好きなことをして生きていくということは、好きなことをもっと知るために他のことから学ぶということであると思う。写真漬けの日々で行き詰まった時、写真以外から写真を学べることがたくさんある。そうしてやっぱり、ここが私のホームだと確認し、写真へ戻っていく。そんな日々を過ごしている。
最近、YouTubeでvlogを始めた。さらに不向きなことにラジオも。慣れないことに頭と時間を使うと共に、次々に作品のアイデアが浮かび、準備を進めている。
とある人が動画を見て、小説を原作にした短編映画のようだ、というコメントを下さった。またとある人から、私の作品は写真も動画も見ていて泣きそうになる、という言葉をもらった。基本私は、褒め言葉を鵜呑みにすることはない。それどころか、もったいなさ過ぎてむしろ卑下してしまうことのほうが多い。けれど嬉しかった。もしそう見えるのだとしたら、私の見ているそのままが映っている印かもしれない。
私は世界を刹那的に見る癖がある。
朝日がのぼる、家の中に好きな模様の光が入ってきて、昼には庭の木がささやいでいて、どんなに忙しい日も雨の日も出かけて帰ってきた日も食卓に大好きな人たちがいる。毎日のとりとめのない日常が、いつも通りであればあるほど泣きそうになる。うれしくて、でもいつか必ずなくなってしまうと鮮烈に感じる。とても悲しくなって、いまこの瞬間の幸せを必ず忘れたくないと思う。涙もろいのだろうか。わからない。泣きながらカメラを構えることだって、たくさんある。私の作品はいろんな意味で泣いている。明るくてもきらきらでも、どこかわびしかったり、寂しかったりする。作者がそうなのだから仕方ない。
動画よりも写真が好きだ。声よりも文章が好きだ。
なんどもそう気がつく。それは写真だけを撮り続けていては気が付けない。苦手か得意か、好きか嫌いかはっきりしないものは一旦やってみる。それでも嫌いなものもあるしどうしても魅力的でないならとっとと辞める。でも意外とやらなかったら知らなかった、大切なことを学べることのほうが多い。ゆらめく光をゆらめく光として残すならば動画が一番向いている。家の雰囲気を残すなら音声があったほうがいい。それでも家や光を写真にする。私という人間の素を伝えるならば声が一番近い。それでも文章を書く。向き不向きを超えてもなぜ写真を撮るのか、文章を書くのか、その理由が明確になってきてとても面白い。
私の中で写真や文章は、自分を清く整えていくものなのだと思う。撮る、書く、という所作も作品も含め、ある種の儀式のように自分を整えていく。彼らが私に与えるのは、私のプラスの印象、理想の姿、そしてそれを好いてくれる人たちだ。取り繕っているわけではないのに、自分で驚くほど受け入れられたり喜んでもらえることもある。私のそんな部分を知らない人にはあしらわれるようなものだとも、思う。
清らかでありたいと思っていた。実際の私という人間はとてもがつくほど怠惰で、背中がまるくて、思想も身体も穢れている。コンプレックスとはちがうのだけど、自分のそういった穢れのことをすごく嫌ってきた。人に口が悪い、何かの癖が悪い、姿勢が悪い、女性的であるところも、仕草が整っていないことも。せめて理想の像を再現できる場では再現し続けたい。人前で猫をかぶるように、理想像をかぶってきた。演じるというよりは、切り替える、という具合に。そうしてここ数年で培ってきた自分像が、徐々に「本当の私」の半分くらいを占めるようになった。切り替えなくとも昔よりはなにげない仕草が雑でなくなったし、自分の容姿は飾らなくても適度にメイクや洋服を楽しんでいればそのままで満足である。今、私は、清らかさはこの程度で充分だ、と思っていたりする。芸術家をしている自分も地味で醜い自分もどちらも本当だ、と肯定できるほうが楽しい。まだまだ穢れている部分を嫌い、変えようとし、清らかなものを愛し、対極と呼べそうな食生活やライフスタイルをどちらも愛し、このまま、すべてのまんなかで生きていたい。嫌いなものは嫌いなまま、すきなものはどんどん増やして生きていけたらいい。そう思う。
いつまでも届かないだろうなと思う憧れる人はたくさんいる。
君たちは心底明るいな??となるギャルも、インテリアから料理まで完璧な丁寧な暮らし系の人も、課金するくらい熱中しているゲーマーやオタクも。自分が今から人生をすべてそちらに振っても彼らのようにはなれない。極端にこう書かなくったって誰だってそうだ。うらやましい誰かの人生をそっくりそのまま生きることなんてできない。それでも私は、生まれ変わったらああなれたらいいのに、と、いろんな人に対して思う。そして同時にそんな彼らに負けてないな、と思ったりする。それくらい幸せだ。それくらい自分の生き方や周りにいてくれる人たちを気に入っている。
たくさん辛いことがある数か月だった。それでも前を向いて生きていけなんて過酷すぎる。自分らしく、とか、セルフラブ、とか、とても嫌いなのでそちらには振れないのだが、それでも前を向くためには自分と向き合う必要があるようだった。自分の人生を投げやりになんてできない、誰かに尽くすなんてできない、だからより多くの人やものを大切にしていくために、私は私にできる方法で、自分を大切にすることにした。
作品を作る。それは私にとって何よりのご褒美であり、前を向いているのか知らんけど進んでいる、という意思表示である。だから私は作品を作ります。
10月、後半にポートレイトの企画を詰め込みました。main character syndrome という自身の経験からあなたをあなたの人生の主人公に仕立て上げ、送り出すという強気の企画です。そして前半には、新しい作品をリリース予定です。その時にまたしっかりと文章を書きます、きっと勇気と覚悟を持って、書いて出すものになると思います。お楽しみに、そしてここまで読んでくれて、本当にありがとう。