三、鑑賞者のバラード

狭い部屋の中、向かい合わせに座っている。折り曲げたお互いの膝が接触しそうだ。
二人きりになるのはいつ以来だろうか。この世界の時間の計り方なんて知らないのだけれど、随分久しぶりに感じる。

三、鑑賞者のバラード

私を睨んでいた彼が漸く口を開いたのは、部屋に入ってから――私の感覚で――たっぷり十分経ってからだった。

「お前は多くを知っていた。俺のことも、この先のことも、何もかも……最初、初めて会ったときから」

散々焦らされた後の言葉に思わず鼻で笑ってしまった。もう何度も同じことを言われてきた。それこそ、出会ってから何度も。

「何度言えば解るの、私は全部なんて知らないのよ」

知っているのはほんの少しだけ。それも正しいのか正しくないのか解らない、不確かな情報。
何度目かの同じ返答に、彼のほうは顔を顰めた。納得できない、という顔。

「俺のことは知ってただろ」

不機嫌そうな顔と崩れた口調は、彼が私の前だけで見せる姿だった。昔の名残なのだろう。

「だから、何度も言ってるわ。アンタのことは読んだことあったの」

彼の生い立ちや経験は知っている。“読んだ”ことがあったから。
私は彼の物語を持っていた。私が始めて手に入れたのは、思えば彼の物語だったのだ。それは私の言葉では書かれていなかったから、正しく読解出来ているかはわからない。けれど彼に出会う前に彼のことを知っていたのは事実だった。

「ああ、何度も言ってたな。でも俺が聞きたいのはそこじゃない。お前は何処から、何をしに来たんだ」

長らく――主軸の物語からすれば短いかもしれないが――彼と共にいた。彼にはもう、解っているのだろう。
私がこの世界の理で存在していない、つまりこの世界の者ではないということに。

「解った、少しはちゃんと話しましょう」

思ったより他人に入れ込む男だ、と正直驚いている。
私は、この信じられないような話を彼に打ち明けることにした。どうせ隠すつもりだってなかったのだ。ただ話す必要がないと思っていただけで。

「まず、私は願ったわ。この世界に来たいと思った」

それは小さな夢から始まった。魅力的な物語の世界に行きたいと願う、童話好きの少女と同じ。
私の生きていた世界には、彼らは居なかった。好きになった物語の住人達。私にはどうしても会いたい人がいた。

「“あの人”だろ」
「なんで解ったの?」
「お前、“あの人”と話す前から“あの人”の名前を呼んでたろ」

“あの人”の顔を思い浮かべる。私が愛したその人は主人公ではなかったけれど、とても重要な人だったと思う。
会ってどうしたいだとか、そういうことは考えていなかった。けれど会ってみたい。出来れば同じものを見て、同じ世界に生きたい。そう思った。

「で、色々あって私は元の世界に居なくてよくなったから、神様がこっちに送ってくれたわけ」

元居た世界で犠牲は払ってきた。まさかフィクションではよくある『トリップ』を自分がすることになるとは思わなかった。嗚呼、もう戻れないんだから『転生』のほうが正しいかもしれない。
その言葉の意味を察したらしい彼は、気まずそうに目を泳がせた。

「……それは、残念だったな」
「別にいいのよ、帰れなくても。むしろ望んだ世界に来れたんだから、ただ戻れないよりもよっぽどいい待遇だわ」

“あの人”にも会えたし、とこの世界に来てからのことを思い返す。我ながらうろ覚えの所々抜けたような記憶だけでよくやっている。
そもそも知っているのは僅かで、未知のほうが多い。

「“あの人”に会いに来ただけが目的なのか?」
「まあ、目的を言うならそういうことになるんじゃない?」
「じゃあ、何故……俺のところに来た?何故最初に俺に会った?」

確かに、神様はスタート地点を決めなかった。彼の物語から始めることは、私が決めた。

「アンタに同行したのは……アンタが“あの人”を救ったからよ」

物語の進行上、死にかけてしまう“あの人”を救うヒーローは彼だった。
もちろんそれだけではない。私が彼の物語を持っていたのも理由の一つだろう。他の人物よりは情報が多い彼のほうがいい。
拗ねたような顔で彼が首を捻る。

「それだけか?」
「……そうねぇ、アンタに愛着があったのは認めるわ。同情に似た何かというか……」

彼の過去ならば読んだ。辛い思いをしてきたことも、多くを失ったことも。それで“あの人”を救う結果に繋がったことも。

「おこがましいわ。出来れば救いたいと思ったのかもしれない。馬鹿みたいね」
「……いや、悪い気はしないさ。でもそれなら俺なんかに会わなくとも、お前が“あの人”を救いに行けばよかったろ」
「だからおこがましいって言ったのよ。……出来ないの。やりたくても、出来ないのよ」

私の願いは見事叶って、会いたい人にも会えた。ついでに言えば、私はこの世界で死ぬことはない。けれど私はあくまで見ていることしか出来ないのだ。物語が変わってしまうようなことが出来ない。物語に介入することが、出来ない。

「例えば私が助けなくても生き残る人は生き残るわ。でも私が助けたとしても死ぬ人は死ぬのよ」

“あの人”を助けたところで変わりはない。物語がすすむためには彼が“あの人”を助けることが重要なのだから。

「私はね、鑑賞者なのよ。アンタ達には私が居ても居なくて変わらない、そういう風に出来てるの」
「そんなことは……!俺はお前に会えてよかったと……」
「それはありがたいわね。でもアンタと私が出会ったことは、これからの展開に何ら関係ないわ」

この世界に来たというだけで、私の立場は何一つ変わっていないのだ。物語を手にとって読んでいた、あの頃の私と。

「何をしに来たか聞いたわね。強いて言うなら見届けに来たのよ」

彼が口を開く前に私は立ち上がった。彼が謝罪を吐くことは解る。彼がどんな人物か、読んだ以上に知ってしまったから。
言わせない、これは私の願ったことの結果なのだから。

「私は完結まで見させてもらうわ。アンタが居なくなったとしても」

主軸の物語が終わるまで。おそらくそれが鑑賞者である私の役目だ。

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