【感想】すずめの戸締まり
※書きかけのまま放置していた感想があったのですが、すずめの戸締まりのBlu-ray発売と聞いて爆速で購入し、それが届きましたので、当時の感覚を思い出してフレッシュではない感想を追記し殴りました。
※(注意)すずめの戸締りではなく、『すずめの戸締まり』です
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上映時間:2時間2分
みなさん、私は『すずめの戸締まり』が好きです。
とりあえず入場者特典も目当てで、3回見ました。環さんの小説が特典の時だけ行けなかったので、フリマで買いましたけど、本当はもう何回か見たかったです。
感想はそれなりにあるのですが、作品全体を通して深く考察しながら要約して語る、そんな考察ブログのような役割は私には向いてないと思いますし担当ではないので、淡々と感想だけ書くものをやっていきたいと思います。(いつも通りであります)
●作品全体的に
全体的に好きです。
全部好きです。
その好きの中にも順序立ったものはありまして、まず『すずめの戸締まり』の作品自体も大好きなのですが、
それより何よりもとにかく私は、『岩戸鈴芽』さんが大好きです。
岩戸鈴芽さんの身長は、前作の『天野陽菜』さんや『宮水三葉』さんよりも低いらしいのですが、キャラデザの影響もあってか、1番頭身が高く見えます。
身長が高い(そう見える)女の子はこの世界において最高ですからね。
また、ポニーテールです。
ポニーテールもまた、世界を獲る上で重要な武器です。
見事に撃ち殺されました。
(髪を下ろした姿も最高に可愛くて、胸が締め付けられるように苦しいです)
その上で、岩戸鈴芽さんはよく身体を動かすアクティブな女の子です。
つまるところ、スタイルが良くて、よく動いて、その都度揺れるポニーテールには、この世の大切なものが詰まっているというお話です。
膝の先まで伸びるスカートもイヤラシさを感じなくて可愛くて最高ですね。
後ですね、声が、あまりにも可愛過ぎます。
岩戸鈴芽さんは最高の主人公であり、最上のヒロインというお話でした。
次に主題歌である、『すずめ feat.十明』が大好きです。
静かで穏やかながらも、力強く、身体の奥深くまで突き刺すようなメロディ、歌詞。
たまらないです。
特にサビとサビを繋げる「この身ひとつ じゃ足りない叫び」のところが、本当に最高に痺れます。
繰り返しになりますが、この曲は(主観的に)全体的に穏やかな印象で、サビも穏やかだと思います。
そんな穏やかなサビとサビを繋げるそのパートは、それ自体も穏やかではあるのですが、"穏やかでありつつも、盛り上がる力強さがもの凄い"と思います。
つまるところそのまんまですが、
「こんなに穏やかなのに、なんでこんなに盛り上がるの???なんでこんなに力強いの???なんでこんなに勇ましいの???なんでこんなにカッコイイの????なに??これ???なにこれ??」
と、初めて聞いた時から脳内がパニックになってしまったのです。
そして、曲のタイトルを見て
「これが????これが、すずめさんなの??????」
という、岩戸鈴芽さんへの好感度も含めて、セットでイき狂ってしまった訳ですね。
●物語の内容について
考察だとかは散々語られているでしょうし、そういった説明のような事は今更にもなりますので、説明下手な私からは致しませんが、物語の好きな箇所についての話です。
本作は、現実で事実起こった災害をモチーフとした作品ですので、
茶化したり、悪巫山戯をする事は出来ない事情もありますが、
それにしたって本作は過去の作品と比較しても、
鋭利な何かを、
それもエグい角度で、
深く深くに突き刺す様な展開が多いのですね。
そこが素晴らしく、見事に私に刺さりました。
ただまずこの作品についてここで再確認したいのは、
主人公にとっての核は間違いなく例の実災害なのですが、
災害の物語と一言で言うよりかは、
過去では無く現在とこれからに焦点を当て、
かつその上でファンタジー寄りに仕立てた"物語"であるという位置付けである事であり、
例えば夏休みの小学生が8月6日に登校して視聴する教材となるような物語とは少し違う気がするというところも踏まえた上で、
そんな物語として、私を突き刺した、という事を補足させていただきます。
※小説を、読んでいませんので、仔細がわからずこじ付けのような妄想を含みますが、それを含めて好きな作品ですので、私の中での作品の完成のされかたについての話です。
・ダイジン(右大臣:ウダイジン、白猫)
本作では一見すると強く悪者としての描かれ方をしており、
主人公視点では「荒らし・嫌がらせ・混乱の元」のような行動を行っているように見え、
結果的にやって良い事と悪い事のラインを遥かに超えた事をしでかしているように見え、
さらにモノローグも無い為に、
何を考えているのか、
