『スターライト・レディ』
年下の友人ができた。30コ下の。
若いのに、仕草が綺麗な女の子。身につけるものがお店では見かけないものだから、訊ねると彼女の手作りなのだと教えてくれた。控えめながら美しく個性的なそのブレスレットのように、彼女自身もまたそうなのだろう。
彼女はよく、自分は平凡だと言う。言い聞かせるような言葉にも聞こえるし、彼女ではない他の誰かの言葉にも聞こえる。あるいは、かつて私にも聞こえていた言葉。自分は世界の中心ではない。この世界の主役は自分ではない。脇役にすぎない私は、身の程をわきまえなければならない、と。
そうではないのだと、言ったところで何になるだろう。目の前の盤上にだって、主役と脇役がいる。最後まで護られるキングや盤上を縦横無尽に駆け回るクイーンと違って、ポーンは真っ直ぐにしか進めない上、簡単に首を切られる捨て駒だ。
「ああ!また負けちゃった。真由美さん、強すぎます」
「ポーンを温存しすぎるのね。慎重なのも良いけれど、切り捨てるべき場面では切り捨てなければいけないのよ」
「確かにそうかもしれないです。でも……」
彼女は何か言いたげだ。しかも、何が言いたいのかもなんとなく分かってしまった。
「ポーンは切り捨てられるのが仕事なのよ。マテリアルアドバンテージも大事だけれど、時には冒険してポジショナルアドバンテージを作り出すことも必要なのよ」
本当に言うべきはそんなことじゃないのに、戦術のアドバイスなんかをしてしまう。彼女も先程までの葛藤はなかったことに、私の言葉を真っ直ぐ聞いている。この楽しい時間を壊したくなくて、本当に伝えたいことは何一つ口にしないまま、夜までふたり語り明かした。
疑問や葛藤に向き合うよりも、大人だったり常識だったり、自分よりもっと大きいものの言葉に従う方が簡単だ。私にだって身に覚えはある。だけど友人である私の言葉まで、従うべき大人の言葉として受け取られるのは私は嫌だ。歳をとった甲斐もなく、諦めの悪いところは私の良いところだ。
「真由美さん。これ、よかったら使ってください」
ある日のカフェで、彼女が両手ほどの大きさの包みを取り出す。私はその包みを受け取ると、中が気になってそわそわした。
「開けてもいい?」
「もちろん」
夜色のリボンを解くと、中には彼女のブレスレットに使われているものと同じパール飾りのついた、リボンと同じ色の美しいレースが入っていた。すると彼女の指がそっと伸びてきて、私の手首にそれをつけてくれる。
「チェスをするときは、こっち向きにつけた方がいいかもしれません。引っかけて倒してしまうから」
「素敵なレースね。最近はこういう腕飾りが流行っているの?」
「いえ。恥ずかしいですけど……真由美さんがこういうものをつけていたらいいなと思って、自分で考えました」
「いったい何が恥ずかしいっていうの?こんなに素敵なのに」
だけど彼女は、早口で否定の言葉を口にする。
「私みたいな地味な人間がアクセサリーなんて作ってたら痛いですよね。自分でも分かってるんです」
「サイズは合ってるから少しも痛くないわよ。それに、自分を卑下するのはやめてほしいかな。私はあなたのこと大好きだから……」
彼女は考えてもみなかった、とでも言いたげだ。慌てて謝罪の言葉を口にする。だけど、私は彼女に謝って欲しいわけじゃない。
「私はあなたのアクセサリーが好き。あなたとチェスをするのが好き。あなたの表現するものはなんだって好きよ」
彼女の手を握り、両の目を見つめる。言ってしまったあとで、こんなにも大切なことをこれまで口にしていなかったことに気がついた。たったこれだけの言葉、もっと早くに伝えればよかった。あなたの、ポーンは時に捨て駒であると分かっていながら、そう割り切ることの出来ない心根が愛おしい。あなたはポーンなんかでも、ましてクイーンやキングなんかでもないのに。
「そうよ、ポーンなんかじゃない。クイーンでもキングでもないの。私たちはプレイヤーだから。勝つ時も負ける時もあるけれど、主役や脇役なんてどこにもいないのよ」
私はつい、半ば捲し立てるようにそう呟いていた。脈絡のない唐突な発言だったけれど、彼女はなんとなくその意味を理解したようだった。
「真由美さんも、……自分が脇役だと思ったことがあるんですか」
「もちろん。私はあなたが思うほど特別な人間じゃないわ。そうね……例えば隣の席の席の女性、スカートの刺繍が綺麗ね。きっとあれは手仕事ね、自分でしたのか、誰かにしてもらったのかは分からないけれど」
彼女は隣の女性をじっと見つめる。女性に気付かれてしまい恥ずかしそうに視線を逸らした彼女を見て、自然と笑みがこぼれてしまう。
「誰もが自分だけの美意識や世界観を持っていて、私のはたまたま人に分かりやすい形なだけ。その分、素敵って言葉も貶める言葉も他人より多くもらってきたわね。もちろんそんな中で、自分を貫くのは勇気が必要だった。だけどそうすることができたのは私が主人公だからじゃない。私の代わりを誰もやってくれない、私の世界を表現できるのは私しかいないと気付いたからよ」
