階段を一気に駆け降りた。


「カットー!」


助監督の大きな声が背中に響いた。






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今回のテスト撮影のメインのカットが撮れたことで、倉田に少しだけ余裕ができた。映像の中の栞は倉田の予想以上にナチュラルな演技をしていた。栞にはあえて事前に曲を聴かせなかった。その方が1テイク目に新鮮な表情を撮れるだろうと踏んでいたのだ。


倉田はアングルを変えて、井上の歌う横顔や全身などをテンポ良く撮影した。その度に井上が全力で歌った。録音部がその声を大切な音源として録音した。リズムトラックは、プレイバックする。そのカウント音をきっかけに井上が演奏を始める。井上の無造作に伸びた長い髪に隠して、(カメラから見えないように)イヤフォンが忍ばせてある。テンポだけは合わせておかないと後で編集時に困るからだ。倉田はいざとなったらテスト撮影分も編集で使えるようにしておきたかったので、あらかじめ録音部にそう頼んでおいたのだった。


次はアングルを切り返してホーム側から井上の歌う姿を撮ることにした。栞がカメラの横にいて、同じ芝居をする。井上はテスト撮影に当たってミュージックビデオのように音源をプレイバックするのではなく、実際に歌いたいと事前に提案していた。何度も歌うことになるから大変だよと倉田は言ったが、井上は大丈夫だと言った。


フィルムが回る。カチンコが打たれる。助監督の合図で井上は歌い始めた。やがてカメラの前に電車が入ってくる。ホームに人をたっぷりと吐き出すと電車は去った。


無印良品側の路上では、アングルの外側に人が既に集まり始めていた。何しろ、あの井上光が路上で歌っているのだ。スタッフは厳重に人止めをしていた。ホームにも井上に気づいた人が集まり始めた。井上は一心に歌った。ホームの人々が、本物の井上がナマで歌っていることにざわつき始める。誰もがスマートフォンでその様子を撮影していた。


倉田はそれも織り込み済みだった。今、倉田に必要なのは、対外的に映画が実際に進行しているという既成事実だった。クランク・イン直前で流れる作品を倉田はたくさん見てきた。稀にだがクランク・インしても飛んでしまう作品があるくらいだ。映画製作は最後まで油断できない。密かに映画が流れる憂き目に遭うのはごめんだ。倉田は自ら既成事実として情報を発信することで、自分たちの映画を守りたかった。スケジュールがどうなろうと絶対に撮り上げてやる、そこには強い気持ちがあった。


倉田の井上を見つめる目は鋭かった。井上が歌い終わると、ホーム上からも、路上側からも拍手が起きた。井上がカメラに向かって安堵の表情で微笑みかけた。倉田は井上に合図を送ると小さく頷いた。ちょうど、渋谷行きの電車がホームに滑り込んで、井上の顔をシャッターするようにかき消した。




テスト撮影を終えた井上が小さな変化を見せた。その後のリハーサルには、セリフを入れて臨み、倉田の演出にも耳を傾けるようになった。しかし、それで芝居が急にうまくなるわけではない。感情は井上なりに作ることができるようになったが、アウトプットとして演技に変換することがまだ拙かった。


「芝居をしようとするなよ。それは見透かされるぞ。そうじゃなくていいから、そこにヒロシとして存在すればいいんだから」


倉田は途中から演出プランを変えた。以前とは違う言葉を井上に投げかけるようにした。その一方で、栞には厳しかった。


「もう一回。違うな。他にないのか?」


「同じことをするなって。考えろ。カゴメのことは山名くんが一番わかってるだろ?」


そう言っては、繰り返し同じことをさせた。


経験のない栞が井上の存在感だけで押す芝居に引っ張られている。こういうとき、損をするのは演技をしようとするほうだ。よほど上手い俳優なら別だが、演技をあえてしない人の味というか計算の無さみたいなものは、役者にとって天敵のようなものだ。しかし、それを乗り越えるのは栞自身がしなくてはいけないことだった。倉田にはそれが肌感覚でわかっていた。




数日後、井上の書いた曲のタイトルは『虹の袂 rainbow sleeves』と名付けられ、井上のTwitterやInstagramに〈coming soon !〉とつぶやかれた。


テスト撮影の様子もスマートフォンで撮影していた人たちのおかげで、あっという間にネットに拡散した。新曲と共にファンは井上の出演する映画にも期待した。






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繰り返されるリハーサルの度に、栞は自分の演技がどうすれば倉田の求めるものに近づくのか毎日悩んでいた。栞なりにあらゆる角度から演技を繰り出すものの、倉田は納得してくれない。リハーサルが終わると頭も身体も使いきりへとへとになっている。初めての大きな映画を楽しむ余裕は全くなくなっていた。準備して積み上げた栞なりの自信は微塵もなくなり、後に残ったのは焦りとプレッシャーだけだった。


何が足りないんだろう……。どこがいけないんだろう……。私には無理な役なんだろうか。自問自答と弱気の虫、それが交互に胸を焦がす。


このままじゃ映画に迷惑をかけてしまう。栞は逃げ出してしまいそうになる気持ちと懸命に闘っていた。しかし、一度立ったマウンドから自ら降りるわけにはいかないのだ。栞の脚本はめくり過ぎてすっかりヨレヨレになっていた。


その日、リハーサルが終わると、井上が珍しくスタジオを出るときに声をかけてきた。


「山名さん、今日時間ある?」


「あ。はい」


「よかったら、君のアルバイトしてるってシモキタの店に連れてってくれないかな?」


「え、いいですけど、不味いですよ、コーヒーも食べ物も」


「あ、大丈夫。オレこだわりなく何でも食べる人だから」


「じゃあ、大丈夫かな」栞は思わず微笑んだ。


井上がマネージャーの運転する大きな黒いワンボックスに栞を誘った。車の中は、まるで移動する音楽スタジオのような状態になっていた。栞の見たこともない機材ばかりで、シートもふかふかだ。


「ここで曲とか簡単に録音できるようにしてるんだ。いつ曲が思いつくかわかんないしね。街歩いてるときとかはスマホに入れとくけど。あと、時間空いたときとか、このままドライブ行っちゃって、湖とか河辺とか海とかそういう水のそばにいくんだ。水の音を聞いてると、ふっとメロディとか浮かんだりね。移動をただの移動にしないのも楽しいよ」


井上は音楽のことになると饒舌だった。


「へえ。すごいですね。いつも音楽のこと考えてるんだ」


栞はふつうに感心していた。天才と言われている人の創作の秘密を垣間見られたようだった。


マネージャーの運転する車が下北沢に着くまで、井上は少し寝ると言って、一分後には寝息を立てて眠った。栞は眠る井上をしばらく見ていたが、すぐに自分も眠ってしまった。車内にはハワイのノースショアの波の音が適度なボリュームで流れていた。




