見出し画像

ノンクリスチャンとの恋愛について

はじめに

特にクリスチャンホームで育った場合はこれに悩んだ経験がほぼ100%あると思う。結論から言おう。私はノンクリスチャンとの恋愛について賛成派である。ただし異論は認める。
私自身はすでに同じ教会のクリスチャンと結婚しており、それも年齢的には早めの段階で結婚した。しかし結婚に至るまでのノンクリスチャンとの恋愛は、交際にまで発展したものを数えると1人や2人ではない。それを正当化するわけではないが、自身の結婚や周りの結婚したクリスチャンを見たり教会内で語られるメッセージや学びを反芻した時に、総じてノンクリスチャンとの恋愛はやっておいてよかったことであると思う。これは必ずしもそうすべきと言うような絶対的なものではなく、やはり根底にはしなくて済むならしない方がいいという複雑な気持ちである。つまり、ほとんどのクリスチャンにとって、しなくて済むものではないからした方がいいのではないかというのが、現在の私の結論である。

聖書はなんと語っているか

これが何よりの最重要項目なのでまず一番に触れることとする。
が、すでにこのnoteに辿り着いている人のほとんどがわかっていることだろう。聖書には恋愛に言及する箇所が存在しない。だからこそこうしてnoteを読んでいるのではないだろうか。

念のため、ノンクリスチャンとの「結婚」の場合によく用いられる箇所を紹介する。

"不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。"
コリント人への手紙 第二 6章14節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

「くびき」とは牛などの動物を2頭あわせる器具のことである。

くびき(Wikipedia)

くびきを装着する、つまり牛馬と荷台を結合する、結びつけるというところから、転じてこれをノンクリスチャンと結婚をしてはいけないというメッセージに使われることがある。
これについても気になるところはあるが、今回はトピックちがいなので一旦さておき、
ともかくこれは恋愛を指しているわけではない。恋愛は相手の責任を負う必要も生涯をともにする約束でもないからである。
もし教会で誰かにノンクリスチャンとの恋愛はよくないと言われたらそれこそ不信仰である。
聖書で命じられていないことで人が勝手に教理を決めてはいけないからだ。守るべきことは聖書に何を書かれているかであり、その他のことはそれぞれが祈って考える。それに対して他人があれこれ言ってはいけないのだ。

しかしクリスチャンの先輩方がそれでも口を酸っぱく恋愛について否定はしないもののやめておいた方がいいというようなことを言うのは恋愛では罪を犯す危険が多く待っているからである。そのうちのひとつが「肉体的接触」である。

"姦淫してはならない。"
出エジプト記 20章14節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

「姦淫」というワードひとつが婚前交渉を指すわけではないが、結婚というもの自体が神様によって定められたものであり、これがれっきとした罪であるということは聖書で明言されている。

好きになった相手の体を求めることはとても自然なことで、それは心が求めるというよりはもはや本能である。三大欲求とも言われるように、性欲は食欲や睡眠欲と同じく、本能的に欲してしまうものである。おなかがすいたら我慢できないのと同じなのだ。しかも自分だけはなんとか抗えても、相手はノンクリスチャンなのだから、これまでの他の誘惑よりも強い誘惑になるということは十分に心得ておく必要がある。

私自身の恋愛遍歴

これについては詳細に語ることを憚られる内容だ。あまりにも罪にまみれ、どす黒く汚い記憶である。唯一夫にだけは結婚前に話したが、特にクリスチャンには話せないような話である。しかしこの経験が誰かのなぐさめになるのであれば私は勇気を出してここに書こうと思う。

交際経験は5人…だと思う。
「だと思う」というのはつまり曖昧な関係であった人がそれなりにいるということでもある。

高校1年生の春、はじめて交際した人と手を繋いだ。それが私にとってはじめての異性とのスキンシップだった。クリスチャンでありながらノンクリスチャンと交際をするということに悩み、交際開始前に自身がクリスチャンであること、性交渉はできないということを手紙に書いて伝えた。私の意思を受け入れてくれ、その後交際は順調に進むかと思いきや、お互いの気持ちのすれ違いがあり、若かったことも相まって1ヶ月でお別れすることとなった。

