心霊写真を私は見たの #リチュアリスティック展 にて
行きました。
これ、感想です。決して誰かの答えに踏み込むつもりで書いたわけではありません。
展示を見ていたはずが、いつのまにか自分の内面を覗き込んでいた。
そんな体験の記録です。
ちなみに移動中は志人の『あの海』を聞いてました。
年齢制限かかってんじゃん。
ちなみに収録のCDはこちら。
先述の展示に行ってきました。
『リチュアリスティック展』……儀式的なそれ。え~そうなんだ。なるほどなるほど、事前学習します、なんて思った矢先、
ここにだいたい書いてある……。
もう、件のイベントも参加したので、事前学習は大丈夫です。
いや、冗談抜きにこれが事前学習の全てで良いと思います。
この文章から滲むもの、そしてそれに触発されて引き出される各々の思い出こそが答えでしょう。
ただ私は、そういった方々と比べると思い出あんまりないにもかかわらずかなり満喫したので、何が起きたのかということを書き残しておきます。
私の事前学習
配信は見ましたか?
初日の直前には配信でコンセプトなどの説明もあったそうで。より、作者のビジョンに近づきやすくなっています。
そこでの話を(よくないことだけれど)ざっくり言うならば「どうせ死ぬんなら、せめて、自分らしく」って感じでしょうか。わかる。
私はそれをリアルタイムでは見ておらず、色々あって初日にアーカイブを確認することすらできませんでした。
配信があったちょうどその頃は新宿の映画館で『RE:cycle of the PENGUINDRUM 後編』見てました。面白かった~。
受け身を取る練習はしましたか?
作り手がアイドルってことは私もよく知ってます。知っていますが、ここではむしろ普段より我が出る。わがままであれる。ある程度本音みたいなものが飛び出てもおかしくないわけです。
「御存知でしたか。私がずっとあなたを軽蔑してたってことを」って次回予告でいきなり明かされてもおかしくないのです。
それは極端な例ですが、ていうか『少女革命ウテナ』ですが、でも、おかしくないわけです。ですから、ちょっと身構えた状態でその日を待っていました。
勝手に決闘気分ですよね。
生前葬はご存じですか?
ところで生前葬って……。
ちょっと馴染みがねえな、と思って調べてみたのですが、生前葬って長寿儀礼でもあるらしいですよ。
……はい。
マジでこういう情報しか出てこなくってびっくりしたわよ。
ちなみに生前葬のメリットは直接感謝を伝えることができるというところで、デメリットとしてよく見かけたのは「認知度が低いため、理解してもらえないことが多い」のだそうです。
そうなの……。
これらの因果関係を読み解くことがアートの楽しいところ。
とりあえずこのサイトは熟読しておきます。
生前葬映画も文学もなかなか見つからず、事前学習ができませんでしたが、儀式ならね、そういう映画なら見たことありますよ。『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』とか『エクソシスト』とか『へレディタリー 継承』とか『呪詛』とか…….。(ただ、『呪詛』は個人的に当たらずも遠からずって感じです)
ちなみに生誕イベント当日に売られたアクリルスタンドは映画『シャイニング』オマージュっぽいもの(明言はされていませんが)なので、
『シャイニング』だけ、チェックしておきました。もう何度か見てる映画ではありますが。面白かった~。
後日、追加の展示で参考にできそうな映画が作り手の間で共有されていたらしいと知ったのですが、どうなんですか、単刀直入に聞きますけど『へレディタリー 継承』は参考作品なんですか?(冗談の質問です!)