気がつくと、黒いワンボックスは下北沢に着いていた。車を降りると聞き慣れた街の喧騒に耳が包まれた。


栞が重いスイングドアを押して『Pirates』に入ると、店内は空いていて店主が一人でいた。カウンター席には大介もいた。大介が驚いた顔をして井上を見ていた。


「店主、奥の席いい?」


「ああ、いいよ」


栞と井上は奥のテーブル席に座った。


「へー。こんななんだ」


井上が興味深そうに店内を見渡した。何人かの客が井上を見ていたが、特に声をかけるでもなくごく自然なのが栞としては助かった。井上も全く他の客を気にしていない。井上がテーブルの上のメニューを見た。といっても選択肢が豊富なわけでもないのだが。


「ハムチーズサンドとコーラ」


「あ、はい」


栞は注文を店主に伝えた。自分はバタートーストとコーヒーを頼んだ。スピーカーから店主の好きなリッキー・リー・ジョーンズのデビューアルバムが流れていた。


すぐにオーダーしたものがテーブルに並んだ。店には都合よく、それ以上他に客がこなかった。


「さて」


井上が鞄から脚本を出した。そして、いくつかメモしてあったことを栞に矢継ぎ早に聞いた。


「なんで、ヒロシって北海道から下北沢に来たのかな?」


「いつくらいから音楽始めたのかな?」


「最初に好きになったアーティストって誰なのかな?」


「そもそも、このバンドっていつ組んだのかな?」


その他にも、ヒロシの音楽性に関してあらゆる質問を重ねた。しかし、聞かれても栞にもわからないことばかりだ。栞は曖昧な相槌を繰り返した。不思議なことに、それは居心地の悪さは感じなかったし、不味いはずのサンドイッチをふつうにパクつく井上も面白かった。そのうち、井上は自分の芝居のできなさ加減について愚痴り始めた。


「音楽に関して、僕はできないことがないんだ。曲ができないってことはない。自然に湧いてくる。でも、演技はわかんないや」


「あ、でも、初めてお会いしたときと今日ではぜんぜん感じ変わりましたよ」


「そうかなー」


スイングドアを押して雄二が入ってきた。栞と井上の姿を見つけると一瞬関心のない振りをした。そのくせカウンターに座ると、大介と二人であまりにもチラチラこちらを見るので、栞と目が合ってしまう。井上は半分背を向けているから気づかずに話を続けている。井上の愚痴が続くので栞は気になって仕方ない。栞は井上に断ってから席を立った。そして、大介と雄二を連れて井上のところに戻った。


「友達の役者の古賀大介くんと川上雄二くんです」


「古賀大介です」


「川上雄二です」


井上が二人を見上げた。


「あ、井上光です。……あれ、インディーズ版でヒロシやってました?」


井上が雄二に気づいた。


「やってました」


「ですよね! オレが今度ヒロシ役で」


「知ってますよ」


栞はかなり気まずかった。逆の立場だったらつらすぎる会話だ。しかし、井上は全く意に介していないようだった。


「雄二さんがヒロシやったときって、どんなだったんですか?」 


「え?」 


「教えてもらえませんか?」 


「は?」


唐突な井上の申し出に雄二が戸惑っていた。


「井上さん、あんた何言ってるかわかってます?」と大介が軽く眉を顰めた。


「は?」


井上には横から大介が絡んでくる理由がわからないようだった。


「あのさー、雄二だって、続けて出たかったんだよ。それくらいわかるだろ? さっきから聞こえてたけど演技プランは自分で考えなよ。それが映画に出る者の礼儀でしょ」


「いや、それはそうだけど、何でもいいんだ。とっかかりやヒントを探してるんです」 


「は?」


「いやまじ困ってるんだ。オレ演技とか何にもわからないから」


井上の空気の読めない発言の連発に呆れたのか、思わず雄二が吹き出した。


「まじで? 天下の井上光が」


「あ、タダでとは言わないよ」 


「え?」


「いつか、雄二さんが歌を出すことがあれば、そのときはオレが曲を書くよ。だって君の歌すごくいいもの」


栞は雄二が一瞬言葉を飲んだのを見て、怒り出すのではないかと思った。しかし雄二は意外な反応をした。


「まじかー。井上さんて面白いねー。やっぱ噂通りの天才なんだなー」


「何が?」


「いやー、こんな日が来るとは。ていうかファンの人が知ったら驚きだよな。ぜんぜんいいすよ。オレなんかの意見あんまり意味ないと思うけど、同じヒロシ役同士ってことで。何でも聞いてくださいよ。あ、店主、井上さんと同じもんオレにも」


「あ、オレも」大介もついでに手を上げた。


「あいよ」店主がニヤッとして応えた。


栞は雄二の意外な懐の深さに驚いていた。自分ならこの状況で、こんな風に自然に笑えるだろうか……。


「井上さんはあんなにすごい曲書くんだから、できますよ、何だって。歌の世界に入るのも役の世界に入るのも、もしかしたら似てんじゃないすか。なりきればいいんですよ、きっと」


「いやあ、リハで上げてくことや、何度も同じことをやることができないんですよ。自分に飽きちゃうっていうか。繰り返せないっていうか。あと感情の出し方とか難しいっていうか、できないし」


初めて会う人に井上が困っていることを正直に打ち明けるのが、栞には驚きだった。今まで見せたことのない顔だった。


「毎回違う芝居って、正直相手しててどうなんだろう?」真顔で井上が栞に聞いてきた。


「え? 私? まー、正直やりづらいですよ。どこ投げるかわからない人とキャッチボールしていると大変なのと一緒です」


「そうか、そうだよね」


井上が神妙に頷いていた。


「でも、同じとこに毎回投げる人とキャッチボールしても、それはそれでつまらないというか。変に慣れちゃうというか」


「あー」雄二と大介も頷いた。


「わかるわ、それ。難しいとこですよ。映像の場合、アングル変えて同じシーン何度も撮るしね」


「え、そうなの?」井上が驚いたように言った。


「そうですよ。あ、倉田監督も何パターンも撮ってました」と栞が言った。


「まじかー」井上がうんざりした顔でコーラを飲んだ。


「常にテイク1のつもりでやるのは? 舞台だと、基本始まったら最後までダーっと行くじゃない。だから、毎日テイク1なんだよね」


「そこはライブと似てるね」井上が頷いた。


「あーそうですよね。ライブは毎回、一回勝負ですもんね」


栞はこの四人で自然に映画のことを話せるなど考えてもいなかった。なんだか楽しくなってくる。


「もしかして栞ちゃん、井上さんに合わせてない?」


「え?」


雄二がまるでリハーサルを見ていたかのように言った。


「俺とやったときの栞ちゃんはさ、発想が自由だったよ。それで俺も逆に自由にできたし」


「え? オレのせい?」井上が今さらという感じで驚いた顔をした。


「あー、まー、そうすね」栞は正直に言った。


「まじかー」


雄二と大介が、井上のリアクションに受けていた。栞も思わず笑ってしまった。ふとしたことで距離がこんなに縮まることがあるのだと、不思議な気がした。それに、楽しい。






            30






映画の準備期間があっという間に過ぎてクランクインがやってきた。スケジュールは変更されて、雪の都合を優先し北海道ロケを頭に持ってきている。倉田がやむなくスタッフ案を飲んだ形となったらしい。


