87|大田 行雲
最後の夜は、三瓶山のみえる大田市駅近くの施設に宿泊し、翌朝ふたたび、大田の家に戻って、名古屋への帰路に。復路は、全員で、父の運転する車にて。
島根への往路、やくも号車中に忘れたポケットWi-Fiが、鳥取の米子駅に保管されているとの連絡を受けて、父が米子駅に寄ってくれた。
日本海、宍道湖傍を走り、新しくなったばかりの米子駅へ。復路の初ルートだ。
窓からみえる、雄大な伯耆大山と雲としばし併走する。
名古屋に戻り暫くしてから『しろがねの葉』を読む。
物語を描写する粒が、輝くように立ち上がって、物凄い鮮度と躍動感のなかを、流れるように読み進めた。
あまりの瑞々しさ、生々しさに、全細胞が呼応して、奥深くに固く音もなく息を潜めていた、でも、どこかで微かに、鳴り響いていたような気もする重低音が、一気にそのボリュームを上げた。
苦しくなった。
そう、しろがねの葉の物語は始まり、進んでゆく。
わたしの内には、あちこち空いて、胎闇と繋がった穴から、闇に濾されたやわらかく繊細な、けれども、つよいひかりが差し込んで、全時空から流れて込んでくる粒子を照らした。
足を取られそうなときは、そう、熊野の友人の声が、どこからともなく聞こえてきて、そのたび、わたしは広くなった。
***
2023年は、日々の瞬間のなかに、「これは父の…」「これは母だ…」と、透明な薄い表皮が何枚も何枚も、ペリッと剥がれ落ちるような瞬間が、加速していた。
本当の、混じり気のない純粋な自分に触れることは、同時に、自分の内にある、父や母をもまるごとみつめ、そのひとつひとつを認めてゆく作業とも、どこか繋がっているのかもしれない、とも思った。
***
例えるなら、それは、いまこの瞬間を外れたら、掌からサラサラと溢れ落ちる、細やかな浜辺の砂のようなものかもしれない。
でも、砂嵐吹雪いたり、ドロっと、泥のように張り付いたり、ザラつくような感触がもしあるなら、わたしは何度でも、質量を持たないひかりのような、針の糸穴より細く、みえないほどの砂時計の腰を、高速でサラサラと通り抜けてゆくような、砂の粒子に戻したい。
私たちにはもう、それができるから。
本を閉じて、ギリギリ手の届く最上段へ、静かに置き直す。
もう、一緒に行こう。
ずっと、そう言いたかった気がする。
新しい、最初の朝だよ。一緒に昇ろう。一緒に上がろう。