クリスチャンとしてLGBTQをどう捉えるべきか
はじめに
このテーマについては前々から書きたいと思っていた。ただ本当にこれは繊細な問題で、人によっては傷ついてしまう問題でもあるから、すごく言葉に知恵が必要だなと思う。
私は仕事が特殊なこともあり、LGBTQの当事者が比較的身の回りに溢れている方だと思う。彼らと関わりを深く持てば持つほど、彼らがこれまで生きてきた過程の中でどれほどの紆余曲折があったかに思いを馳せる。
しかし何よりも大切なことは、すべての人間は天地万物の創造主が愛を持って創造され、イエスキリストはその罪のために死んでくださったということであるということを覚えたい。
そもそもLGBTQとは
頭文字を取ったそれぞれの語彙についてはわりと世の中で広く認知されてきた気がするが、まだ「さまざまな性別を表す言葉」と認識している人が多いのではないだろうか。しかしこれはシンプルな文章では説明できない言葉である。
LGBTQとは、下記の略称である。
L=レズビアン(女性同性愛者)
G=ゲイ(男性同性愛者)
B=バイセクシュアル(両性愛者)
T=トランスジェンダー(性自認が出生時に割り当てられた性別とは異なる人)
Q=クエスチョニング(自らの性のあり方について特定の枠に属さない人、わからない人)
実はLGBTQという言葉には2つの考え方が混在している。
1つは性自認、そしてもうひとつは性的指向だ。
性自認とは「自分の性別を何と思っているか」「自分の性別を何と表現したいか」である。
そして性的指向とは「自分がどの性別を好きになるか」である。
例えば私は自分を「女性」だと認識していて、「男性」が恋愛対象なので、
私の性自認は「女性」、性的指向は「男性」である。
L、G、Bの3つは「性的指向」を表す言葉であり、T、Qの2つは「性自認」を表す言葉である。
つまり、TでありLである(トランスジェンダーのレズビアン)という人も存在する。
LGBTQに対する見解を述べるには、まずはこれらの語彙の違いを理解することが最低限必要なことである。
前提として知っておくべき認識
●法律上の性別は「男」と「女」である
法律上の性別は「男」と「女」である。
これは、聖書どうこうではなく基本的にどこの国でもそう定められているのだ。
少なくとも日本ではこの2つの性別が法的に認められており、日本においてはその性別を定める根拠は、本人の有している生殖機能である。
そのため、日本国内で性別を変えたい場合は必ず元の生殖機能を摘出する必要がある。
しかしもちろん生殖機能の摘出の有無に関わらず性自認を生まれた時とは違う性別で名乗る人も存在する。法律上の性別と性自認は同じとは限らないからだ。
また、見た目が男性っぽいや女性っぽいに関わらず、あくまでも法律上の性別は生殖機能に基づいている。
●「性表現」は性別や性的指向と直接的に結びつかない
性表現とは「性別をどう振る舞うか」である。
もっともわかりやすいのは一人称だろう。
「僕」と言えば男性らしい印象があるが、女性でもそれを一人称としている人がいる。しかしそうだからと言って、その人が男性になりたいということや同性が好きであるということには直接的に結び付かない。もちろんそういう人もいるだろうが、それはイコールではない。
その他だとメイクやファッションもわかりやすい表現である。近年はキラキラのかわいいメイクをする男性が増えたが、だからと言って彼らが女性になりたいということにはならないし、どの性別を好きになるかを決めるものでもない。
ピンク色やかわいいものが好きな男性、戦隊ヒーローが好きな女性もまた、これらはただの嗜好にすぎず、彼らの何かを特定するものではない。
スカートを履きたい男性もいれば、催事であってもスカートを履きたくないという女性もいる。
人がどんな見た目であるかや何を好きかを、性別の問題と混在させてはいけない。
これらは性別や性的指向とは別の問題であり、いち個人の表現方法である。
●身体構造が特殊なために性別が不特定な人が存在する
数千人に1人ほどの割合で存在する彼らは「性分化疾患」という、生まれつきの体がどちらの性別かに統一されていないか、または判別しにくい。
古くは「両性具有」や「IS(インターセクシャル)」とも呼ばれる。
症状は千差万別だが、つまりは体内に存在する生殖機能や、外に見える生殖機能になんらかの障がいをもって生まれてきたということであり、
彼らの「法律上の性別」を決定することは非常に難しい。本来であれば生後14日以内に性別の提出が必要なところ、性文化疾患の診断書があればその後も柔軟に変更ができるなどの制度がある。
しかしその決定には慎重さが必要である。
外に症状が見えている場合は診断されやすいが、症状が体内のみの場合、結婚してから不妊で悩み、検査して初めて気づくようなケースもある。