栞は脚本を何百回読んでも不安が拭えなかった。セリフはすべて覚えている。自分に対しての期待はもちろん僅かにある。それでも不安のほうが何倍も大きかった。


それと同時に栞を襲ってきたのは強烈なプレッシャーだった。栞は食事をしてもすべて吐いてしまうことがあった。胃がキリキリと痛み、目だけをキョロキョロさせていた。しかし、そんなことは誰にも言えなかった。以前、小豆島のロケ先で葉月に言われたことが時々思い出される。


「覚悟を決めなさいよー。責任があるんだから。あなたが倒れたら作品ができなくなる——」


俳優は一度クランクインしたら、何があってもカメラの前に立ち続けなくてはならないのだ。


クランクイン初日は、新千歳空港での撮影になった。空港に降り立ったカゴメ(=栞)が、電車やバスを乗り継いで、ヒロシ(=井上)の実家に辿り着く北海道での冒頭シーンだ。


朝一の飛行機で羽田から新千歳空港に着くと、そのまま、待機していたマイクロバスの中で着替えとメイク、その間に機材がセッティングされていく。移動日だからといって半日たりとも無駄にできないのだ。空港のシーンは映画やドラマで何度も見たことがあったが、まさか初日の撮影がそのシーンになるとは、ひと月前までの栞には全く想像できなかった。


撮影機材・照明機材が運び込まれ、移動撮影用のレールが引かれていた。撮影現場に入ると、その規模感に栞は圧倒された。空港での撮影はエキストラも多数仕込まれているし、やたらと周囲の注目を集めてしまう。北海道では栞のインディーズ映画はまだ公開されていない。全くの無名の存在だ。助監督が指示を出し多勢のエキストラの動きが何度もテストされている。彼らはほんの少し前までの栞だった。栞は神妙な気持ちで彼らの動きを見た。


「紹介しますんで、よろしく」助監督が声をかけてきた。


「は、はい」


栞は撮影スタッフの中心に立った。


「えー、改めてご紹介します! 西村カゴメ役の山名栞さんでーす!」


スタッフやエキストラから大きな拍手が起きる。


「よろしくお願いします!」


栞は深々と頭を下げた。拍手に顔を上げると、想像以上の大人数のスタッフが目に入った。撮影部、照明部、特機部、美術部、録音部、衣装部、メイク部、スクリプター、メイキング班、スチール、演出部、制作部、製作陣……今ここにいないスタッフもいるだろう。栞は改めて自分が背負うものの大きさに身が竦む思いがした。こんな気持ちになったのは初めてであった。




 その日の撮影は、混乱と戸惑いの中あっという間に終了した。スタッフも初日ということで、監督との連携がスムースではなかった。栞の動きもできがいいとは言えなかった。要するにごく普通という芝居だ。初めての空港に降り立ち、土地勘もなく、人を探すためにある場所へ行こうとする……という典型のシーンを典型の演技でやったに過ぎない。


倉田は粘ろうとしたが、空港をそう長くは借りることはできないし、日が落ちるのも早い。場所移動もある。ただただ時間に追われた。本番が始まれば、時間との戦いが栞に加わる。タイトなスケジュールの中、リハーサルのように時間をかけることはできないのだ。


メジャー映画はインディーズ版とすべてが違うように栞には感じた。場違いなところに自分がいると、ひしひしと肌で感じた。そのせいもあり栞は、現場で思うような芝居がなかなかできなかった。その一つに繋がり芝居ができないことがあった。


繋がりとは、例えば同じシーンのカットAで右手でコーヒーを飲んだら、カットBでも右手でコーヒーを飲まなくてはいけない——というように、カット毎の動作を合わせることだ。しかし実際にはもっと複雑だ。感情の繋がりもあれば細かい動きの繋がりもある。それは編集したときに映像がスムースに流れ、見ている人が自然に物語に没入できるようにするための基本的なことだ。しかし、まだ技術ではなく感覚で芝居することしかできない栞は、感情の繋がりも動きの繋がりもカットごとにバラバラだった。


そのチェックをするのが記録係で、スクリプターと呼ばれるスタッフだ。大抵は女性が担うことが多い。監督は芝居全体を見ることとカメラの動きに集中する。細かい動きや繋がりのチェックはスクリプターの責任だ。後日、編集部に撮影済みフィルムが(今回はデジタルに変換されて)渡る際に、スクリプターの書いたシートが大切な資料となる。スクリプターは常に冷静で、どんなに人数が画面の中にいようとすべての動きを瞬時に書き留められる。監督にとってはパートナーのような存在だ。今回は倉田のリクエストで旧知のベテラン迫田史代を頼んでいた。他の俳優部は「史代さん」と言って懐いていたが、栞にとっては怖い人でしかなかった。繋がりができていないことは、リハーサルでも度々迫田に指摘されていた。それが栞をさらに不自由にした。


「繋がりなんて気にしなくていいから、気持ち繋げろ」倉田が栞にそう声をかけると、


「監督がいいならいいですけど。あとで編集部に怒られますから、最低限は繋げないと。編集で使いたいテイク使えなくなりますよ」


「それはわかるけど」


現場で倉田と迫田がたびたび揉めていた。


繋がり芝居ができない栞の技術のなさが原因なので、そばで聞かされる栞はたまったものではなかった。


撮影現場にはアマチュアは一人もいない。全員が映画に関わるプロだった。そういったことも、プレッシャーに繋がっていく。




翌日。空港から電車で北広島駅まで行く。そこからはバスだ。車窓に流れるのは、暗く立ち込めた雲に覆われた果てしない空と、雪に埋もれた広大な大地だ。ヒロシの故郷をセリフで説明的でなく描くためには、無言で訴えかけてくる自然が一番だ。ここで育ち、ここを抜け出して、東京で音楽(ミュージシャン)を目指し、挫折し、ここに帰ってくる。そのリアリティは自然が映し出してくれる。それに、これだけ広大だと下北沢のごちゃごちゃした街並みとの対比になる。ロードムービーではないが、移動というのも物語の伏線になっていた。


演技的には動きもさほどなく、淡々としたシーンが続いた。とにかく、寒い。静岡の温暖な地域で育った栞には、初めて体感する強烈な寒さだった。どんよりとした重い雲がのしかかる冬の長沼の大地は、栞が想像していた北海道とは違った。この地で暮らすことは、自然の厳しさと向き合わなくては成立しない。東京での栞たちの生活より何倍も自覚的に生きないと、冬の寒さに心も身体も負けてしまうのだと感じた。


(肌に吹きつける風の種類が全く違う……)


栞はバス停に立ち、カメラのスタンバイをじっと待っていた。足元から噴き上げるような冷気。肌を突き刺す寒風。息をするたびに肺の中に入ってくる空気。すべてが桁違いの寒さだった。


栞は待ち時間になると、カゴメになってヒロシの少年時代のことを考えた。この町で、この辺りを歩いたヒロシを想像した。そうすると、隣にバスを一緒に待つ高校生のヒロシがいるような気がしてきた。