高校1年生の秋、2人目の人とお付き合いをはじめた。この人との交際が私の中では良くも悪くももっとも大きな思い出である。
前回と同様に自身がクリスチャンであることと性交渉ができないということを伝えたところ、彼は開口一番こう言ったのだ。
「え!そしたら結婚するまで俺は童貞ってこと?」
一瞬強い衝撃と混乱を受けた。情報量が多かったのだ。結婚まで考えてくれる彼に対して嬉しいと思う気持ちと、何より一番最初に出てくるリアクションが自身が性交渉ができないことに関しての言及であったことが悲しかった。しかし彼を好きな気持ちでその違和感にフタをしたのだ。私はまだ16歳だった。恋愛への憧れがその違和感をないものにしようとした。
交際して3日でキスをした。その時点でもまたもや違和感があった。そんな大切な行為をすぐにしてしまっていいものかと。彼はいつでも私に言うのだ。「どこまでならいいの?」
どこまでって…そんなことは私がいちばん知りたい。私自身もわからない上に体はそれを望んでしまうのだから、その先に進むのはとても簡単なことだった。
その後、性交渉はしないもののずるずるといろいろなことをした。いわゆる「本番行為」以外のことは全部したと思う。
そのたびに私の心は泣いていた。神様に背く自分、従えない自分、しかしそれを誰にも相談できない辛さ、もちろん彼にはまったくもってわかってもらえない辛さである。
結局その彼とは丸2年交際した。2年経ったとき、私はようやく別れを切り出す決意をした。

高校卒業間近の頃、私はまた1人の人と出会った。それは部活関係で知り合った他校の同級生だった。
ノンクリスチャンと交際することに傷ついた私は、彼には自身がクリスチャンであることを伝えた上で「交際はしない」という話をした。しかしあとから振り返ってみればあれは交際していると同義であったと思う。
その彼がこれまでの2人と違ったのは、彼が教会に行きたいと言ってくれたことである。彼はおよそ半年にわたって、ほぼ毎週教会に来ていた。教会の他の兄弟姉妹とも仲が良く、聖書を自分で購入し、聖書理解についても積極的だった。それぞれが別々の大学に入学し、しばらく立ってから彼は忙しさを理由にあまり教会に来なくなった。そしてその本当の理由が明らかになった。
彼は浮気をしていたのだ。
彼と同じ大学の女の子だった。
いや、浮気と言っていいものかどうかも怪しい。なぜなら私たちは交際していないテイなのだから。しかし私はとてつもなく悲しかったのだ。交際があったかなかったではない。これはれっきとした裏切り行為だった。今度こそ同じ神様を信じる人とお付き合いができると思っていたし、私が何を信じて生きているのかを前向きに理解しようとしてくれていると心底信じていたからだ。

ここからの数年間の恋愛は私自身とても記憶が曖昧である。この間にお付き合いをした人がいて、実はその人はバプテスマを受けてクリスチャンになった。しかし私の傷は癒え切らず、結果その人にはひどいことをしてしまった。いわゆる「蛙化現象」というものをたびたび引き起こしていた。好きになった人からの矢印が完全に私に向き、その好意があきらかになると、とたんに私はその相手を見るもおぞましいものであるかのような気持ちになってしまう。今思えばあれは私の心の防衛本能だったのだと思う。誰かに好きになられるのがこわい。その先には裏切りがあるのだからと思うようになってしまっていた。ちなみにこの人は今はもう教会を離れてしまった。

大学を卒業し、次は仕事関係で出会った人と交際することになった。
蛙化現象を引き起こしまくりだった私だが、久しぶりにそうではない相手と出会ったことがこの交際の大きなきっかけだった。なんというか、距離感を常に一定に保っている人だった。常にこちらからのアクションが必要なタイプで、私が嫌がることをしない人だった。そうか今までの人は私の心の準備が整う前のアクションが多かったから複雑な気持ちになることがあったんだという自己理解に繋がった時だった。
しかしそれはそれでまた別の問題があった。愛を感じないというものだった。言葉でも行動でも、彼が私を愛しているという気持ちが全然見えなかったのだ。この時実はすでに気がついていたのだと思う。私がこれまで何度失敗しても恋愛を求めるのは、私が愛を全然知らないからなのだと。思えば親からも愛されていないと思って育ち、友だちは少なく、学生時代はいじめられた経験が多かった。その根底にあるのは神様の愛を理解していないからであるということに気がつくのはもう少し先のことである。
結局1年交際してお別れしたが、彼に対してはとても感謝をしている。傷ついていた私が人を好きになることができるようになったのは彼のおかげであることには間違いない。