何をしたいのか、
その行動原理がわからない、
最後に助けてくれたからと言ってそれで過去の罪が許されるわけでは無い、
という印象の残念な位置付けになっていると思われます。
(考察含みますので、私としてもダイジンの全てを理解しているというわけではありませんが)
それなのに何故ダイジンの話をするのかと言うと、
「ダイジン」は「すずめ」と同じ、
という話だからなのです。
ですので、すずめの話をするには、どうしてもダイジンの話をしなければならないのです。
かつて災害で親を失って絶望の淵にいた岩戸鈴芽は、実母の妹である岩戸環に「うちの子になろう」と言われ、引き取られることになりましたが、
本作の冒頭でもそれと同じように、岩戸鈴芽はダイジンに対して「うちの子になる?」と言っています。
(その言葉は、岩戸鈴芽さん自身が今まで言われた言葉の中で一番印象に残っており、かつ効果の高い救いの言葉であった事から、救おうと思った相手に対して自然と口を突いて出てきた可能性があると思っています)
これが本作の始まりです。
これを言われたダイジンは、初めて見た人物を親と思い込む生物が如く、その言葉通りに正直にストレートに岩戸鈴芽の子になるべくしての言動を開始するわけなんですね。
ここで状況整理します。
そもそもなんですが、本作の冒頭は宗像草太が宮崎県の地を訪れるところから始まっています。
本来であればその週に教員の試験があったはずのその大事な時期に。収入にもならない、モチベーション維持も困難であるような無茶な家業のために。です。
宗像草太の部屋の古文書にもあったように、また祖父の宗像羊朗も「“また“抜けてしまわれたか」と言っていたように、一定の周期で要石の封印は自然と緩んでしまうのでしょう。
なのでその一定期間毎に封印のメンテナンスを行う必要があるのでしょう。
であるからしておそらく、冒頭の宗像草太の来訪こそ、ちょうどこれを目的とした1週間や1日とずらすことの出来ない早急かつ重要な意味があるものだと考えられます。
よって岩戸鈴芽さんが扉へ近付かず、まして要石を抜く事がなければ、
抜けかかった要石は然るべく宗像草太によって再度封印を施され、東京へ帰りながら各地の後ろ戸のメンテナンスを順調にこなしていけば、
日本列島は(少なくともミミズに関しては)再度平和な数十年を約束されていた事でしょう。
ですが岩戸鈴芽さんは要石を抜きました。
要石の本人もその意味(自身の役割・抜けた結果訪れる災害について)は当然理解しています。
要石は要石であるので、役割に基づいて、今後について早急に対応をする必要があります。
元々から封印が緩んでいた状況が続いた結果、自然と要石が抜けていた可能性もある中で、
この後起こりうる事は、要石の抜けた西から始まり、そこから東へ向かって、開かれた扉から順次ミミズが飛び出して災害をもたらしてしまう事です。
人々を守るためには各地の扉を閉めてミミズを抑える事が必要になりますが、
それはあくまで一時的な対処に過ぎず、最終的に東では抑える事ができずに全身出てきてしまう、
ということはこれまでの歴史で証明されているのでしょう。
ですので、解決方法は一つ、もう一度要石を刺して再度封印を施す事以外に無いのです。
ところが岩戸鈴芽は、要石に「うちの子になる?」と声をかけてしまったのです。
これにより、要石は要石をやめ、ダイジンとしての在り方となってしまいました。
もしも、抜かれたタイミングで岩戸鈴芽が声をかけなけば、当然要石の言動は少し変わっていたでしょう。(ある程度は同じだとも思いますが)
要石が必要であると理解しているダイジンは、ちょうど近くに居た、それも閉じ師である彼へ次の要石としての役割を与えたのです。
そして要石からダイジンとなった彼(彼女?)は、行動を開始しました。
本来は要石での再封印を行ってから、各地の扉を閉めて回ることが必要なのですが、
本来それが出来るはずの閉じ師を要石に変えてしまったので、
岩戸鈴芽にその代わりを行ってもらう必要があります。
各地の扉を閉じてミミズを抑える事も必要なので、ここで要石となった宗像草太をブッ刺せば終わりという訳でもないのです。
つまり、
ダイジンは、今から開かれそうになっている扉の場所へ、
岩戸鈴芽と鍵を持った宗像草太を順次誘導し、
各地の扉を閉じてもらいながら、
最終的に東の果てで飛び出してきたミミズへ、要石をブッ刺すよう、
誘導を行っていたわけなんですね。
とんでもない、誘導だと思います。
とても、真似できない。
さらに、ここで要石のことを思い出してみましょう。
要石としての機能を果たす事になった宗像草太に対し、祖父の宗像羊郎は、長い年月をかけて少しずつ神になるという旨の事を言っていたように思います。
つまり、要石は神である。
けれど、神になる。
もとい、神に、なった、という解釈もできます。
ダイジンとは何だったのか?
