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鉢植えの木
僕が『離婚』という概念を知ったのは、松谷みよ子さんの児童文学「モモちゃんとアカネちゃん」だった。親戚の叔母さんが、誕生日とかクリスマスに本を贈るのが好きな人だったので、いくつの時か忘れたが、家に届いたのだと思う。
当時から父と母は仲が良くなく、きっといつ離婚してもおかしくないような夫婦だった。僕たち兄弟は小さい頃、諍いが起きるたびに子ども部屋に逃げ込み耳を塞いだ。しかし、不思議なもので聞きたくない物音や声というものは、どうしたって聞こえてしまうものである。ああいう心が潰れてしまうような思いというものは形容のしようがない。ただ、心のまわりが妙に重くなる感じだけは今も忘れられない。
だから叔母は僕にこの本を送ってくれたのだろうか?
彼女に聞いたことはない。
絵本の中で、モモちゃんの両親はどうやら離婚する。とにかく、一緒に暮らすのをやめて離れたようだった。お馴染みのキャラクターの人形も、ものすごく淋しげな表情で、子ども心に「さみしいお話だな…」と思った肌触りは今も忘れない。何十年前の感覚なのに、本の持つ影響力は恐ろしいものだ。子どもの頃から同じ本を何度も繰り返して読む習慣があったせいで、この物語の持つ空気感そのものが刷り込まれてしまったのかも知れない。
今でこそ、離婚している家はいくらでもあるが、高度成長期の東京郊外の住宅地では珍しかった。しかし、なくはなかった。とにかく、シリーズの中でも屈指の、もの寂しい一冊だったと記憶している。この「モモちゃんシリーズ」は記録的に長年続いた。僕はいつしか読者の対象年齢を外れて離れてしまったが、この一冊だけは捨てずにずっと持っていた。そのうち、いつの間にか本棚からなくなってしまったけれど、大人になって改めて買い直したくらいだ。
お話の中で作者は、夫婦(結婚)を「鉢植えに二つの木を一緒に植えること……」に例えている。モモちゃんのパパは「歩く木」ママは「育つ木」。パパは外に何かを探しに出かけ、ママはそれを理解しつつも、根が枯れていく。二人は同じ鉢植えの中で愛を育むことができない。共に生きることができないのだ。ひどく文学的な別れ方で、それがかえって不気味だった。妹のアカネちゃんはまだ生まれたばかりだ。ママはどうやら精神を病みかけている…。
大人は完璧な存在ではなく、父母もまた不完全な存在で、家族がずっと仲良くいることは、なんだかとても難しいことなのだと、子ども心にも伝わってきた。家族のありようが、あるべき形だけではなく、さまざまな形があることを平易な文体で、やさしく奥深く描いていた。
憎しみあうことも、罵りあうことも描かず、ただこれ以上一緒に暮らすことはできないとパパとママは別れる。モモちゃんは理解できない。子どもはすごく弱い立場なので、悲しいけれど受け入れるしかない……その様子が淡々と詩的に書かれていた。
このあたりが、子ども的にすごくシンパシーを感じた。大人の込み入った事情など、子どもにはわからない。わからないことはそのまま受け入れるしかないことを子どもたちに向けてきちんと書いてある。
最後は、モモちゃんたちが別の町に引っ越していく。それがまた切なくもあり、新しい生活への期待でもあり、子ども心に救いになっていたように思う。
結局、うちの両親は、僕が大学を卒業し、働き始めた年に離婚した。間に入ったこともあって、ずいぶん嫌な思いをした。とうに「鉢植え」は割れていたのに無理をして一緒にいただけだったのだ。結局、本と現実は違って、あまり希望のない結末だった。
結婚に不向きなあの両親から生まれた、という自覚は僕に常につきまとっていた。だから……と結びつけていい訳ではないだろうが、僕が若いとき、「結婚」に対して前向きになれなかったのはそういう事情もあった。単に、自信がなかったのだ。両親の離婚がなんとか成立し、母と僕たち兄弟は遠くの県に引っ越した。
当時交際していたYはとてもやさしい人だったので、そんな僕の気持ちを察してくれてか、結論を急がなかった。
新しい生活がようやく落ち着き、しばらくした頃、僕とYはささやかな結婚式を挙げた。
いつの間にか、時が過ぎた。我が家の「鉢植えの二つの木」は、危ない時期もあったが(もちろんまだ安心はできない)おかげさまで、まだ一緒のままだ。
しかしながら、子どもの頃に読んで、何十年経っても鮮明に残っている読後感って、やはりすごい本だと思うのです。