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雪が降って晴れている。
お風呂場で洗濯物を乾燥させる音が苦手だ。聞こえると冷や汗をかく。焦って見に行ったらただお風呂が暖房で温まっているだけだった。今朝はそんな朝だった。
旦那さんが今日から仕事でインドへ行った。今はその初日の早起きして見送った後の、飛行機が飛ぶと連絡をもらった後の、英語のレッスンを一時間勘違いして持て余している時間である。旦那さんは2週間ほど帰ってこない。その間に1人の日もそこそこあるだろう。ひとりのときには、大して身体は動かさないのに頭ばかり動かして余計に心が疲れてしまう。
私はひとりの日が至極苦手だ。鍵っ子でもなかったし賑やかな家族のもとで育って大学のつかの間の一人暮らし期間もほとんど親友とふたり暮らし状態で過ごした。旅先でも常に人といたし、そこからはシェアハウス暮らしだ。
シェアハウス生活をしていると大半の人にひとりの時間が必要じゃない?とかたまにはひとりになりたいでしょ?と聞かれるけれど、答えは概ねNOである。ひとりが好きな人(それでいて心が繊細な人は特に)は、ひとりの時間に一体なにが起きているのか教えてほしい。どんな気持ちでご飯を食べればいいのか、映画を観て面白かったら誰に伝えたらいいのか、どのタイミングで声を出していいのか、私にはわからない。特にこの声を出す、はポイントである。誰かと話さない時間が一日でも続くと考えることばかりが増えて気が狂う。まったく、ロンドン生活が思いやられるばかりだ。
旦那さんの仕事の話に戻すと、彼は今日から二日間の長旅を経て、インドの孤児院へ行く。15人ほどの日本人の大学生や高校生を引率するリーダーらしい。私も他の国の同じようなワークショップに何度か参加したことがあるので、行く側の期待感も不安も、意外と世界は進んでいてトラブルがあっても大抵大丈夫なことも分かっているつもりだが、見送るのはやはり寂しさと不安でいっぱいだ。無事に着くだろうか、向こうで危ない目に遭わないだろうか、お腹は壊さないだろうか。。世界で一番大切な人だ。いなくなった家は空っぽに見えるしごはんの味もしなくなる。誰かが帰って来たり、慣れていけばこうもひどくはなくなるのだけど初日はいつもいつまでも堪えるなあ。できればいかないでほしい。でも、自分の方がどこそこ行くことは棚に上げて行くなというのはさすがにわがままだ。止めはしない代わりに寂しがることは許してもらっている。
そんなこんなで起きてしまったから寝るわけにもいかず、寂しさを紛らわすように掃除をし、テレビをつけ、母とLINEをしていた。今週末スノボに行くんだと言う私に、けがをしないか本気で心配しているようだった。親子だなと思う。たかがスノボだし、みんな行ってるし、周りに人もいるし大丈夫、と笑って返信すると思う。けれどいつだって、だれがどこでなにがあるなんてその確率は大して変わらない。またそう思った。インドに行った旦那さんの方が日本の家にいる私より危ない、と思うけれど、彼にとってのインドは私にとってのスノボくらいのものかもしれないし、地震が、災害が、病気が、ありとあらゆる可能性がある中を生きている。彼も、母も、私も、皆平等に、死の合間を生きている。こんなことは考えれば考えるほどつらくなるのでできれば忘れていて楽観的に生きていたい。知っていることは大事だ。けれどとらわれていては何もできないままに心だけが死んでいく。強い心と弱い心、どちらも壊さず持ち続けなければ作品をつくれない。このバランスがとても難しい。
どう考えたってここ数年で死とか生とかに捕らわれる、あるいは能動的に考える時間が増えた。きっかけだった、その死が自分で選ばせてしまったものだったけれど、どうすれば救えたのか、生かすことが救うことだったのか、どこからが病気だったのか、どのことばが正解で不正解だったのか、なにもわからないままだ。死ぬことの方がよほど納得がいき、生きることのほうがわからなくなった時期もある。でも、目をそらさぬことを自分で選んで、目の前の奇跡的な素朴な事象に気づき続けた。忘れないように撮ってきた、撮っていく。心を弱いままに、でも鍛えていけるように、生きていく。何度も書かなければまた嫌になってしまうから、書いている。
旦那さんが元気に帰ってくるまで私は自分が元気であることを忘れずにいよう。必死にいい時間を過ごさないように、仕事をさぼらないように、でもお腹がすいたらちゃんと食べるようにしよう。英語をたくさん勉強しよう。何度寂しくなって涙が出ても、また上を向こう。
外の雪が書いている間に止んだ。今は晴れ間が見えている。
今度こそ英語レッスンの時間だ。