また、性自認が男性寄りだったり、女性寄りだったり、中間だったり、あるいは男性寄りと女性寄りが時期によってゆらいだりすることがあるが、
これは本人の意思ではなく、体内でつくられるホルモンの量が不安定であるために起こるものである。
聖書はなんと語っているか
抑えたいポイントは大きく分けて3点。
①神は人を「男」と「女」に創造された。
ここでいう男と女は、生まれ持った体の性別である。そして神はこのあとの28節にて、「生めよ。増えよ。」と命じられる。私たち人間は明確に男と女に創造され、そしてこの2つの性別間でのみ子どもを生むことができるようにつくられたのだ。
②聖書は同性愛を罪としている
聖書では複数の箇所で同性愛を罪としている。
また、男と女を「自然な関係」とし、同性同士は「不自然な関係」であり、その誤りには報いが必要であると語っている。
③すべての人は罪人である
同性愛が罪だからといって、そうでない人たちが罪人ではないということにはならない。
神の目にはどの罪もすべて罪には変わりなく、それらを犯さない人間は存在しない。人を殺すこと、盗みを働くこと、嘘をつくこと、これらも同じ罪であり、そこに同性愛との違いはない。
そして、すべての人のためにイエスキリストは死んでくださったのだ。
聖書を踏まえた個人的な見解
冒頭で述べたように、私の周りには多くのLGBTQ当事者がいる。トランスジェンダーの方にだけはまだ会ったことがないが、それ以外は全員網羅したはずだ。
彼らと仲良くなり、話を聞くと、不遇な環境の中で育った人があまりにも多いと感じる。
大学生の頃に1番仲の良かった女友達がある時、レズビアンであるということをカミングアウトしてくれた。
嬉しいと思った。私はそれまであまり友人が多い方ではなかったし、彼女はそんな大切なことを伝えてくれるほどに私を信頼してくれたのだと。
しかし正直なところ、怖さもあった。むしろそれがまず抱いた感想だった。
私は彼女を友人として好きだが、彼女がもし私を恋愛的に好きになってしまったらどうしようと。
はじめて身の回りの人からそういう話を聞いた私はなんと答えればいいのかわからなかったというのが本音だ。
しばらくしてから知ったことだが、彼女は実母が実父からDVに遭っているのを日々目の当たりにして幼少期を過ごしてきたということだった。
そして両親は別居し、彼女は母親と暮らすようになったが、その後も母親は恋人をつくっては別れることを繰り返し、すでに大学生だった彼女の苗字が大学在学中に変わったこともあった。
彼女はもっとも安心できる異性であるはずの父親に恐怖を抱いて来たのだと思うと、彼女の身の上を憐れまずにはいられなかった。
私が彼女と同じ境遇で育ったとして、それでも彼女と同じように同性に安心感を求めるようにならないという可能性は決して0ではないと思った。
同性愛は罪である。
しかしだからと言って彼女の根本的な原因を言及することは私にはできなかった。第一何をすればいいのかわからない。仮にそれができても短期的には彼女を悲しませることであり、安易にそれを行うことは彼女との友人関係を破綻しかねない行動である。また、それを言及したからと言ってその先に彼女が幸せを獲得できると断言することは、その時点での私にはできなかった。
私には彼女の根本原因を慰めることはできないし、ただ彼女を友人として愛することが私のできる精一杯だった。
結局のところ、彼女のすべてを癒せるのは主ご自身だけである。
もちろん環境やトラウマによるものだけでなく、生まれつきそのような性質を持っている人もいるだろう。
そして、クリスチャンの中にも少なからずそれで悩んでいる人たちがいることだろう。それが罪であると聖書で語られているがゆえに彼らは特に苦しい思いをしているということは想像するに難くない。
私たちには彼らを裁く資格などない。
私たちも彼らと同じくただの罪人にすぎず、同様にキリストはその命を捨てられたのだから。
そして、人がどんな罪を犯そうがそれによって救いが無効となることはなく、イエスを自分の主とすると告白したすべての人が救われるということ
これは絶対的である。
以上のことをよく踏まえた上で、私たちは彼らをその性質とは別として、友人として愛することができると思う。
友人からカミングアウトされたら、それはとても素晴らしいことだ。友人との信頼関係を主に感謝したい。
だが罪を許容することになってはいけない。それらは同性愛に限ったものでもない。
ただし私たちが憎むべきは罪そのものであり、彼ら自身ではない。
そして彼らのためにできる1番大きなことは、彼らの救いのために祈ることではないだろうか。
私は罪を赦されたひとりの人間に過ぎず、彼らもまた主に赦されたひとりの人間で、
私たちは同じように主に愛されているのだから、ともに愛し合えるようでありたい。