最初に見た感想
碌に事前学習をせずに乗り込んだ私の、本当に、純粋な感想。
語弊のある言い方になりますが、
心霊写真を見てるみたいでした……。
あら、そう……。
お、思惑通りじゃん……。
アルバムから引き抜いて
ややこしい話をする前に言っておくと、アルバムにおさめられた写真が一枚500円で買えるっていうアレ、めちゃくちゃ面白かったです。選ぶのにめちゃくちゃ時間がかかるので、待ってる時間もめちゃくちゃ長かったけど、あれはしょうがないよね~。多勢に無勢なので。
あと、あのアルバムの文字が手書きっていうのもね、なんか熱を感じました。好きな人が書いた文字ってなんであんなにも愛おしいの……。
ちなみにこういう手書きのメッセージを受け取れるサービスもございますので、よろしければご利用ください。
戦場・決闘・心霊写真
で、心霊写真の話ね。
それは言いかえると、今回のイベントの主役であるはずなのに、なんだか写真に写りこんでしまった感が強く、それは別に気を抜いているとかそんなのじゃあなくて、実は最初っからそこにいたのに今日やっと気づくことができた、って感じなの。長いよね~。だから心霊写真みたいって言ったの。四文字わかる!。
実は撮影場所によって「生きている時間」「死後の時間」と分けられていると後から知りました。すんごい大事な情報じゃん。新宿で映画見てんじゃないよ!!
下のツイートでいうと左が生前、右が死後のイメージらしいのですが、私はどちらかというと左の写真が怖かった……。生きてる人間の方が怖いのはここでも一緒。
すごく気を抜いていた場所にかつてその人がいたという事実があるってのが怖い。モノクロの映像に色を付ける、みたいなことをされたときに突然そこに立ち現れる生々しい生活感というか、生きていたっていう事実を思い出しちゃう感じに近いと思います。
ありませんか!?
なんか、映り込んでしまった感!!
ありませんか!?
なんか、出くわしてしまった感もありませんか!?
覗き窓を通さなければそこにいると確認できない。
確認できても、鑑賞者側からコミュニケーションを取る事もできない。
ほんの少し、しかし確実に住む世界のレイヤーが違う、という事実がなんとなくもの悲しい。(冷静に考えるとそれはアイドルに限らず、様々な創作物と同じ構図なので、それを思い出しているのかも)
衣装の、この世のものでなさ(でありつつも、前衛的でないところが、この辺の解釈のゆらぎを生んでいるような気がします)もその理由の一因ではないかと考えているのですが。
でも、私が一番心霊写真のように思ったのは、それに加えて何か言いたげな表情に秘密がある気がします。
そう、秘密が……。
これはリンク貼るのが楽しくなっちゃっただけです。
愛されてるのか軽蔑なのか問題
何か言い残したことでもあるのかしらと考えずにはいられない。
名乗りの際のフレーズである「もっと愛して……」なのか「御存知でしたか。私がずっとあなたを軽蔑してたってことを」なのか。その他各種のコメントなのかは本当に各自の空想ないしは妄想の世界ですけども。
私はずっと後者を言われる覚悟をもって生活しているので「後者来い!」くらいの気持ちでいたのですが、今回はひょっとして前者かも……と心の中で揺らいでいます。いやいや、そんな都合いい話はないぜ、軽蔑だよ、と思う自分も全然元気に存在しているのですが。
幽霊の気持ち、踏み込まずにはいられない
心霊写真全般において私が一番興味を惹かれるのは、撮られた幽霊の表情。
表情のよめない他者のことを人は恐れるとよく言いますが、心霊写真って絶対にコミュニケーションの取れない誰かが、何か言いたそうに、恨めしそうに佇んでいる。
心霊写真を見ていると「え、この顔は何、私のせい!?」って不安になるし(つーか心当たりあるし)隠している罪を責められているような、見透かされているような気分になる。そんな状況が怖くって、でもなんとか不安の原因を理解したくって目が離せない。