「寒いねー」


「寒いっしょ?」


「うん。ここはどんなところ?」


「カゴメの見た通り。何もねえよ。広いだけだ」


「広いね、ほんと」


カゴメは、果てしなく広がる大地を見る。どこまでもフラットな平野だ。高い建物は何もない。


「うん、手に負えないくらい広いのさ」


「東京は? 広い?」


「広いな」


「シモキタは?」


「ごちゃごちゃしてんな」


「そうだね」


栞はそんなやりとりを妄想しながら待ち時間を潰した。


北海道の真冬にロケをするのは栞の想像以上に過酷なことだった。衣装の上にグラウンドコートを羽織っただけで外に長時間いれば凍えるし、室内や車内に入れば暖かいが、今度は外との寒暖差に身体がついていかない。風邪など絶対に引けない。体調管理も俳優の重要な仕事だ。短時間の滞在で北海道の冬に慣れるのは大変だった。俳優業は、まさに肉体労働の側面もあるのだ。今夜の便で、井上光や葉月良子が東京から来る。明日、現場で原田淳平とは合流だ。




 翌日も空は重い雲に覆われ、どんよりとした天気だった。雪が音もなく淡々と降り、底冷えがする。栞たちは、撮影現場で支度に追われた。


時間通りに原田淳平が、ワンボックス車に乗って現れた。すかさず現場がざわめいた。


原田は不況の邦画界にあって貴重なスターだった。人々は原田を見に劇場に足を運ぶ。人々は劇場を出るときには明るい気持ちになっている。


原田のキャスティングにこだわった万映の曽根も現場に来ていた。


「お待ちしていました!」とあからさまな感じで曽根が駆けつけて、車から控室へと原田を案内した。栞は控え室の曇った窓から、その様子をこっそり覗いていた。


準備を済ませていた栞や井上は緊張して原田を迎えた。葉月はドラマで共演したことがあるとかで案外と普通にしていた。いちいちビビっていては仕事にならないと言いたげな顔をしていた。


「皆さんおはようございます! あ、君が山名栞さん! よろしくね。あ、井上光くん! いつも素敵な曲ありがとう。今度の映画の曲もいいんだって? 楽しみです」


原田はとにかく陽気で、控室の温度が三度くらい上がったような気がした。


「よろしくお願いします。山名栞です」


栞は丁寧に頭を下げた。


原田の提案で「まず一回動いて見ようよ」となり、リハーサルが行われることになった。


カゴメが、ヒロシの実家を訪ねてくるシーンだ。いかにも北海道らしいデザインの民家を借りたロケセットは美術部が室内を小道具で装飾している。


家の中を原田は丹念に歩いた。どこに何があるか、どういう動線で生活しているかをぶつぶつ言いながら確認していた。次はソファに座って部屋全体を眺めている。葉月も同じようなことをしていた。二人はお互いの動きや関係性について二言三言短く話していた。


栞も井上もその様子を立ったまま黙って見ていた。


「ああいうの、みんなするの?」


井上が栞の耳元で小声で言った。


「多分……。私、わからないんで」


栞も小声で返した。


「僕も一緒にやったほうがいいのかな? ここヒロシの実家って設定だよね」


「すいません、私流れが見えなくて……」


栞は、プロの俳優同士がするリアルな準備を見て感心していた。リハーサルなしで、いきなり本番当日に合流して結果を出すというのは、こういうことを短い時間の中でも丁寧にやるからなのだろう。しかも、毎回水準以上に期待に応えるのは並大抵の技術力ではない。


「じゃあ、とりあえずやってみる?」


原田がとぼけた感じで言った。


「あ、はい」


栞と井上は慌ててスタンバイした。


さほど広くはない家の中には、何十人とスタッフがいる。栞はその視線の数に圧倒されていた。百を超える目に見られていることでさらに緊張が増した。


「じゃあ、一回、自由に動こうか」


倉田が俳優たちの芝居の動線を決めないで自由にやらせようとした。結果的に、それが栞を不自由にした。毎回違う演技をしたことで、スクリプターにも指摘され、自分の動きが気になってしまう。


井上もまた本格的な俳優と絡むのは初めてなので最初は戸惑っていたようだが、どこかなるようになるだろうと開き直っているように見えた。そこは本職ではない、いい意味での無責任さが強みだった。栞だけが、浮いてしまっていた。


何度か動きを試した後、原田のメイクと着替えをしてから本番ということになった。栞は焦っていた。自分が原因のNGを出す訳にはいかない。




栞が、家の外で冷気に当たってセリフを反芻していると、原田の付き人がやってきた。


「山名さん、すいません。原田が呼んでいます。ちょっと話したいって」


「はい!」


栞は慌てて原田の控室へ向かった。何か怒られるのだろうか……初めてのことに栞は動揺していた。


「失礼します」


控室には、葉月もいた。衣装を着て二人で渋茶を飲んでいるところは本当の夫婦のようだった。原田が、ストーブで焼いた餅を齧りながら唐突に言った。


「君さー、全然、インディーズ版の時の良さが出てないじゃない。なんか浅はかーな計算が見えるんだよ。うまくやんなきゃ、失敗しちゃいけないってのが見え見えなんだよ」


「すいません……。あ、え? 私の映画見てくれたんですか?」


「見たよ。忙しいのに。行っちゃったさ、渋谷のレイトショー。なんか懐かしくなっちゃったよ、大昔の自分がいてさぁ。もうあんなふうに俺らできないからね」


原田は地元の親父になりきっていて、北海道のイントネーションで喋っていた。横で葉月がその様子をニヤニヤしながら聞いていた。


「だから、あんなのまたやればいいじゃない。あれを評価されたんでしょ、君は。それに相方に引っ張られ過ぎ。気にしないの、相手は。まず自分。自分を表現するの。相手に合わせようなんて百万年早いからね」


「あ、はい」


「この作品はなあ、君がさー、でっかくなるためにあるんだよ。だから出てんだよ。忙しいんだよ、俺だって。だけどね、出ちゃうのよ、北海道だし。まあ、俺らもさあ、そうやって、ビッグな人にゲストで出てもらったおかげで……」 


「あれ、自分のことビッグって意味です?」葉月がからかって言う。


「ビッグじゃない。これでもアカデミー賞もらってんだから。若いうちは四の五の言わずにやるの。びびってんじゃないの。平常心なんていらないよ。あがったっていいじゃない。そりゃあがるよ、100人からのスタッフが自分撮るために何ヶ月も働いてるんだもん。北海道の外はとてつもなく寒いんだ。外にいるスタッフ、みんな凍えてるよ。早く終わらないかなーなんて考えてる奴もいるのよ。そんなの仕方ないじゃない。お互い様だよ。金もかかってんだよー。最高じゃない? 役者冥利だよ。だから、もう開き直って楽しんじゃえばいいのさ。楽しいよー。撮影、最高―って。とにかく一生懸命やれば誰かが見てんだ。失敗したら監督のせい。選んだ奴が悪いんだ」


「ああ、はい……ていうか」


「ていうか、とかじゃなくて。あと、オレなんか繋がってないぞー、芝居。気にするな。プロの編集マンがいるんだから、あとでなんとかしてくれるくらいに思ってないと自由に動けないって。でもさ、スクリプターはそれが仕事だから。繋がってないの放置するようなスクリプターは、逆にダメなスクリプターだから。役割なんだもん。いいんだ、言ってもらえば。言ってもらえるうちが花なんだから。