サダイジンの方を思い出すと、その精神性は、ウダイジンとは全然違うという事もわかります。
これは明言されていないことではありますが、
もしもダイジンは幼い精神性の中で、
あるいはもしも両親を失ったばかりの鈴芽と同じ境遇であったとして、
そんな中で、人々を守るための人柱として、
かつて要石にされた幼い子供だったとしたら。
岩戸鈴芽の「うちの子になる?」という言葉の重みが、とんでもない事になりますね。
椅子草太さんが要石になって岩戸鈴芽に糾弾された時のダイジン、「鈴芽…、好きじゃなかった…」と萎れていくところを見るに、「好き」が欲しかったんでしょうね。
愛されたかった。
ということは、好きとか愛を貰えなかった子供だった、と考えると、
あの、
痛みますね。
(終盤、「(草太さんが要石になるくらいだったら、)私が要石になるよ!」と言い放った岩戸鈴芽さんに、「いやっ、そ、それは私の『鈴芽の子』になるという行動原理の大前提が崩れちゃうので、流石にそれは違うから、待ってほしい!私を救おうとしてくれた鈴芽にそれはさせられないので、やっぱり私が要石に戻ります!」って感じで要石の草太を引き抜く手伝いをするダイジンちゃんへの感情がね、はい、、、、)
・岩戸鈴芽
さて、今作で1番語りたいのは、大好きで大好きな岩戸鈴芽さんについてです。
容姿の話は上記で書いた通りですが、作品に触れる上ではその精神性の話になります。
上記のダイジンの話で言えば、どちらかと言えば岩戸鈴芽こそが元凶(要石の引き抜き、ダイジンへの声かけ)である訳ですが、
彼女には悪意や害意は無く、それはただの失敗に過ぎないのです。
現に彼女は、自分のしでかした事の重大さを理解し、罪悪感を感じて謝罪し、責任から逃げる事もせず、最後の最後まで普通の女子高生が背負って良いレベルじゃない責任を果たし遂げました。
冒頭から整理しますが、
幼い岩戸鈴芽は、大災害で両親を失っています。
「おかえり」が言えない、「ただいま」が無い「行ってきます」、を知っています。
つまり、人というのは、人の人生というのは、何の脈絡もなく、ある日突然に、理不尽に、暴力的に、何もかもを奪われ、潰され、台無しにされてしまう、という事を知っています。
作中の各所で確認できる言葉ではありますが、岩戸鈴芽は一切の迷い無く「死ぬのは怖くない」と言い放っています。
果たして、普通の女子高生が一切の迷いなく「死ぬのは怖くない」と言えるのかどうか、という話です。
勇敢な主人公が、渾身的な主人公が、誰かを守る事を生き甲斐にしていそうな主人公が、安っぽくよく言いそうなセリフではあります。
普通の女子高生が言えば尚更、もっと安っぽくなりそうなものです。
ですが、岩戸鈴芽には、それが言えてしまう根拠があります。
彼女は知っています。
いつなんどき、あるいは突然明日にでも、人は、死んでしまうかもしれない。
当然、自分自身もそれは例外ではない。
生と死は、運である、と。
岩戸鈴芽は、その可能性と常に向き合っています。
一秒たりとも目を逸らしていません。
他者と普段通りに生活を送っていながら、
いつでも死と隣り合わせで生きているのです。
その人生の境遇から、その魂に、生の裏側に確かに存在する死を意識し、確かに抱えて生きているのです。
なので、彼女は病的なまでに、怖いくらいに、
『(明日死ぬかもしれないので、明日は無いかもしれないので)後悔の無いよう、今を精一杯に生きます』。
彼女は、決して立ち止まりません。
その脚は、もはや人生そのもの。
彼女はその人生を全うするかのように、
人生を精一杯走り切るつもりで、
その脚を止める事はないのです。
そこがね、痺れます。最高に。
彼女は狂っている。
彼女は生きながら既に、もう半分は死んでいるつもりでもある。
その過去はどうしても否定しきれないもの。
今でも悪夢として夢に見るくらい、人生と魂に刻まれたもの。
だけれども、どうしても、その死生観は笑って微笑ましく、そういう生き方もあると見過ごせるものではなく、他者が軽々しくどうにか出来るモノでも無く、
それは事実通りに呪いであって、病気であって、
死と同じ重みの、生を送る、
そんな『死=生=呪い=病気=人生』を体現したような生き様を見せられてね、
正気でいられる筈もない。
私も狂いました。もう岩戸鈴芽の事しか考えられない。
当然でしょう???、こんなの????、ねぇ????
大変不謹慎で失礼ではありますが、あの、
岩戸鈴芽、可愛すぎるこんなの、、、、。
⚫︎岩戸鈴芽の『(死ぬのは怖くない)今を精一杯生きる(病的・狂気)大好きポイント』
※普通に可愛い岩戸鈴芽含む
⚫︎その他好きポイント
⚫︎その他、気になるポイント
コーラを飲ませていただきたい。コカの。