彼女は一瞬はっと顔を上げて、しばらくするとまた俯いてしまう。そして私に、弱々しく問いかけた。
「私たちがプレイヤーだとして、特別強くもない、個性もない、平凡なプレイヤーにも価値はあるんですか」
絞り出すような声に胸を刺される。せっかく頑張っても、結局は誰かの代わりだった。身の程をわきまえるというのは、自分はいつでも「代替可能」で、いくらでも代わりがいるということを自覚するということだ。大量生産のパーツにキズがつけば、ひとつやふたつ簡単に捨てられてしまうのと同じで、傷つけられたり軽んじられたりすることを受け入れろということでもある。
特別優れてもいない、個性もない、平凡な人間に価値はない。もちろんこれに反論しようと思えばいくらでもできる。だけど今、そんなことに何の意味があるだろう。
「あなたは誰に、自分の価値を見せつけたいの?全人類?偉い人?私はそういうのにはあまり興味がないので分からないわね」
ちょっと嫌味ったらしかったかしら、と彼女を盗み見る。どうやら嫌われてはいない。と、思う。
「価値があるとかないとか、それってそんなに大事なことなのかしらね。個性を大事にといいながらその実、選ばれるのは軍隊のように従順な人間だったりする。そして選ばれた後で彼らが大事にされてるかというと、そうではなかったりするわ。いつでも蔑ろにできる、意思のない人間を求めてるだけ……とかね」
彼女の喉が大きく動き、唾を飲み込む音がした、気がする。実際はこのカフェのにぎわいの中そんな小さな音が聞こえるはずもなく、ざわめきの中に溶け込んでゆく。
「選ばれることが価値だとするなら、売れないものは価値がないことになるわ。中身がなくても、広告詐欺で山ほど売れた商品には価値があることになる」
「そんなの、違う」
「好かれることが価値だとするなら、自分自身を偽って、アイドルのような偶像として生きることだけに価値があることになる。そして地味で誰にも知られないけど人を助けているような仕事には価値がないことになる」
「それも、違う……」
「大切にされるのが価値だとするなら、人を騙して貢がせることが価値があることになる。なんの罪もないいじめられっ子には価値がないことになるわ」
「そんな……違うに決まってる」
「じゃあ、あなたは何が価値だと思う?」
「なんだか、分からなくなってきました」
「あなたが決めていいのよ」
「私が……」
沈黙が流れる。グラスの水滴が、身を寄せあって伝い落ちる。
「私……」
「うん」
「どうしたらいいか分かりません」
空のグラスの中で、溶けた氷が崩れ落ちる。カランという音が喧騒に消える。
「怖いのね。自分で何かを決めることは、誰にとっても怖いことよ」
「真由美さんも?」
「もちろん。ひとつひとつの出来事にあれのせいとかこれのせいとかいうことはできるけれど、結局私の幸せに、誰も責任を負ってはくれないもの」
彼女は真剣な眼差しで私の言葉に耳を傾けている。説教がしたい訳じゃないのだけど、歳をとるとどうも説教くさくなってかなわなあい。だけどきっと、彼女には必要な言葉だ。
「自分一人の責任でひとつの人生を生きるというのはとても怖いこと。だけど、誰かにその責任を預けるのはもっと怖いことよ。名前も知らない誰かや、誰でもない有象無象の群衆が作った舞台に、自分自身の名前が刻まれているようなもの。あとからそんなの知らないって喚いたって、それを選んだのは自分自身なのよ」
チェスのように、勝ち負けがついてしまうこともある。だけどそれも、人生という舞台の一部にすぎない。観客は自分ひとり。生まれてから死ぬまでの全てを、ずっと見守っていてくれるのは自分しかいないのだから。
「私、自分ではない誰かのせいにしたかったのかもしれないです。自分には価値がないって思っていれば、頑張らなくて済むから。自分が上手くできないのも頑張れないのも、仕方がないことにしたかったんです」
「そうね。戦いの場に身を投じなければ勝ち負けがつくこともない。だけど、私とのチェスで負けてあなたはなにか失った?」
「失ってないです。むしろたくさんのものを得ている……と思います」
「そう、勝ち負けって、人間の価値じゃないの。そこからなにかを得たいから勝負をするだけ。本当に強いひとは負けを知らない人じゃなくて、負けからも何かを得られる人のことだと私は思うけれど」
「確かに、そうかもしれないです。私、何を怖がっていたんだろう。ううん、自分の大好きなもので負けるのはやっぱり今でも怖いけど、でもチェスと同じですよね。負けても、そこからもっと強くなっていくのはきっと楽しい」
彼女は憑き物が落ちたようにほっとして笑った。傾きかけていた日は完全に落ちて、明るい星があちらこちらに光を滲ませはじめる。少し車を走らせて、星を見ようか。彼女は嬉しそうに頷いて駆け寄ってくる。ミッドナイトブルーの髪飾りに、星のチャームがちらちらと瞬いている。