私、あんまりホラーとか見(れ)ないから、ホラー以外で抱いた印象なんだけど、幽霊のことを「罪を犯した人を追いつめるために舞い戻ってきた、罪悪感の象徴」だと思ってるの。『マクベス』とか『ハムレット』とか『クリスマスキャロル』とかに出てくるヤツね(正確に言うと『マクベス』『ハムレット』のあれは正確に翻訳すると幽霊ではなくもっと精霊に近い……わかるけど、ここは幽霊って枠組みに入れさせて!)。
死んでも恨まれるような何かを責める幽霊、取り返しのつかない何かに近づいていることを警告する幽霊。
その人にとっておそらく一番言われたくないことを、見透かしている存在。それと出くわしたら、私ならすごく不安な気持ちになっちゃうわ。
それに、一般的に心霊写真に写りこむ幽霊には強い感情が付き物と言われてる。
それらの感情が後付けの説明(というかほとんど生者の勝手な詮索)であったとしても、何かしらあまりにも強い情念が彼らの存在を引き留めている。この理屈を私は羨ましいと思う。それだけ誰かを憎んでみたい、愛してみたい。(その憧れは、憎まれたいとか愛されたいとかの裏返しなのかもだけど)
それだけ強い感情を想像することは傲慢というか失礼なことかもしれないけれど、それでも、自分自身の不安を解消するために想像しちゃったりするのよね。「なんだ、私のせいじゃないんだ」って気持ちになりたいから原因を相手に押し付けて、幽霊は反論ができないからそれが本当のように思われてしまう。
「昔、恋人が奪われて……」
「よくない噂が出回って……」
「誰も助けてくれなくて……」
そっか~幽霊ってそういうもんだよね、と思わず納得してしまうけれど、実際は全然そんな理由じゃないかもしれない。偶然映り込んだだけかもしれないし(でもそれはそれで、勝手にプライバシーを暴いたような罪悪感があるわよね)。
相手の事情を、自分のために、自分の都合のいいようにでっちあげる。さっき私が「軽蔑されてるかも~!」って言ったのなんてまさしくそれじゃない? こんなこと面と向かって言われてないし感じ取ったこともないけれど(だってそこまで話したことないし)、そっちの方が自分にとって都合がいいからそう思っていたの。最悪な状況を想定した方が生きやすいから。そしたら、いつの間にか軽蔑されてるっていう方が私にとっての現実になっちゃうかもしれない。(ここが『呪詛』ポイントです! 意識で世界は形作られてしまう!)(展示にあった備忘録によると、『呪詛』が日本で配信された時期と準備が始まったタイミングって全然あってないんですよね。なので『呪詛』ポイントは明らかに私のこじつけです。今のうちに謝っておきますが、それはさておき下の予告編で『呪詛』ポイントを味わってください。始まってすぐの観覧車の映像が超・最高なので)
幽霊は「わかってほしい」と思うし、鑑賞者は「わかりたい」と思う。現実でも難しいそのコミュニケーションは幽霊相手だともっと困難で、もう諦めて「はいはい、うらめしやね」でもいいんだけれど、それはあまりに不誠実。好きな人相手ならなおのこと。だから諦められない。他人の思考のわからなさに静寂の中で向き合い続けることが必要なの。
相手のことをわかったつもりでいても、実は何もわかっていないかもしれない。「あー○○君ってこういうとこあるよね~」「いや、無いが……?」みたいことってたまにあるでしょ。なんかへらへらしちゃうけど、一番わかりたい相手とだって、死ぬまで分かり合えない可能性があるんですが……?
でも、いずれ必ず来る別れを思い浮かべながら、「はいはい、うらめしやね」で投げ出すなんて選択肢は私にはなかったの。一生分かり合えないとしても、わかろうとする努力を投げだしていい理由にはならないわ。
展示会場では、写真と見つめあったまましばらく動かない方が多くいましたが、きっとその人の中で、それぞれのコミュニケーションが発生していたのだと思います。それは、なんだかとても素敵な、そして作り手としては理想的な光景だったのではないでしょうか。ぜひ、監視カメラ映像を編集して送ってあげてほしいくらいです。
ゴースト 新橋の幻
だから私個人の感想としては、さっきの軽蔑方面というかそこまで直球じゃなくても「何かわかったような顔しても、何一つわかってなかった」ことを責められているような気分でいたんです。何か言いたげだと思っていた表情がこちらへの諦めにも見えてきたり。そうしてるうちに会えなくなって、幻に問い詰められているような。(参考作品なのかはわかりませんが、『ゴースト ニューヨークの幻』に近いものを感じます)