でも、怖いのは、繋がりばかり気にしてると、繋がる芝居して嬉しくなっちゃうのな、そういうのができるようになった自分に。それが職業俳優への第一歩。『職業、俳優』と違うのよ。言葉遊びじゃないよ。君はまだアマチュアでいいの。慣れちゃダメ。繋がり芝居がよくても監督も観客も褒めないし、使わないよ、見にこないよ、君を。お客さんは君の気持ちを見るんだ。でっかいスクリーンで自由に動く姿を見たいんだ。それが映画。そのことを忘れないように。以上!」


「あ、はい」 


栞は、直立不動で返事したが、顔は笑顔だった。原田のトークに肩の力がスッと抜けていた。


「じゃあ、餅食うか?」


原田はストーブの上でこんがりと焼けた丸餅を栞に放った。




撮影はその後、粛々と進んだ。原田の言葉で気が楽になれた栞は、自分のすべきことに集中した。考えすぎず、その場で感じたままを先輩俳優たちに、井上に、ぶつけていった。相変わらず繋がり芝居は苦手だったが、スクリプターの迫田もあまり口うるさく言うのをやめてポイントだけにしてくれたようだった。


その日の撮影が終わる頃になって、倉田がインディーズ版のときと撮り方を変えている、と栞は感じた。ワンシーン通して撮影することに拘らず、シーンを割り、カットを割ってきた。特にベテラン二人に対しては、抜きと呼ばれるポイントの表情だけを撮影することも度々した。しかし井上や栞に対しては、それをしなかった。そうしないほうがいいと判断したのかもしれない。それがリズムを産んで、撮影は回り始めた。栞は少しずつ撮影に順応していった。




外は極感だが家の中はものすごく暖かい。それも北海道に来て初めて知った。栞のアパートの部屋よりもずっと温度が高いのだ。ロケセットで借りている民家は、北海道らしい洋風なところがある家だった。黒い薪ストーブの真ん中がオレンジ色に燃えているようだ。


あるシーンで、ヒロシの母役の葉月が、家の用事をしながら実に自然に芝居を始めた。芝居に入る余白部分の使い方が素晴らしい。だから、栞もすっと役に入れる。


「こっちは寒いっしょ?」


「はい。信じられないくらい寒いです。でも、お家の中は東京よりずっとあったかいです」


「東京の冬も寒いからねえ」


「あ、東京にいたことがあるんですか?」


「若い頃、ちょっとね。でも、すぐ帰ってきた」


カゴメ(=栞)は窓の外の雪を見た。今日は雪が降っていないから、美術部がそこらからかき集めた雪を窓の外から降らせているのだ。


「ヒロシさんって、ここで育ったんですね」


「これでも、この辺りも変わったんだよ」


「ウチの街もです」


「変わらないものはないから……」


カゴメは今の言葉を噛み締めている。変わるもの、変わらないもの……栞は頭の中に観念を浮かべた。


「あの子の音楽はどう? モノになるかな?」


ストーブの中の薪がちょうどよく爆ぜた。薬缶から湯気が上がっている。


「それは……わからないです。何が成功かもわかんない時代だし。ただ……今の私にはどうしても必要なんです。ウチのライブハウス……あ、潰れかけてるようなとこですけど……ヒロシさんの音楽で客席埋めて、逆転したいっていうか」


「そう……。でも、焦らない方がいいよ。一発逆転なんかそうそうないから。じっくりゆっくり、土と一緒でしょう? 土が良くないと作物育たないから」


土……ここでは人々は土と共に暮らしている。大地に根差した暮らしだ。私はどうなのだろう? アスファルト? 汚れた空気? いや違う。音楽だ。その音楽が生まれる場所をなくしたくない。私の居場所を守りたい。


「そうですね……きっと。それが正しい姿なんでしょうね。……それでも、なんですよ。」


カゴメは、力強く言い返した。


「そう」


葉月が栞を見て微笑んで、


「ココアでも飲む?」


と予定にないセリフを付け加えた。栞は「あ、いただきます」と笑顔で返した。葉月がさりげなく栞の別の表情を引き出してくれた。




撮影四日目に、ユーロスペースの西川が陣中見舞いと称して現場に訪れた。札幌のミニシアターとの事業の連携と新しいプロジェクトのミーティングがあったから、と栞に言った。


「それに、休暇をくっつけてね。足を伸ばしてみました。観光じゃこの辺りなかなか来られないからね。しかし、何もないところねー」


「寒いですよー」


栞は旧友に会えたような気持ちで西川を歓迎した。


「頑張ってるみたいね」


「いやー、必死ですよ。とにかく食らいついてかないと」


「そう」西川が嬉しそうに栞を見た。


「あ、ちょっと余計なことかもしれないけど、こんなの見つけたものだから」


西川が革の手帳から一枚の写真のプリントアウトを取り出した。


「誰です?」


「栞ちゃんのお母さんが女優していた頃の公演中のスチール。ちょっと拡大したから粗くなっちゃったけど」


「え!」


栞はその写真を食い入るように見つめた。それは記憶の片隅にあった栞の母だった。多分二十代前半くらいで、舞台の上で芝居している公演中の写真だ。栞は母の顔をほとんど覚えていない。栞が二歳のころ、両親が離婚したからだ。その母はもうこの世にいない。


「こんな顔するんだ、お母さん……」


どんな芝居なのかはわからない。母が笑顔で腕を伸ばしている。何かしらのセリフを観客に向けてぶつけている。栞は、その表情をしばらく見つめた。胸の奥がじわっと温かくなる感覚があった。


(お母さん、私、女優始めたよ……)


栞は写真の中の母にそっと語りかけた。


「西川さん、ありがとうございます」


「ううん。こちらこそ。ライターっぽく言わせてもらえれば、女優誕生の瞬間に立ち会えたってとこなんだ」


「そんな」


「おかげでうちも満席が結構出たからね」


「ほんとですか、嬉しいです」


「メジャー版の公開時に合わせて凱旋ロードショー組もうって、支配人張り切ってるよ。色々あっただろうけど、あの映画は関わった人をみんな幸せにする力があると思う。作品の出来も大切だけど、映画ってそれだけじゃないから。


インディーズ映画だって、それなりに多くの人が関わってる。私たちにとっては大切な仕事なのよ。だから、お客さんが来てくれて、劇場が潤うって言うと生っぽいけど……。まあ、きれいに言うと、劇場が元気になるって言うのかな。お客さんが来てくれるってやっぱり嬉しいのよ。人のいない映画館がどれほど寂しいか知ってる? 私は知ってるよ。つらいんだよね、これが。お上に閉めろって言われてた時期もあったじゃない? まあ、普段満席かって言われれば、全然そうじゃないんだけど。たいてい、いつも空いてるけどさ。だからね、お客さんが入ってるとすごく嬉しいの。


映画は作っておしまいじゃない。出来上がって、お客さんが見て、見た人の心の中に生き続けて、それまでが全部映画。だから、頑張って乗り切ってね。応援してる。そしてまたインタビューさせてください」


「はい、必ず」


栞は母の写真を台本の最後のページにそっと挟んだ。




 


