『愛の虜』
「今は仕事が忙しいから彼氏はいらない」
そういう人は、恋愛に淡白な人なんだと思っていた。きっと仕事が忙しくなくても、彼氏が欲しいと積極的に思うことなんてなくて、一人でも生きていけるんだろうと思っていた。恋愛が辛かった私は恋愛を必要としない彼女らを羨ましく思い、一方で恋愛に幸福も感じていた私は、これはこれでいいかとも思った。彼女らの幸福が仕事や趣味なら、私の幸福は今のところここにしか見当たらない。
大学を辞めてバイトも辞めて、趣味だった絵も描けなくなって、本を読もうにも字を追うのがつらくなって、私に何もなかった時にも彼だけはいた。彼が私の世界の全てであってくれたからこそ今の私がいる一方で、喧嘩やすれ違いがどれだけ辛くても彼と離れられない理由が、純粋な愛ではなく「彼しかいない」ことに由来するだろうことを私はどこかで分かっていた。そして彼が私の隣にいる限り、私は「彼以外」を見つけられないかもしれないと思った。だって私の世界は私と彼で満たされているのに、他のものを探そうとしたって全てが曇って見える。満たされていると言ったってそれは、お互いを鰹節のようにして削り取ったその肉片でむりやりに満たしていただけなのだけど、この歪んだ関係を終わらせたいと思っても、世間知らずだった私には知らない世界にひとりきり放り出されることが怖くて出来なかった。
たまごをひとつのカゴだけに入れてしまえば、そのカゴがだめになると全部割れてしまう。だから依存先を分散させなければ、ひとつを失うと一気に崩れてしまう。よくある例え話だ。そんなことはとっくに分かってる、分かってるからといって、簡単に出来たら苦労しない。他のカゴに入れようにも、他のカゴなんてどこにも見当たらない。
彼は私にとって親鳥みたいなものだ。外の世界に初めて連れ出してくれたのが彼だった。ただもしも私が彼を選んだのが雛の刷り込みだったとしても、私は彼を選んでよかったと思っている。それでも雛はいつか、巣を出て飛び立っていかなければならない。離れたくないからと親鳥を籠に閉じ込めても、いずれどちらも飢えて死んでしまう。
だから私は別れを告げた。
するとどれだけ机に向かっても何も描けず、何も作れなかった私の手に、突然ものを作る力が戻った。
ガラスのビーズ、金のリンゴ。手紙型のチャーム、サテンのリボン。見ているだけでとめどなくアイデアが溢れてきて、捕まえるのに苦労するほどだ。ずっと空っぽだった私の世界が、あっという間に美しいもので満たされる。きっとそれは突然現れたのではなくて、長い間塞き止められていたものが一度に流れ出したのだろう。塞き止めていたのはきっと、私自身だ。
かつて私がいた場所、牢獄のような薄暗い自室、抜け出せない深い深い闇。そこからみた今の場所は眩しすぎる。
今私がいる場所、時にはくたびれたり、どこにもいきたくなくてうずくまったりもするけど、自分の足でどこへだって行ける。ここから見るあの場所は、今となってはもう手を伸ばしても届かない場所。いつだってすぐ側にいた孤独も、少しずつ形を思い出せなくなっていく。その輪郭をなぞるように、私は作る。
光も闇も、どんなものも取り込んで、私の世界はどんどん大きくなる。素晴らしくなる。今日は何をしようか、あれもこれもしたくて時間が足りない。少しも留まっていたくない。
だから、今は彼氏はいらないかな。あ、でも、私好みの変人で私の世界を広げてくれるような人が私を好いてくれるなら、その限りではない。その人のためなら、足りない時間を無理やり作ってでも会いに行く。だけど居るか居ないかも分からない運命の人を、わざわざ自分から探しに行くほどには暇じゃない。今は彼氏はいらないという他の女性達も特別恋愛に淡白なわけじゃなくて、案外こんなものなのかもしれない。
かつての孤独だった私でも、勇気を出して助けを求めれば、人はそれぞれのやり方で助けてくれた。だけど、誰かに全てを預けることなんて結局はできない。私の代わりに歩いてくれる人はいない。だから自分の足で、ひとりきりで歩いていかなくてはならない。籠の中に閉じこもっていた頃はそれをたまらなく辛いことだと思っていたけれど、外の世界も案外悪くないね。いや、まだまだ全然悪いけれど、せめて私のまわりの世界だけでも良くするためにいろいろするのがなんだか楽しくなっている。どうせ死ぬまでの暇つぶしなのだから、とびきり面白いことをしたい。
鳥籠のなかに閉じ込められた真珠。その籠に捕まっているのは彼かもしれないし、私自身かもしれない。或いはその両方かもしれない。どちらにせよ、今ではもう過去の話だ。
『愛の虜』
『愛の虜』イヤリング・ピアス
『愛の虜』イヤリング・ピアス