そのあとはと言うと、ここからが一番おぞましい記憶である。
恋愛なんてろくなことがないと悟ってしまった私は、とっかえひっかえいろんな男性と遊ぶことを覚えるようになった。自分を知りたいと思ってくれる存在も、自分に愛を与えてくれる存在もいないのだから、そんなものを最初から求めなければいいのだと思うようになった。
その大半はいわゆる体の関係だった。私にとってはそれは食事と同じだった。感覚的には栄養食品を食べているような気分である。そこに楽しみや美味しさなどはなく、ただただ本能を満たすためだけの行為だった。それでもなんとか理性を保って一線を越えることだけは耐えられたのは、今となっては本当に神様の憐れみであったと思わざるを得ない。
私はとても渇いていた。愛に飢えていたのだ。
体の関係がほしかったわけではなかった。誰でもいいから誰か私を愛してほしかった。ただ誰かに一緒にいてほしいだけだったのに、相手はそれ以上を望むからそれに応えたというだけなのだ。それを喜ぶ人がいるならできることを提供してあげたい。そうしたら私は愛されるだろうか。そんな考えで毎日を生きていた。

これが私の恋愛の歴史である。

今悩んでいる方々へ

今恋愛をしている人、ノンクリスチャンとの交際中の人、私がかつてそうだったように多くの葛藤の中で日々過ごしていることでしょう。
今もし過去の自分に会えるならこう言いたい。 

「誰でもいいから先輩クリスチャンに相談しなさい」と。

それを共有している先輩のクリスチャンがいることは、少なからず自分のストッパーになるはずだ。相手との出来事、もちろんデートなどの楽しいことも話して構わない。できるだけ恋愛の話をライトに語り合える先輩クリスチャンを見つけよう。
できれば既婚で同性のクリスチャンが望ましい。
もし交際中の相手がクリスチャンについて興味を持ってくれるようになったらこれ以上ないことである。ぜひその先輩クリスチャン夫婦と一緒に4人で交わってもらうことをおすすめする。交際相手が自分以外のクリスチャンとの交わりを持つことはとても前向きで明るい伝道だ。

しかしそうも簡単にいかないことはよく理解している。教会という場所では恋愛の話はタブー視されていることが多い。ましてや私が学生の頃は、先輩クリスチャンはみんなクリスチャン1世だった。よく考えてみれば彼らにはこれらの葛藤の経験がないのだから、共感できるはずがないのだ。

しかし、誰かを好きになるという気持ちは他の誰でもない神様が創造された素晴らしいものである。それをタブー視するのはなんとも悲しいことだ。恋愛によって起こり得る罪と恋愛そのものを混同してはいけない

婚前交渉が罪なのであって、男女交際することが罪なわけではない。確かに交際によって誘惑は増えるし罪を犯す危険は圧倒的に増えるだろう。しかし神様が与えてくれた「人を好きになる心」はとても麗しいものである。誰かを好きになったら、その気持ちを与えてくれた主に感謝しよう。

多くの2世クリスチャンは多かれ少なかれ私のような経験をしていると思う。もちろんその内容の濃さはまちまちだろうが、少なくともそれについて悩まずに大人になった人はほとんどいないと言える。1世にほど近いところで育った2世であればあるほど、恋愛の悩みを打ち明けられずに苦労した人は多いだろう。そして悲しいことに、そのまま教会を離れてしまったクリスチャンの友だちは数知れない。私はただただ神様のあわれみと恵みに預かっただけの者なのだ。

同じ教会の後輩たちから、恋愛相談を受けたら喜んで相談に乗るのに!と心から思う。もしこれを読んでいる人でどこにも相談のできないという人がいれば私にコメントしてもらうのでももちろん大歓迎だ。
私が誰かの助けを求めていたように、今もなお助けを求めているあの頃の私のような人たちがいるなら、私は神様と一緒に大きなハグをしたい。

ノンクリスチャンとの恋愛の是非

私は恋愛に関してかなりいろいろな経験をしてきた。そのすべてが良かったとは思わないし、もちろんしなくていい経験もあったと思う。というか、できればせずに大人になりたかったと思うくらいである。