            31


 


 


栞は自分の出番がないときにも、撮影現場を離れないようにしてスタッフの動きを観察した。それに倉田が井上に投げかけている言葉が聞きたかった。


その日の撮影場所は、家とは別の場所にある納屋だった。相当大きいドーム型の建物だ。そこに収穫した山積みのジャガイモが寝かせてある。暖房などないから冷え冷えとしている。


納屋の中にいる原田淳平と井上光の父子二人のシーンだ。二人の吐く息が白い。納屋の外には雪が降っていた。


井上がなれない手つきでジャガイモを運んでいた。そこに父親役の原田がやってきた。どこから見ても農家の親父にしか見えない。するといきなり「ワン! ワン、ワン!」と犬の鳴き声を始めた。井上が不意を突かれて、顔を上げた。静的なシーンがいきなり動的に変わった。


「負け犬かお前は」


「チッ、うるせえ……」


「たった三年で答えが出るのか? そーんなちょろいもんなのか、音楽って」


「だからうるせえって」


「……ここはな、甘いとこじゃねえんだ。覚悟のない負け犬がのこのこ帰ってくる場所じゃねえんだよ」


短いセリフのやり取りで、原田が挑発するように井上を苛立たせる。原田はジャガイモの入った麻袋を使いながら、動きを止めないでセリフをぶつけていた。井上が本気でムカついた顔をしてスコップを捨てた。


「大切に扱えー。時間かけてここまで美味くなったジャガイモだぞー。ギターそんなふうにされたらお前どうすんだ」


井上は雪の中へ大股で出て行った。納屋の寒さが伝わってくるようなアングルで、それでいて美しい。倉田の後ろでモニターを見ながら、栞はため息まじりで感心していた。映像はもちろんのこと、原田のちょっとした仕草や間や目線が、井上のぶっきらぼうな芝居を引き立たせている。


ああ、こんな不器用同士の親子いそうだな、と感情移入できるのだ。しかも、原田が動きながら演技することで、それを追う井上の視線も身体も自然と動かざるを得ない。


「お前じゃないんだぜ、ヒロシは。お前の歌にもたくさん出てくる、名もなき若者でしかないんだ。そういう重ね方をするなよ。それに雪国に育った人間は、そんなふうに雪の上は歩かねえぞ」


倉田が井上に以前より厳しく当たっていた。言い方がユーモラスなのできつくは聞こえない。井上は毎回自分なりに考えてから動き、倉田の反応を見ているようだった。それが二人なりの距離の詰め方であり、闘い方なのだと栞は思った。


自分じゃない誰かになる。誰かの中に自分を見つける。誰かと自分がシンクロする。井上がテイクを重ねるごとに芝居に入っていくのがそばで見ていてわかった。それを見るのは栞にとっても嬉しいことだった。




昼休憩のときに、栞は控え室代わりのロケバスの外に出てみた。もちろん顔に当たる風は極寒なのだが、空気が澄んでいて気持ちいい。東京とはまるで粒子の細かさが違うようだ。目の前には雪に覆われた広大な農地が広がっている。遠くに針葉樹林が見えた。何かの映画の中で見た北欧の大地のようだった。雪を踏む音がして、栞の横に井上がやってきた。


「あ、お疲れ様です」 


「うん」


二人は制作部が用意してくれた豚汁を啜った。寒い中での撮影でこれほど有難いものはない。栞は改めて目の前に広がる雪景色を見た。この下には土がある。そして雪が溶けた春には種が撒かれるのだろう。


「俺は、いつも自分だからな。うまくわからないよ」


井上が栞に言うともなく言った。栞は井上の葛藤に親しみを感じた。 


「そうかな、人って自分しかないのかな。それに……きっと演技に正解はないですよ。私たちは、自分の中にある他者と出会うだけ。それに自分なんてわかっているようで、わかってなくて……役を生きて、毎日知らなかった自分と対面するんです。それが楽しくもあり、苦しくもありって感じで」


「へー。自分の中の他者か。面白いね」 


「あ。すいません。一本しか映画出たことないのに……」 


「いや全然」


「でも、自分ではまあまあ良くできたと思うとこでお客さんはスルーして、どうしようもないなってとこで笑ってくれて。結局、自己評価と他者評価って全然違うんだなっていうか」 


「音楽は目の前にお客さんがいて生ものだからな、リアクションが直だから」 


「あ、そこは演技も同じですよ。だから、私、監督を最初の観客だと思うこともあるんです。それに人間だから同じことは二度とできない。同じセリフを毎回同じようには言えない。ちょっとずつ違う。同じ楽譜を同じように演奏できないのと一緒です。きっとそれが楽しいんです。何度も同じテイク重ねていても楽しいもん」 


「へー、なるほどなあ。こうやって実際やってみるとさ、映画とかでふつうに見てた何でもないことが、実は大変だったってわかるよ。歩くだけでもまともにできない。役者ってすごいよな。原田さん、見ていて面白いもんなあ」


井上がまるで他人事のように言った。その感じがまた井上らしくて、栞は思わず微笑んでしまう。


映画の撮影って何て滑稽なんだろう。大の大人がこんなに多く集まって、今の芝居が良かっただの悪かっただの、そんなことで一喜一憂している。そんなことを何十年もずっとやってる人がたくさんいる。ほんと、映画って何なんだろう。栞は自分の吐く東京よりずっと白い息を見つめた。 






             32


  




北海道ロケの最終日の撮影は——カゴメが、ヒロシと揉めて、車から勝手に降りてしまい、止めるのも聞かずに逆方向へ歩き出す。ヒロシは捨てセリフを残して呆れて去る。カゴメが道に迷っているうち、吹雪が来て大地を彷徨う。そんなシーンだった。脚本のト書きに書いてあることはシンプルだが、俳優にとってはどう演ずるのか問われるシーンの連続だった。


早朝のロケ現場は、晴れていて気温が低く、朝日が差していた。チリのようなダイヤモンドダストが風に舞い、この時期にしか見ることのできない北海道の冬の美しさがあった。


雪は、降れば活かし、降らなければCGで合成することになっていた。現場には合成を担当するSFXのチームの数名が東京から駆けつけていた。


その日は風が強かったが、雪は少ししか降ってはいなかった。これくらいのほうが、後で雪を足したり引いたりするのにちょうどいいと合成担当のディレクターが言っていた。本当に吹雪いてしまうと、映像のコントロールが難しいのだそうだ。


倉田は、そのあたりはなるようになるだろうと、鷹揚に構えSFXチームに任せていた。インディーズ映画とは違って、任せるところはどんどん任せていかないと、身が持たないと言っていた。自分のやることは、役者を見ることに集中すると言って、一流のスタッフを信頼していた。


「なんだか安い切り落としの赤身が、中トロになったような感じがするよ」倉田が苦笑いで栞に言った。


栞と倉田は撮影部や特機部の大勢のスタッフがカメラのセッティングをするのを見ていた。大型のライトもスタンバイしている。二人は、制作部が用意したキャンプ用の椅子に腰掛け、膝に毛布をかけていた。足元にはヒーターがあり、後ろのテーブルには、温かいドリンク類が用意されている。 