でもそこには希望もあって、今からなら取り返せるというか「わからないかもって頭の隅に置いたうえで、それでもわかろうとする気持ち、しっかりと向き合う気持ちを捨てないで生きてみたい」っていうか、終わりから逆算して今と向き合うことを推奨するような優しさも感じました。(そして、終わりがないと必死に生きることができないかもしれない私自身の情けなさもね)
「相手のことをわかろうともしないで勝手に拒絶して失った、という最悪の未来のはずなのに、絶望的に美しい」
というのが正確な第一印象でした。
その美しさっていうのは別に私がどう生きていても奪われるものではないし、なんなら私が拒絶したものでもあるのだけれど、それでも幽霊として目のまえに美しい思い出の姿で現れてくれるのだとしたら、嬉しいと感じるより先にその優しさすら辛くなるっていう、完ぺきな独り相撲状態。「現れてくれるって、そりゃお金払ったら出てくんじゃない? イタコとかさ」って思うかもだけど、この展示無料なんですよ。
展示と向き合いながら「自分の安定のために、誰かの愛情を拒絶した自分」と「それを恨まれているかも、という不安」「それでも誰かに待っていて欲しいという甘え」が同時に頭の中に現れて、胸が苦しくなった。
でも、それを回避する方法もきっとあるはずで、それを探っていくことが今の自分には必要なんじゃないかな、と思うのです。
痕跡
「いや、それは暗すぎる。お誕生日なのに。生前葬なのに」
と、思っていたら
〈痕跡〉というキーワードが出てきたことで、なるほど、自分の気持ちが色々まとまってきた気がします。
ここからが本題です。
何度も言いますけれど、これはあくまで「わたくしの感想」なので、どうかそこのところ、よろしくお願いいたします。
大前提
まず、人の命も記憶も永遠のものではありません。
これは大丈夫ですか?
怖いよね~。ここの不安とどう戦うか、というのは永遠のテーマですし、人類ってかなり歴史があるはずなのにここに対するファイナルアンサーはまだ出てないので、くれぐれも「わかりやすい答え」を提示してくる人がいたら警戒してくださいね(提示してくる人は主に駅前にいっぱいいます!)
この展示で私が感じたのは「答え」ではなく「どうやって猶予と余裕を生み出すか」でした。
私もいまだに「死んだらどうなっちゃうんだろう!」って不安になって夜中に目が覚めます。怖い~。
あと「この光景は一生忘れないんだろうな」と思った記憶が一週間後には薄れてるのも怖い~。結構記憶って上書きされやすいので「あれって夢だったのかも」とか「思い込みかも」ってなったら、そっちが現実として焼き付いちゃうのも怖い~。
私の場合だと「俺は間違いなく古田新太さんの投げキッスをもらった人間なんだ……本当なんだ!!」が本当かどうかは‘‘俺‘‘しかしらないので、ほとんど言ったもん勝ちです。それが思い違いなら、とても空虚な勝ちになるわけですが。
さっきの幽霊の話の続きじゃないけど、私は幽霊の理屈をでっちあげるだけじゃなくて、自分の記憶をでっちあげることだって往々にしてある。
棺から飛び出て生きるには
なんか、こういうことを考えていたら、生前葬と関係あるようなないような光景を思い出したのですが。『少女革命ウテナ』の〈棺少女〉はどうでしょうか。
この説明だけだとあたかも両親の死を嘆いているだけみたいだけれど、「永遠」で慰められたことからわかるように、棺少女は命の永遠で無さを知ってしまったことを嘆いているの。彼女は「生きているのって気持ち悪いよね」と尋ねるけれど、問われた男の子はその質問をどうしたらよいかわからなかった。そりゃそうよね。私だってわかんないわよ。
結局そこから立ち直らせたのは王子様の見せた「永遠」だけで、その「永遠」だって素晴らしいものではありませんでした。
