17|Breathe and A boal of TEA
はじめて茶の湯に触れてから、十年余りが経つ頃だったと思います。
中国の古い書物『易経』の一節「形而上者謂之道、形而下者謂之器」に触れた瞬間、直感的に、「あ、これはお茶のことを言っているな」ときづきました。
手元にある、内側のくり抜かれた半球の器。
その碗に、炭で火を起こし沸かした湯を注ぎ、抹茶の粉末と湯とを、ゆっくりと交じりあわせてゆきます。
「一碗の、一服の」は、通常英語では “a bowl of ”。
タイトルの『Breathe and A boal of TEA』をみて、“間違えてんじゃん?”と、怪訝に思われる方も、いらっしゃるかもしれません。
“a bowl of ”は、地へ向かいゆるやかな弧を描く、半球の部分。
触れて、やさしく包み込むことができます。
わたしは、お抹茶茶碗が、手なりにすっぽりとおさまる、そのやわらかさと、火で焼かれ生成された、あたたかな土の感覚がすきです。
お抹茶を点てるとき、もしくは、練るとき。
瞳にうつる、茶碗をみつめ、碗の中で、手を動かすとき。
波なみと張る湯が、一息にみどり色に変化する瞬間(とき)、いまここに在るのは、半球ではなく、球体なのだときづきます。
私たちの肉体が存在するこの次元、目にみえ、五感で確認できる部分(器)だけでない、そのさきの多重多層の次元とひとつであること。
私たちが、自らの中心・点に在り、源である瞬間(とき)、同時に無数に点在する、多様で多彩な可能性が、いまこの瞬間の一点=球に、器としてその相を顕します。
器(半球,bowl)はいつも必ず、その全体(球体,ball)として支えられ、器の存在は、全体をActivate(動か)します。
またそうあるとき、器は、源とひとつの生命場として、全体の母胎から満ちだすいのちの波で、ゆたかに、溢れかえっています。
これは、けして世紀の発見でもない、普遍で単純なことですが、そのことが、bowl と ball の 造語である、“a boal of”として、表現されています。
湯を沸かし、茶を点てる。それは、なんら特別なことではありません。
平常の、なんてことのない日常のなかに、流れているゆたかさ。
喉を流れる一服が、その内にある宇宙のひろがりを照らしますようにと、ささやかな願いをこめて。
その一服を通して、多くのことが息を吹き返し、思い出されてゆくことを信じて。
そして、ふるきもあたらしきも、すべてをこの一点(=球、瞬間)に包含し、さらなるみちを進みゆく可能性を、照らすように。