「でも大味になっちゃいけませんよね」 


「ああ」 


「より、多くの人に、私たちの作品を美味しいと感じてもらう。そのためには全力でやるだけです」 


「そういうこと。人は、人が一生懸命やる姿にしか心が動かない」


倉田は、確信を持って言った。倉田と最初に出会ったワークショップでも同じことを言われたのを栞は思い出した。栞は大きく頷いた。


倉田が手にしていたカップからコーヒーの湯気が上がっていた。この気温ではすぐに飲まないと、あっという間に冷めてしまう。倉田が一口コーヒーを啜って、再び口を開いた。


「山名さん、この映画はインする直前まで流れそうになっていたんだ。それを救ってくれたのは、君の存在だ」


「そんな……」栞は恐縮して手を振った。


「いや、そうなんだ、本当に。君がいなければ……もし君がもう一度出ると言ってくれなければ、オレはこの作品を撮れなかったと思う。色々、悪かったね。変な大人の事情に巻き込んで……。君を傷つけてしまって。あのときは、申し訳なかった」


倉田が栞に頭を下げた。


「ちょ……やめてくださいよ、監督。何もこんなときに……」


倉田が小さく首を振った。栞は、恐縮して話の続きを待った。


「この数日でオレは改めて分かったことがあるんだ。この役は、カゴメはやっぱり君のものだったんだって。君がカゴメなんだ。いや、逆かな。カゴメが君なのか……。まあ、だからというわけじゃないけど……」


倉田の目が眩しそうに、撮影部や特機部が準備するクレーンを見上げた。  


カメラポジションまで雪の上に養生のための板を敷き、移動車のレールが敷いてある。昨日から雪をならして固め下準備をしていたそうだ。スタッフたちが寒い中で声を掛け合いながら作業している。誰の口元からも白い息が上がっていた。


「あのクレーンの上に乗っているカメラはね、ARRI社のアリカムSTだ。レンズはやはりARRI社のマスター・プライム。フィルムレンズらしいルックが特徴なんだ。このショットでは、少し長めの絵が撮れる望遠レンズが付いている。そいつで、この白い大地と君の芝居を押さえる。カットは割らない。このシーンはワンカットの長回しで撮りたいんだ」


「ワンシーン・ワンカット……」


栞は呟いた。


「好きに動いていい。オレたちはそれを捕まえる。カメラには新しいフィルムが詰めてある。ワン・ロール1000フィート、約10分だ。その時間を君に渡すよ。自由に使って欲しい」 


「はい」 


「今度の映画のスクリーンは大きいんだ。ミニシアターの何倍も」


「だから全身で芝居する」 


「そう」 


「瞬きから足の指先まで、お客さんに見えている」


「そうだ」 


倉田が、栞を見て頷いた。 


「そろそろかな。よし、行こう。立ち位置を決めたら本番だ」 


「はい」 


栞はベンチコートを脱いだ。その下には赤いミリタリージャケットを着ている。衣装部が、当時のヴィンテージを脱色してから染め直し、栞の身体に合うようリサイズしてくれた一点物だった。背中のスタッズは小道具担当の女性が一つ一つ打ち込んで羽の形を作ってくれた。きっと雪に反射して綺麗に輝くだろう。




真っ白い大地。そのスタート位置に、栞が立った。倉田はカメラをなかなか回そうとしなかった。遮る物のない吹きさらしに立っているだけで十分凍える寒さだ。多分気温はマイナス十五度くらいだ。栞は手袋をしていない。冷たい風と雪が全身を吹き飛ばそうとする。油断していると、そのままどこかに持っていかれそうになる。すぐに歯がガチガチと音を立てた。白い息を手に吹きかけても何の効果もない。足の先の感覚がなくなってきた。全身の震えが止まらない。


「負けない、負けない、負けない、絶対負けない……」


栞はひたすら呪文のように呟いた。


倉田がようやくメガフォンを握り「よーい、スタート!」と大声で叫んだ。その声が大地に響いた。カメラが、回り始めた。


栞はカゴメとなって真っ白な雪の中を歩き出した。ちょうど斜めに降り出した雪が視界を遮る。歩き慣れない深い雪はひと足ごとがやたらと重い。すぐに息が切れて足を取られた。それでも歩いた。カゴメのここまでの日々や助けてくれた街の人たちを頭の中でイメージすると込み上げてくるものがある。


しかし、足元が雪に埋もれて、なかなか前に進めない。風が強くなって、雪が栞に吹き付ける。どこが道なのか、どっちに向かって歩いているのか、わからなくて不安になる。何が正しいのか正しくないのかもわからない。寒さで気が遠くなりかける。自分がカメラにどう映っているかなど、もうどうでもいい。


栞は歩いているうちに自意識がなくなり、これが撮影であることも忘れた。ただ、雪の中を一心に進んだ。


(負けない、負けない、負けない、絶対負けない!」


飛びかけた意識の中で脳裏に浮かぶ顔は、これまでの暮らしで出会った梢のことや大介のことや、この映画に出られなかった雄二のことだった。いつも軽口を叩く店主まで思った。事務所の藤枝や田端を思った。さっき、西川がくれた母の写真を思った。急に目頭が熱くなってくる。


また雪に足を取られた。すでに息は上がりかけている。寒さで手足の感覚がない。見えない地面に踏ん張れない。自分に腹が立つ。こめかみがキリキリ痛む。


なんで私の足腰はこんなに虚弱なんだ! 動け、私の脚! もっと動け!


栞はどうしても負けたくなかった。きっと自分に。自分が決めたことに対して。それがいく


ら砂糖菓子のように甘くて世間知らずの夢だったとしても、これは栞が自分で決めたことだ。


今、栞はまだ歩き始めたばかりで足取りは頼りない。だけど、道もないただ真っ白な雪の中を自分の足で歩いている。


栞は気づいた。




これが私だ! 私は今ここで、生きているんだ!


 


どこに行くのだろう。私はどこまで行きたいのだろう。寒さで耳が千切れそうだ。吸い込んだ空気は肺の中を通り越して胃の中まで凍らせてしまうかのようだ。


寒い……寒い、寒い、寒い……寒いっ! チクショー、なんでこんなに寒いんだ!