棺少女であることをやめて世界に出たとき、影絵のように描かれていた彼女は正体を明かす。アニメを見ているときは「正体なんて、そんなの髪色で誰かずっとわかってたよ」と思ったけれど、作り手としてあそこはきっとサプライズでも何でもなかったんじゃないかと今は思えます。棺から出ることで、生きることを選択することで、自分の顔や名前が、というかアイデンティティが与えられるのではないでしょうか。
ただ、生きることは、いつか死ぬということを受け入れなければならないのよね。
命も記憶も永遠でなく、どちらにも明確に「終わり」の匂いがある。
その「終わり」に向けて、どうするか。
「終わり」を、自分の納得いくかたちで迎えるために生前葬があるけれど、でも、不安はいつだって付き纏ってくるわよね。
「永遠のもの」はこの世に無いとして、どうやって私の存在を長続きさせようか。
永遠でなさに向き合う術
長続きさせる方法の一つとして痕跡を残すことにしたのかもしれない。
それは作り手側の一方的なものではなくて、鑑賞者もまたカードにメッセージを書くことで自分の念を込めて痕跡を残していくことを勧められている。
永遠ではないお互いを、誰かの記憶という不安定な足場ではなく、確かなものとして残していく。
写真、音楽、アルバムに書き込まれた値段、手書きのメッセージ。
それらすべてが、その人の存在を証明していく効果を持つ。
確かに自分はここにいたんだ、と感情込みで自分を風景に埋め込むことは心霊写真に似ている。
確かにここにいて、あのステージに立っていて、それを誰かが受け止めていたという痕跡を残すことは、命や記憶の永遠でなさに打ち克つことはできなくても、立ち向かうことができる。
これは、そう簡単に誰かに会いに行けない今、余計に求められていることかもしれないわね。(って言うと陳腐な物言いに収まった感あるけど仕方ないじゃない。会って、触れて、体温を感じて、そこにいるねって今絶対やれないもの。私だって! 東京ディズニーランドでミッキーとハグしたいわよ!)
別にそれは時世のせいだけじゃないわ。運や余裕、猶予だって機会を奪っていくでしょう。入れ違えでお店に入っていくの見ましたよ、みたいな、もう少し待っている余裕があれば会えましたよ、みたいなね。
でも、目の前にいないけれど(これが一番言いたかったんだけど)かつて私は確かにそこにいたし、いつだって手を伸ばしていたいと思ってる。
思ってるだけじゃ伝わらないから、せめてそれを証明するために私の痕跡を残したい。
それに……少なくとも私は、痕跡を残してくれていたからこそ、ようやくこの当たり前で無さを受け入れることができたように思う。
事実と向き合って虚空を睨み続けることは、現実に対する誠実さではあるのだけれど、一定のラインを越えると非常に疲れるし、よくない方向に思考が流れてしまうし(「軽蔑されてるかも~!」)、何の解決にもならない(何かが生まれる可能性もあるけれど、それはかなり低い確率だし)(良い孤独もあるって知ってるけど、そこに到達するのは結構難しい)。だから、痕跡が頼りになるのだと思う。
私の中の「確かにそれは当たり前ではない……」を「それは当たり前ではないけれど」に書き直す力を、痕跡は持っている。
でも、痕跡は痕跡で結構曖昧だったりするのよね……。
痕跡を残しても、誰もそれに触れなければ何でもないし。
撮影者なくして心霊写真は生まれない
心霊写真は、生きている人間が幽霊を写真に収めることでうまれます。ちょっと傲慢な物言いかもしれませんが、「撮影者なくして心霊写真なし」です。それってつまり
「あなたが私の存在を捉えた。だから、私がいる」
ということじゃない?
それは幽霊だけじゃなくて、人間もそう。
あやふやな存在を、そこにいるって言えるのは結局他人なんじゃないかしら。
そしてその痕跡に向けるまなざしはきっと、愛なんじゃないかと思うの。
……。
……。
……ちょっと待って。
いやいや「誰かの愛」って
不安定で不健康じゃない?
「誰かからの愛があって、自分という存在が安定する」だぁ?
……う~ん、ちょっとどうなんだ。
私も正直どうなんだと思ってます。物心ついたころからディズニープリンセスが大好きで、今も憧れている私だけれど、ちょっと「愛」は……半笑いになっちゃうかも。
でも、「愛だったらいいなァ」って気持ちがあるのは否定できない。
自分で自分を愛してみたら?
