病気もひとつの罪であるというお話
小グループでの聖書勉強会でレビ記について学んでいる。…すごくむずかしい!
レビ記13章〜14章ではツァラアトに冒された時の対応について書かれているが、正直私は「ちょっと厳しすぎじゃない…?」と思ってしまった。
ツァラアトに冒されたらもう一生友だちとも家族とも切り離された生活なんて悲しすぎる…
でもこの箇所は「罪」を象徴していると言えると思う。
「罪」の原語は「ハマルティア」=「的外れ」であり、神様という完全無欠と相反するものはすべて罪であるので、この世の神様のご性質ではないものすべては「罪」である。
痛みを伴うもの、不幸をともなうもの、やがて死をともなうもの、これらすべては神様と相反する性質である。
間違いなくこれらは的外れ、つまり、罪である。
そして罪というのは人から人へ増え広がっていく。まさにツァラアト。
絶対的に非感染と感染は分ける必要があり、それらを象徴的に記すためだったのだろう。
しかし私たちは今やそうする必要はなくなった。
「お心一つで」と言ったのにも関わらず、手を伸ばして触れてくださったイエス様。
決してそんなことする必要はなかったのにあえてそうしてくださったこと。
触れると病がうつるとされて隔離されてきた彼はこの行為にどれほど感動したのだろう。
人に触れてもらったのは何年振りだっただろうか。肌と肌のふれあいの温かさは病より何より彼の心をとかすものだったんじゃないだろうか。
「罪」は伝染するかもしれない。
でもそれを上回る「主の清さ」もまた、伝染するのだということを私たちは忘れがちなんじゃないだろうか。
全世界の支配者である神様は、サタンという地上だけの支配者よりはるかに偉大なのだから。
この時代、ツァラアトは治らない病とされていたらしい。だから「祭司に見せなさい」というのは、誰もそれをしたことがなかったためにとてつもなく効力があったはずである。
罪を清められるのは主ただおひとりなんだという恵みを再確認させられた学びでした。
はなよめ
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