しかし私はこうも思う。
恋愛とは結婚の練習である。

前述したように、教会では恋愛についてはタブー視されていることが多い。それなのに結婚についてはやたらと学ばれ、結婚は神様が与えた素晴らしい契約であると語られる。なんともチグハグである。恋愛は推奨されないのに結婚は大推奨されているのだ。
お見合いや紹介で結婚していた時代はそれでよかったのかもしれない。クリスチャンであるかどうかに関わらず世間的にもそういう風潮であったはずだ。事実、私の夫の両親も紹介で結婚したと聞いた。

そうした結果

衝突した際の乗り越え方を知らない
きちんと話し合いができない
本音を打ち明けられない

このような夫婦が多いこともまた事実である。

そもそも、恋愛経験での失敗を何度か経てから理想的な配偶者を選ぶ、というのが一般的な考え方である。自分が恋愛をした際にどういう欠点があるかであったり、相手と分かりあうためにどんな改善をした方がいいのかと試行錯誤を繰り返して学ぶ。そして、最終的にはその相手と自分の性格的な相性が合うのかを吟味し、難しいと判断すればお別れすることだってある。そうしてそれを踏まえて次のパートナーを探す。それが恋愛である。

それなのに「クリスチャンだから」「これは導きだから」と、いきなり結婚してうまくいく夫婦が一体何組いるのだろうか。

2世クリスチャンのカップルによくあるパターンとして、お互いの教会内での紹介をきっかけに、お互いに恋愛経験がほとんどなく、その上、交際期間をほとんど取らないままに結婚するというパターンが数多く存在する。
私たち夫婦の場合、私はもちろんだが夫もノンクリスチャンとの恋愛を少なからず経ていたというところが、私たちが交際開始してから結婚して今に至るおよそ2年の間に特に大きな喧嘩もなく、すれ違いのたびに話し合いで解決することができてきたということのひとつの理由になり得ると思う。自慢ではないが、最近周りの夫婦からよく相談をされることのひとつが「2人は喧嘩しないの?」なのだが、正確には喧嘩しないわけではなくお互いにその解決方法を知っているというのが近しい。

もちろん、できればクリスチャンとの交際でお互いをよく知ることができるのが理想的である。
しかしながら国内のクリスチャン人口は1%未満であり、クリスチャンとだけ交際できるのであればそれはラッキー中のラッキー。それができるに越したことはないがそうも言ってられないのが現実である。そうこうしている間に年齢を重ねていき、年齢が上がれば上がるほど純粋に恋愛を楽しむというよりは結婚への強い意志ばかりが前のめりになってしまう、というのはクリスチャンであるなしに関わらず人の常である。若いうちに経験しておくことは早期の結婚相手選びの判断材料となるだろう。

誤解のないように言っておくが、相手がクリスチャンであれノンクリスチャンであれ、はじめての交際相手と結婚できるならそれは素晴らしいことだと思う。むしろそれを目指して交際すべきである。しかしはじめての交際時はまだ異性のことをよく知らない状態だ。そんな状態で自分の生涯のパートナーを適切に選ぶことができるのかと言われると、ほとんどの人にとってそれは難題だろう。何度も言うがクリスチャンであろうがノンクリスチャンであろうがそれに変わりはない。だからこそ私たちはみこころを求めて祈りながらパートナーを探すべきである。

恋愛とはいわば擬似結婚だ。

パートナーと意見が合わない時、どのように解決するか。そもそも性別が違えばどのように考え方が異なるのか。異性に対して何をすれば喜んでもらえるのか。
そうすると、ますます性交渉などは安易な行動であるということがわかる。
きちんと話し合うことができる状態になっていないまま、体の関係を持ってしまうと、まるで相手を深く知ったかのような錯覚に陥ってしまう。
そんな空っぽの状態よりももっと大切なことはたくさんある。他の人には言いたくないことすらも言えるような絆を築く必要があるからだ。

ひとりの人とそれほどの関係を築くことはとても労力が必要なことである。
それは同性の友人に対してももちろん必要なことだが、こと恋愛の場合、よりそれが早く、そして深く、知り得る関係になることができる。

多くの2世クリスチャンが適切な恋愛を通して、素晴らしいパートナーと巡り合うことができますように。


いいなと思ったら応援しよう!