「自分で自分を愛そう!」というのがこのところしきりに叫ばれるようになっていて、それはとても健康的。
制御できない上に移り気な他者の心に寄り掛かることは自分を不安定な存在にしやすいし、それならいっそのこと一番制御しやすそうな自分の気持ちに寄り掛かる方が安定感があります。
でも、それは非常に暴力的な自己責任論に転びやすい。自分を愛せないなんてこぼせば「じゃーもっと頑張ればいいじゃん、いい素材持ってるんだから」「自分のことを好きになれるように頑張んなきゃ!!!!!!」って言われるかも(私は言われました)。
まあ、そこまでいくとそれは自己肯定感の話と微妙に違ってしまうわけで。
仮に正しく自己肯定感をあげていっても、「マイナスは普通にマイナスじゃん……」みたいに自分で自分にかけた魔法がとけたとき、マジで何もない荒野に一人放り出されてしまう。
「自分で自分を愛そう!」ってすごく大事だと思うけど、それだって実は十分に不安定なんじゃないの? 最悪な状況を想定する癖がここでも発動しています。
やっぱりどうしても自分だけでなく、他者からの愛も自分の存在を形作っているのだと思ってしまう。
それは、とても不安定で不健康かもだと思われるかもしれないけれど、そうやって成立することが可能っていうのは、それはそれで幸福なことなんじゃないかしら。
二輪車で荒野を駆け抜けるのよ
自分で自分を愛し、それで自分を維持すること。これも大事。
そして、その魔法が消えかかったり、信じられなくなったとき、他者の愛が支えてくれたら素敵。
他者の愛は、対象の存在そのものを肯定することもあれば、信じられないと思った魔法にもう一度力をくれたりする。
その二つがあれば、どこまででも走っていけるんじゃあないでしょうか。もっと支えがあったら、さらに安定感が増して、疲れにくくなって、より遠くに行けるかもしれない。
愛という言葉は便利だし、色々な意味を持つので簡単には使えないけれど、それでも自分の愛を疑って、練り上げながら、伝えたいと思うの。
そして……
最後に、ちょっとだけいいですか。
辻村深月さんの『子どもたちは夜と遊ぶ』の文庫版解説なのですが。
書いたのは幾原邦彦さん。そう、私が配信を見逃したきっかけを作った映画を撮った監督ですね。すごく素敵な映画でした。
映画鑑賞後に読み直すとこの解説がめちゃくちゃ『輪るピングドラム』の話をしていることに気づきましたが、それと同時に、この展示を見ながら思ったことドンピシャだったので、ちょっと長いですが引用します。
(ちなみに文章が書かれたのは2008年。『輪るピングドラム』放送のおよそ3年前です。この頃からだいぶ哲学が固まってたんだな~)
この展示は生前葬でありながら、蘇生あるいは延命の儀式だと私は思った。
そしてそのカギを握るもの、幽霊みたいに不安定な私たちの存在を引き留めるものは、たぶん愛。
だからお互いに「もっと愛して……」だし、返事はもちろん……
最後に大・余談
なんかいい話風にまとめちゃってごめんなさいね。こういう「一発かましますか!」っていうことする癖があるから、色々な場面ですべってるのとわかってるんだけどね!!
実は会期終盤、販売されてる1枚500円の方の写真に追加があって。
それらは過去のイベントで撮影されたものを寄せ集めたものなんだけど、「あ、この写真使ったグッズ見覚えある!」という時代のものから、「マジでこれいつの?」という写真まであるという、すんごいラインナップなの。
カードゲームにたまにあるでしょ、過去の汎用カードが集められたパックみたいな。ああいうのを思い出したわ。
正直、これに関しては「売り物」だし、これが一番の理由なんだけど「ご本人的にどういう判断かわからない」ので写真の掲載は控えますが、「え、痕跡ってそこまでやってくれんの?」と、新参者の私としては大満足な追加商品でした。(最高なのを買いました)
写真を選びながら「ううあ! 間違いなく同一人物だってわかるのに全然違う!!」となり。そういう時代があって、それぞれにきっと思い出があって、愛した人がいるのだろうな、という希望。誰かの手元にこれらの写真が残されていけば、存在を忘れることは簡単じゃないはず。
何より、この展示の作品もいつか過去作品として並ぶ日が来て、それを見てこの夏のことを思い出したら、とても素敵なことだと思うの。
私も、そう簡単に忘れるつもりはないわよ。
無くなる前に、痕跡をお買い求めください。