五、退廃する絵画と死せる清廉に寄せて
きっと、それは描かれた通りの絵に過ぎない。
何が正しいのかを彼は知っていて、何をすべきなのかも彼は知っている。
何故なら、筆をとったのは彼自身なのだから。
五、退廃する絵画と死せる清廉に寄せて
煤けた床を彩った赤は、もはや彼が助からないことを突きつけてくる。無慈悲にも、静かに、終わりを告げてくる。
彼の描いた絵は美しかった。完成されていて、どこまでも冷えた鋭い秩序を持っていた。
その正解を拒んだのは、歪なまま進んでいく世界のほうだったのに。
なんて悲しい人だろうか。
賢くて、正しくて、清廉で、それ故に可哀想な貴方。誰も彼の中にあった温もりも情熱も理解しないまま、その美しく冷たい絵だけを見ていた。
「もう、いい」
私の手が触れる前に、彼はそれを制した。震えるような小さな声で放たれた言葉は、しかし、どうしてかはっきりと響く。
私は黙って手を引いた。
届かなかった指が、それでもと抗って、色を変え始めた血溜まりをなぞる。もう、そこに微塵の熱もない。
「これから、どうなってしまうんですか」
縋りつくように、汚れた手を強く握る。
貴方の描いた未来を失った世界は、これからどんな色を塗りたくられ、どんな結論を象るのだろう。
「これから、どうしたらいいんですか」
溺れたように、視界が滲んでいく。
貴方との未来を喪った私は、これからこの筆だけを握って、どんな願いを祈ればいいのだろう。
「早く、行け」
ただ、その力ない真っ白な指先は扉のほうを差した。これが最期の標だ、と。
途方にくれる私を、貴方は慰めるでもなく。まるで引いていた手を離すように、道を照らしていた灯を消すように。
「死ぬ私には、何も、わからない。後は、生きる君が、決めなさい」
示された逃げ道を開きながら、私は大声で泣いた。間違った造形も、どろどろに交ざった色も、検討違いの評論も。流れた涙で、すべて消えてしまえばいいと思いながら。
私には、そんな絵は必要ない。
この瞼には、彼の姿さえあればいい。
途切れた息の中で、穏やかに笑っていた。美しい彼の姿さえ刻まれていればいい。