「あ、一番星」
「今日は金星が綺麗に見えるわね」
「あの星はきっと真由美さんだね」
「私のことが一体どんなふうに見えているのよ。それじゃあなたは?」
「私は、あれかなあ。あそこに見える暗い星」
「今はまだ空が明るいから。今見えてる星は全天の中でも明るくて、夜になればもっと輝くのよ。だけどね、人は星じゃないわ。一等星や二等星みたいに、数字をつけられたりしないもの」
「そうですかね。私はやっぱり、才能豊かな人とそうじゃない人は違うと思います。一等星みたいに輝ける人もいれば、誰にも見つけてもらえない星もある」
「一等星の人とそうじゃない人はどんなところが違うと思うの?」
「そんなの、何もかも違います。才能があれば、いろんな人の役に立てるし……」
「役に立ちたいの?」
「うーん……違うかも。何かすごいものを作ったりしたいのかも」
「私もよ。結局昔思ってたようなすごいものは作れずに今まで生きてきたけど、それとは違う素敵なものをたくさん作れたし今も作ってる途中なの。すごいものを作った人達は、自分にすごいものを作れると確信していた人ばかりじゃないと思うわ。自分に本当にそんな才能があるのか、もしあったとして、それを出し尽くして死ねるのか、悩み続けてそれでも作りたくて作ってきた。自分が素敵だと思うものを作りつづけて、それが気付いたら、すごいと言われるものになっていただけよ。きっとね」
「そっか……。才能があれば悩まないなんて、そんなことないのかもしれない。それに、誰かにすごいと言われるものと自分が素敵だと思うものが違っても、それでも作りたいから私だって作ってるのに」
「そうよね。あなたの作品からは、あなたの作りたいっていう気持ちが伝わってくる」
「作りたいって気持ち、ずっとここにあったはずなのに忘れていました。私、まだ考えないといけないことがたくさんある気がします。才能があれば全て解決するのに、こんなに悩むのは才能がないからなんだって……。そんなふうに思って諦めたら楽になれるかもって、どこかでそんなふうに思ってた」
「人生を賭して何も得られなかったら、辛いものね。でも、やりたいことがやれたならそれだけでよかったって、意外と思えるものよ」
「それって、真由美さんのこと?」
「バレちゃった?そうよ。昔からね、自分が作ったもので食べていきたいって思ってたのよ。絵画、小説、写真、なんでもやったわ。でも、お金にするのって難しいのね。今の仕事も気に入っているけど、本当に私が作りたいものを作れるのはやっぱり仕事以外の時間だけなの」
「真由美さんでも無理だったなら、私に何が出来るのかな。私は、何かになれるのかな」
「何も出来なくてもいいの。何にもなれなくてもいい。夢は大きい方が良いなんて言うけれど、私はそうは思わない。小さくてもあなたが大事なものをなんとしてでも守り抜きなさい。気付いたら、大きくなっているものだから」
私を見つめる彼女の瞳の中で、街の明かりが歪んで、揺れた。歳をとるのも、案外悪くないものだ。彼女の手首のブレスレットは、星明かりを受けて鈍い光を放つミッドナイトブルーの隙間から、ちらちらと星飾りが瞬いている。ふとタンスに、それはそれは美しい生地が眠っているのを思い出す。金色の刺繍がきらめく、星空のようなネイビーのサテン地だ。彼女に贈ったら、何を仕立てるだろう。華やかなよそゆきのワンピース、マーメイドフレアの上品なスカート。ミッドナイトブルーのパールを首飾りにして、ふたりで街を歩きたい。
「あ、オリオン座」
「本当ね。だいぶ暗くなってきたみたい」
「上の方に見えるあれは?」
「ぎょしゃ座ね。六角形みたいに見えるでしょう。その下にはふたご座が見えるわよ。あと、こいぬ座も」
「ええ、どれ?全然分からないよ。真由美さんはなんでそんなに分かるの?」
「題材にしようと思って調べてたらいつの間にか詳しくなっちゃって。長く生きているとこういうものが増えてね」
「そっか。私も真由美さんみたいになれるかな」
「じゃあまずはふたご座からおぼえましょ。ふたご座の中でも明るい星はもう見えるから、なんとなく形が分かるわよ」
「どれ?どれ?」
「ここに寝転んで探しましょうよ。車にあったレジャーシートを持ってきたから」
「やったあ」
いつの間にか彼女は「です」も「ます」も言わなくなっていた。彼女の隣に仰向けになって星を眺める。遠くに少し街明かりが見えるけど、寝転んで見上げれば視界の隅に沈んでいった。ひとつ星を見つけるたびに、嬉しそうに私に笑いかけてくる。あなたの笑顔が、私にとっての星明かり。
『スターライト・レディ』
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https://note.com/hanasaki_h/n/n38d5b344a84d