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かっこいいことばをつかわない

気を抜くと、うまいことばを使いたくなる。もっとやわらかく、もっと当たり障りなく、まとまった文章を書きたくなる。

「かっこいいことば」を辞めようと努力している。

なかなか、こうしてnote.を更新することもなくなった。昔は出し惜しみなく、それがどんなに拙かろうがどうでもいい独り言であろうが書いていた。まっすぐな分、時に誰かに傷をつけたかもしれないが、いまだに響いてくれている人がいる。最近どこかで出している自分の文章よりずっとださいので恥ずかしい限りだが、自分の文章をほめられると嬉しい。そして昔のように書けないことが悔しい。なぜだろうと考えていた。きっと、昔のように素直にかけばいいだけなのだ。

誰かに見られる文章、というのはどうしても飾り気をもって世に出ていく。文章をつくる、ことばを生み出す、という能動的な作業は時に自分を言語化能力をたかめ、より多くの人に自分のことを知ってもらう武器になるが、その反面、本当の自分がどれなのかわからなくなる。そんな文章は周りのSNSにたくさん溢れている。

私たちはもっと、ふつうの、誰もが知る言語を乱用していいと思う。かっこいいことばを発さなくてもいい。むずかしいことばを作らなくてもいいのだ。美味しいものを目の前に、それをどう表現しようかと考えている間に食事が冷めてしまう。いま目の前にいる人と過ごせる場はことばにしない間にどんどん過ぎ去っていく。あなたが好きだ大切だと伝える前にあなたはここからいなくなってしまう。何度だって「美味しい」のひとことを繰り返しながら味わうだけでその場にはことばは足りている。「今が楽しい」、「今日が嬉しい」、それだけでもことばは発せるし目の前の人に伝わる。

ああ、今が大切だ。とつよくおもう瞬間がある。その瞬間は、思いが溢れ重なりすぎてことばにならない。私はそんな時、すぐに泣いてしまう。でもここで巧みなことばを生み出す必要はやはりない。分析もその瞬間には要らない。私は、目の前をみつめて、泣いている、それだけでいい。

失うのが一番怖いのは、言語化能力や作詩能力ではなく、今目の前の瞬間だ。ここにあるものを、大切なものを見損なうことだ。文章はあとでいいのだ。よく見ること、みつめること。言葉を吟味せずかんたんなものを用いてその瞬間伝え合うことを逃さないこと。場を味わって、後で吟味したことばで保存すること。その過程を、書き手はアマだろうがプロだろうが忘れてはならない。


〇〇はこうにちがいない!△△はこの食べ方に限る!といった断定的なことばが好きだ。この時代において、「一概には言えないが」や「あくまで個人の...だが」や「こんなこというと怒られそうだが」みたいな枕詞を排除して、自分が否定されることを恐れていない自信のあることば。人を傷つけるのはもってのほかだが、それ以外でまちがったことを発したって別にいいのだ。世界の全員にとって正しい言葉なんて存在しない。なにがすきだ。なにが嫌いだ。世の中にカレーライスより美味しい食べ物はない。海には人に元気を漲らせるつよいエネルギーがあるにちがいない。ご飯中はスマホは触らない方が楽しいに決まっている。私は間違っていたとしてもそんなことばを使いたい。

いま、結婚式にむけて、たくさんの手紙を書いている。
家族も友人も、これからを一緒に歩む旦那さんにも。巧みな言葉は小説を読んでから取り組みはじめれば一発だが、敢えてなにもない自分のあたまと手で書いている。思いがこもったことばとそうでないことばの違いはよく知っている。まっすぐ、伝わることばでかきたい。

そんなこんなでわたしとことばの対話は続く。




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