【読書日記】『ふくろう模様の皿』
『ふくろう模様の皿』アラン・ガーナー(神宮輝夫訳)
もし、と何度か読書を中断し考えてしまった。もし、わたしがウェールズの神話や伝説に詳しければこの『ふくろう模様の皿』はまた違った物語として見えてくるのだろうか。おそらくはそうなのだろう。でもいまは、いまのわたしが読んで感じたことを書き記しておこうと思う。きっとこの先この本は何度も読むことになるのだろうし、そのたび新たな発見があるに違いないのだから。ほんとうに、この魅力をなんと伝えたものかうまく言葉が出てこないのだけれど、花の香りや雨の温度、濡れた土の匂いに囲まれるなんともうつくしい一冊だった。
そんなわけでとりつかれたように読んでしまった『ふくろう模様の皿』について。
これはそもそも児童文学と分類される。児童文学といっても対象としている年齢は作品ごとに様々だから驚くことではないのかもしれないが、わたしがいわゆる児童文学と呼ばれる本ばかり読んでいた頃にこの本と出逢っていたら、おそらく最後まで読むことも物語を理解することもできなかったはずだ。
ということを言い始めると、でもハリー・ポッターのシリーズだって途中から児童文学なのだろうかと思うような話も入ってきちゃうものね。でもあれはハリーが成長するにつれ知っていることやできることが増えるという点で、登場人物と共に年齢を重ねているというか、だから内容がより複雑になっていくのも当然というか。
児童文学という分類がわたしはいまだにうまくできない。というよりそもそもなにかを分類するということが苦手なのだろう。自分の中に自分だけのルールを設けることはできるのだけれど、それを他人と共有するのは得意ではないしそもそもしたくもないのである。
というわけで一般的な児童向けかどうかではなく、当時の、いわゆる子供だったわたしに関して言えば神話や伝説といったものに疎かった。昔話の類は大好きだったし、ギリシャ神話のような王道(という表現が正しいのかはわからないが、とにかく手に入りやすい本だと思ってください)には触れてきたけれど、そもそもウェールズを知ったのは中学生か高校生くらいだったと思う。新聞で偶然みかけたヘイ・オン・ワイ。あれからずっと憧れてはいるのに、なんとスペインにいたときもポルトガルにいたときも足を向けなかった。もっと言えば遠くへ行こうとしなかったというなんとも怠け者である。
それが原因というわけではないがいまもウェールズの神話や伝説に興味はあるもののとくべつ詳しくはない。それと並行して英米文学にそもそも疎い自覚がある。なにせ人生の半分以上、読書は日本語とスペイン語で行っているので読むものが日本のものかスペイン語圏のものに偏りがちなのだ。だからこそ英米文学、とくに英国のものに触れると実感することがあるのだった。
ページを開くと濡れた土の匂いがする。
スペイン語圏の本のなかでもとりわけラテンアメリカ文学は趣味としても仕事としても読むことが多いのだけれど、その世界では乾いた風が吹き、砂のざらざらとした感触を覚えることが多い。そして照り付ける日差しや合理的には説明することのできない不思議な力、ほとんどの人に深く根差した孤独を感じることが珍しくはないのだけれど、たとえば『ふくろう模様の皿』を読んでいる間わたしが感じていたのは花の香りであり、雨の温度であり、濡れた土の匂いだった。つまりは、言葉でつくり上げられた世界があまりにも世界そのものとして自分に迫ってくるのである。
おそらく、翻訳の力も大きい。ひっそりとではあるが文芸翻訳を行う人間として(ただわたしの場合は英語ではなくスペイン語とポルトガル語になるのでそもそも言葉の持つリズムや手触りはまったく違うのだけれど、いまは訳すという行為においての話)『ふくろう模様の皿』のような作品をまったく異なる文化背景を持つ言語へ訳すということの難しさやそのすばらしさを無視できない。
だって、とてもうつくしい世界が伝わってくる。
たとえばロジャが川で泳いでいる場面。彼は岸にあがると咲き乱れるメドウスウィートの中に横たわりその花を日よけにする。花の隙間から見える空とふりそそぐまぶしい光。めまいがするほどにうつくしくくらくらしてしまった。花を日よけにするロジャ!
そのロジャの、生意気で自分の無力さを受け入れられない幼さを知ると、それでも彼にはメドウスウィートを日よけにする詩的な部分があるという、その序盤の場面を思い出し苦しくなった。グウィンがかしこい子であるのはもちろんなのだけれど、わたしはロジャの、まだなにも知らないからこそ無敵だというあの脆さがたまらなく好きだ。アリスンに関しては物語というものに触れているとよく出会う女の子の面影ばかりわたしは見てしまったが、しかしこれは三人の物語である。三人のだれひとり欠けてはいけないという点で、アリスンもまた重要な人物なのだろう。すくなくともグウィンにとって。
ただそれを思うと『ふくろう模様の皿』の魅力はやはり三人という存在なのではなく、その根底に神話や伝説があることなのだと改めて実感する。もしもこれが三人の関係だけに焦点を当て、身分や住む世界やアイデンティティというものを問う物語になっていたら、きっとあまりにもメロドラマ的な性質になっていたのではないだろうか。
それにしても物語の舞台となった山や谷の、なんとうつくしいこと!
そしてその、自然の大きさと力強さ。なにより終盤に降りしきる雨の、絶対的な存在感。加速してゆく物語の最後に待っているエニシダ、メドウスウィート、カシの花。個人的には最後の場面を読めただけで胸がいっぱいになってしまった。だってこんなにもうつくしい花々に埋もれられるのならこれ以上なにも描写しなくていいのではないかと思ってしまったもの。
あまりにも翻訳がすてきだったものだから、これは原作も読まなければと、一読者としてではなく翻訳をする者としてもとくべつな一冊となった。
何度でも、読み返したい。何度でも読み返しもっともっとあの谷や山や川のことを知り、その土地に出かけて歩きまわりたい。そうしてもっと近くから改めて『ふくろう模様の皿』という物語を抱きしめられたらと思う。