煩悩(32)本当に「好き」にあぐらをかかれたのか問題

いま、メリー・ポピンズの『A Spoonful Of Suger』を聴きながら黒豆茶を飲んでいます。明日の仕事後には、旧友との約束。高校時代にこよなく愛していた音楽を聴き、飲み物を喉に流しこんで時間を巻き戻そうと必死です。

お久しぶりです。兼業ライターの日々は、正解が見えている(はず)にも関わらず少し寄り道をしているようなもの。多少の息苦しさはありますが、まあ、大切なものは得てして目に見えないですからね。

名前の話をさせてください。
「花輪」ではない方です。(明かしませんが)

名前は、両親からの最初の贈り物でした。運がよくなくても、山あり谷ありの道であっても、人にだけは恵まれるように。その願いが名前に織り込まれているのだそう。

両親の願いどおり、人に恵まれた人生を送る日々。困った時に手を差し伸べてもらい、辛い時に寄り添ってもらい、周囲に助けられて生きてきました。現時点の私の自慢は、最高の友人たちと理想の上司、そして世界一の店長です。

話を戻しましょう。周りからの優しさを経験した分、些細な感情の揺れに敏感になりました。人の気持ちを推し量って、推し量っていました。

三つ子の魂なんとやら、学生の頃から対象との距離感しか頭にありませんでした。良くも悪くも「明るい」「オープンな性格」「人生イージーモード」と言われることの多い人間の、なるべく見せまいとしていた臆病なドロドロの部分です。

推し量った結果、人から嫌われそう、嫌な感情を抱かれそうと感じた瞬間に近づけなくなります。不穏な波が押し寄せてくる音が耳に届いた途端、海岸から離れます。だから、いつも大好きなものとの距離がうまく取れません。

おかしいですね。私には勿体無いほどの、有り余るほどの愛をもらっていた自信はあります。贅沢な環境なのに、だからなのかもしれませんが、愛に対して疑心暗鬼になってしまいました。

おそらく、理由は傷つきたくないから。自分が可愛いから。ローリスク・ローリターンの生き方。失うものはありませんが、得られるものもありません。いつも穏やかで、ちょこっと寂しい人生。

そろそろ、5年目の彼氏にご登場いただきます。お久しぶり。最近LINEのやりとりをして、たまに会うようになったという誰得情報を置いておきます。人間的には優勝なんだけどな。

いつも通り彼の気持ちを推し量り続け、波を感じて、私は彼と別れました。彼が何を言おうと「私が感じた彼の姿」を彼に押し付けて、半ば強引に別れました。一緒にいて辛くなっていたので結果的には「正解」だったのかもしれませんが、道筋的には「不正解」でした。どちらも不幸せです。

信じたくなかったんです。彼が自分から離れていってしまうことに。ものすごく好きで、好きで、好きでたまらなかったから。そんな悲しい結末ならば、自分から幕を下ろす。波を少し感じただけで、この考えに至りました。

努力しろよ。二人ですりあわせろよ。
言うのは簡単ですが、ほら。私は臆病だから。
本当に「好き」にあぐらをかかれていたのか問題は迷宮入りです。

久々に書くので脱線してばかりでした。親友との会話を思い出します。いつだって話が話を呼んで派生し、網状脈のように膨らんでいきました。ミスドでカフェオレをお代わりするチープな遊びを、成人しても続けていました。懐かしい。

くり返しになりますが、どんなに大好きでも距離を取らないと接することができません。アレルギーみたいなものかもしれないと考えています。私の知人に猫好きの猫アレルギー持ちがいます。手袋をつけて愛猫をなでながら、腕を湿疹まみれにしていました。愛がすごい。

もちろん、愛に溢れる人生への憧れはあります。自分と相手の存在だけで満ち足りた生活。でも、私は愛のもたらす喜びにも悲しみにも、耐え切る自信がありません。好きな人たちと小説に囲まれて、穏やかでありたい。

こんなことを言い続ける限り、恋愛にちょっと臆病なままなんでしょうね。

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