野球の在り方

元バスケ部ではある僕だが、もともと野球をしていたためかなり野球は好きなスポーツである。かつてはピッチャーを主にやっていて、内野であれば基本どこでも守れる。外野は絶望的に向いていなかった。

野球は好きなスポーツではあったが、様々な事情がありバスケに転向したわけだ。決して野球が嫌いになって辞めたわけではない。今だって久々にバッセン行きてえってなっているわけである。

しかし野球を取り巻く環境においてはこれでいいのかという疑問点が多く存在する。今回は僕が昨今の野球情勢における違和感を、高校生からは野球の当事者ではない僕の視点から語っていこうと思う。

まあああず絶対にこれから言わせてもらいたいのだが、坊主。
あれだけはどうしても許せないのである。

僕自身も野球部時代は坊主強制の部活だったからやむなく坊主にしたけどすごく嫌だった。なぜ坊主にする必要があるのか全く分からん。

バスケ部の時もまあ坊主制度はあったが、あれはミスをした時の反省の意によって坊主にするわけである。これにはれっきとした理由と意味があるわけだ。

しかし僕のいた頃の野球部は入部=坊主であり、野球するなら坊主確定みたいな感じだった。そして当たり前だが坊主にしたら野球が上手くなるといった相関関係があるわけでもない。無意味である。

高野連をはじめとして野球業界には立派な軍国主義の名残が未だに存在するのだ。はっきり言って邪魔な規則制度機関である。終戦からどれほど経ったのかわからんのか、じじいどもは。

経験者たちならわかると思うが、ユニフォームなんて中高とかになるとほぼ白単色の地味なものになるし、僕の頃はバッティンググローブが白黒単色のみという規則があったりとカジュアルさが足りていないのも、高野連などが時代遅れだと思う一因である。メジャーリーグやプロを見てほしい。選手たちは己の個性を出すためにカラーバリエーション豊かなアイテムを身につけて、ソックスの履き方も選手ごとにこだわって履いてたりしてある種のファッションを楽しみつつプレーしている。選手たちを縛り付けるような規則が、髪型を始め多くあるのだ。

近年では甲子園出場を果たすような強豪チームでも髪型等の自由度は増したのだが、まだまだその数は少なく思える。

次に野球部=清く正しく美しくあらねばならない、他の部活の規範とならねばならないといった謎の暗黙の了解のようなものが存在することだ。

例えばであるが、僕の中学校は野球部に属しているから校庭を掃除しないといけないというルールがあった。自分らが使う範囲のみならず、学校中を掃除して回るという悪しき伝統が残っていた。なぜ我々だけが掃除やら行事ごとやらで苦労して、帰宅部たちはピーヒャラ楽しんでいやがるのか。全くもって理解できない。校舎や校庭の使用、行事の開催は部活に関わらず平等に管理されるべきではないのか。こう思うわけだ。ごめんね愚痴っぽくなって。

つまり野球部はなぜか他の部に比べ雑用にかりだされて勝手に模範だなんだとまつりあげられるのだ。舞鶴でもなんとなくではあるが、似たような感じで野球部はじめ強化部が先生にこき使われていた気がする。

別に清く正しく美しくなくてもいいのではないか。もちろん校則に触れるような行為をしたり生徒を困らせたりしてはいけないが、野球をもっと楽しんでプレーして、青春を謳歌してよいのではないか。何かこう世間からの堅いイメージを押し付けられているようでならぬ。甲子園で勝つということが彼らの全てではないだろう。

最後に、いらぬ根性論がはびこっていることだ。
「声出し」「走り込み」などがそれにあたる。

もちろん上記二つは不要ではない。声出しはプレー中のコミュニケーションにつながるし、走り込みというかランメニューも基礎心肺能力の向上や、ベースランニングであれば適切な盗塁、走塁につながる練習だ。

しかし指導者の多くはこれらを「精神的成長」に繋げてしまう。
声が出ていない=やる気がない、長距離を走る=精神力、根性の強化につながるなんて考えている場合が多い。

はっきり言って、やる気や根性を左右するのは指導者であり、メニューではないのだ。メニューは試合で必要なスキルを磨くためにある。根性やらやる気やらをマネジメントするのは指導者の責任だ。もし精神的成長を期待するならば指導者が選手に適切な声かけを行い、どのスキルが不足しているのかを考えることが優先である。そしてモチベーション管理につなげるのだ。おお、初めて経営学部で学んだことが役立ったなあ。

というわけで、「やる気がないなら走る、声を出す」という無駄な根性論を排除し、その分選手やチームに合った適切なスキルトレーニングを増やしていくべきだと結論付ける。

まとめになるが、冒頭でも言ったように野球が嫌いなわけではない。むしろ大好きでどのように競技人口を増やしていき、その楽しさに触れてもらうのがよいのかを考えた上でこれらの悪しき風習を断ち切るべきだと思ったのだ。

野球はもっとカジュアルであるべきだ。
これが僕の出した野球の在り方である。


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