栞は、いつの間にか全身で叫んでいた。


空に向かって。雪に向かって。自分に対して。


「わああああああっ! わああああああっ! わああああああああっ!!」


大きく開けた口の中に雪が入ってくる。冷たくて新鮮な雪だ。栞は口に入った雪を、首を振って吐き出した。瞬間、足が雪の深みにハマって、膝から崩れ落ちた。右脚を引き抜くと、左脚を取られる。今や雪はただ美しいだけの存在ではなく、栞が闘うべき存在だった。


「ぬああああああっっ! こんなんに負けねえぞーーーっ!!」


栞は腹から声を絞り出した。数キロ先まで聞こえるかのような咆哮だった。


そして、雪から脚を強引に引き抜くと、また一歩ずつ踏み出した。栞の体内から放つ熱が雪を溶かしている。いつしか栞の背中のスタッズが雪に輝いて、本物の羽のように羽ばたこうとしていた。




カメラが栞の全身を捉えきった。映像の中の栞は真っ赤な生命力そのものだった。


井上は倉田の後ろで、その画面をじっと見ていた。手にしたコーヒーを飲むのも忘れ、画面の中の栞に釘付けになった。倉田が大声で「カット!」をかけると、栞が膝から崩れ落ちた。全身が震えた。井上は、そこでようやく息を吐いた。息を止めて見ていたのだ。


「……すごいっすね……彼女」


「迎えに行ってこいよ。相方だろう?」倉田が振り返らずに言った。


「そうですね」


井上はぬるくなりかけたコーヒーを倉田に渡した。


「ちょっと行ってきますわ」


井上はグラウンドコートを脱ぎ捨てると、栞の元へと走って行った。


「勝手に回すぞ!」井上の背中に倉田が声をかけた。


同時に雪が急に強くなってきて、まだ離れている二人に斜めに吹きつけた。


井上は雪の中を走りながら、不思議な感覚に囚われていった。


なんだか一歩一歩がもどかしい。栞に早く近づきたい。早くこの手で抱きしめたい。なのに雪が邪魔をする……。


井上はそれでも一歩ずつ栞に近づいていった。近づくにつれ、視界の中の栞が大きくなる。白い雪の中で埋もれそうな赤い栞が愛おしい。井上は両手も使って雪を掻き分けた。


遠くの針葉樹林が白く化粧し、まっすぐ天に伸びている。大地の中で根をしっかり張っているからこそ、こんな寒さでも凛としていられるのだろう。自分はどうなんだ? 自分のやってきたことは確かなものなのか? 自分の作ってきた音楽は本当に人の心に届いているのか? そもそも自分はちゃんと生きているのか? 井上の胸の中には栞のそばに早く行きたい感情と、なぜか唐突に浮かんだ漠然とした心の動きが同時に存在した。


不思議だ……なんでこんなことを今考えてしまうのだろう。きっと……見たばかりの栞の芝居のせいだ。栞がオレの心の深いところを揺り動かしたからだ……。


栞……栞……カゴメ……!


息も絶え絶えに走り寄った井上が、すっかり凍えて冷たくなった栞の身体を抱きしめた。栞が今までに見せたことのない表情をしていた。


カゴメがヒロシの腕の中にいた。


「ごめん遅くなって」


「うん」


「ありがとう、こんな遠くまで迎えに来てくれて。……君に会えて本当によかった」


「……ねぇ、私の歌、歌って」


栞の言葉に井上は思わず微笑んだ。ゆっくりと唇が動く。そして、カメラのほうに力強く歩き出すと、栞の手をしっかり離さずに大声で歌った。いつの間にか栞も一緒になって大声で歌っていた。二人の全力の歌声が雪に覆われた長沼の大地に吸い込まれていった。


井上は、今、この瞬間、役を生きていた。自分と役が溶け合い一つになる感触が、井上の心の襞に刻まれていく。今までに感じたことのない高揚感が身体を包んだ。


ああ、これが映画なのか……井上は胸が熱くなった。


そのショットがいつ始まって、いつ終わったのかわからない。ただ、意識の奥で倉田のかけ声が聞こえたような気がした。






            33






北海道での撮影が終わり、栞は帰京した。空港でスタッフたちと別れ、乗合いのリムジンバスで新宿駅まで行き、小田急線に乗った。スーツケースを引きずって下北沢駅の改札を抜けると、ようやく北海道ロケが終わった気がした。しかしまだ映画の撮影は続く。明日一日休んだら、今度は下北沢のロケとスタジオ撮影が待っている。気持ちを切らさないようにしなくては……栞は自分にそう言い聞かせて、駅の人混みに紛れた。さっきまで雨が降っていたのか、アスファルトが濡れていた。


一月の終わりの東京も、東京なりに寒い。寒さの種類が北海道と違うだけだ。栞はチェック柄のマフラーに首元を深く沈めた。栞は下北沢駅南口の商店街をゆっくり歩いた。すれ違う人の群れ。ざわめき。かつて目的がなく向かうべき場所がないと感じた緩やかな下り坂だ。何も考えなくても歩ける道だった。たった十日離れていただけなのに、街の風景が懐かしく、とても愛おしく感じられた。


雑居ビルが立ち並ぶ狭い空を見上げると、空に虹が見えた。


虹が出ていることに気づいた人たちがスマートフォンで写真を撮りはじめている。栞も足を止めてしばらく虹を見つめた。


夕暮れの下北沢、私の住む街——。


カビ臭い古着の匂いと夢を追う人たちで溢れた街——。


虹は雲間から差す太陽の光に照らされ、薄いグラデーションで南の空に架かっている。目をこらさないと見逃してしまいそうな淡い虹だ。栞は空にそっと手を伸ばした。


栞の手の中には、まだ熱がこもっている。昨日の雪の中の撮影では、自分でも想像以上の熱量が心に湧き上がるのを感じることができた。役が叫んだのか自分が叫んだのか、境界が曖昧で不思議な感覚だった。何より井上と初めて心が通った芝居を一緒にできたことが嬉しかった。井上の見せた表情や仕草が……いや、むしろ存在が、栞の冷え切った身体を温めた。あの瞬間に湧き上がった心の昂りを言葉にすることは不可能だ。そして、きっと言葉にしてしまえば安っぽくなってしまう。


俳優の心の中は、一体どんな構造になっているのだろう。この熱は体温計で測れるものではない。だけど、カメラにはなぜか映るのだから不思議だ。


栞は空に架かる虹に向かって微笑んだ。身体中に力強く血液が巡っているのを感じた。


細い路地をいくつか曲がると、雑居ビルの階段を二階に上がった。『Pirates』の少し重いスイングドアを押す。途端に、店内の煙草の煙が新鮮な空気で揺れ、音楽が聞こえてくる。多分、ジャクソン・ブラウンだ。 


栞の顔を見ると、店主が、おっ……という表情をした。 


「おかえり」


カウンターの脇にいた有希がふつうに声をかけた。


「あ、おかえり」


コーヒーを飲みながらセリフを覚えていたのか、台本から目を上げた大介が笑いかけてきた。店内にはバンドマン風の客が四人いて、煙草を吹かしながら笑い転げている。それもいつもの光景だった。 


「ただいま」


栞はスーツケースを壁際に立てかけた。そして、カウンターの椅子に腰掛けた。座った瞬間に疲れがどっと押し寄せたが、それが逆に心地よかった。


栞は店内を改めてゆっくり見渡した。破れかけのソファ、ダイナー風のテーブル、天井のシーリングファン、育ちすぎた観葉植物、客たちの楽しげな様子、大きなスピーカーから流れる昔の音楽……。見慣れた景色が、以前と少しだけ違って見えた。


「店主、死ぬほど不味いコーヒー」


栞はいつもの口調で言った。


「おう」店主が半笑いで応えた。


「チーズケーキはご一緒にいかがですか?」


有希がふざけた口調で栞に聞いた。栞はなぜか嬉しくて泣きそうになった。


それから、満面の笑顔で言った。


「お腹ぺこぺこだよ。チーズケーキ、ホールでちょうだい」






                        


                                                      終わり

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