聖書と衣食住 2nd season in 畑野町〜ライフデザイン編〜
健康と衣食住のデザインと聖書研究をはじめてちょうど10年。
この10年で、健康的・環境的なライフスタイルが、かなり流行してきてる。
なのに、一定の知識で止まったまま自分がデザイナーとして成長していないことも感じてて、「心と体の健康」を、もっと奥深いところで研究したいと願いながら、畑野町に導かれました。
畑野に来て、科学的・哲学的な自然農というものに触れ、農家さんからいろんな話を聞く日々。「人間にとって良いとされるもの」を、さらに聖書視点で落とし込み、知識がどんどんバージョンアップされています。
…とは言え、やっぱりカルト化されたライフデザインに嫌気がさしているのも事実。
健康的・環境的な衣食住と呼ばれてるものの中には、誤った認識のもとで崇拝され、キャンペーンされているものもある。
それでふと「私は何のために食と暮らしを勉強しているのか」を考え、導かれたことをシェア。
自分にとって良いもの≠みんなにとって良いもの
自分の心と体がおかしくなったのがきっかけで、食と健康を勉強しはじめたころ、人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きることも学び、宣教師を目指し始めました。
何がきっかけで心が壊れて、
何がきっかけで体が壊れて、
何が心と体のバランスを崩し続けているのか。
それで私が出会ったのが聖書的食療法と生活デザインでした。
もともと聖書とファッションの分野を開拓しようと思っていたのだけど、聖書の中には、食においても生活デザインにおいても、真髄が記されていることがわかって、「聖書」による「健康を作り出す衣食住」を研究し始めました。
聖書の教えと、栄養学的な知識、生物学的な知識から導き出される「良い衣食住」を探し出して、宣べ伝えよう!と、めちゃくちゃ熱心に勉強しました。
でもそれは、「私にとって良いもの」だっただけで、「みんなにとって良いもの」と勘違いしていました。
良いものだと思って提供してみれば、好きじゃない、と拒まれ(まるで福音みたいでしょ)
自分にとって良くないものだからと、与えるのをやめれば、それがストレスとなり弊害が起こる。(まるで他宗教否定派とおなじ)
教育現場でも、良いものだと思って提供し、不調が改善する子もいたけど、改善しない子どもいました。
__そう、私が知っていた知識は、単なる一般論、単なる聖書知識で、目の前のその人に落とし込めていませんでした。
…そんなの医療現場じゃ当たり前のことなのに、宣教師の落とし穴ってやつ?
「こういう時これがいい」ではなく、「今のこの人にはこれがいい」というものを見つけ出さないと、その人は良くならない。
逆に、「私にとって悪いもの」が、その人にとっても悪いものとは限らない。
「良いものを与えること」も「悪いものを避けさせる」のも、私は人に押し付けようとしていました。
高価になり続ける「良いもの」
そんな自分とは反対に、世間は逆を進んでいます。
すべての「良いもの」は神からのもので、人はそれらを使って商いをします。
私もそうしていました。
最近の市場において、「体に良いもの」はブランド化され、売れ続けています。
そして一部の熱狂的な「良いものファン」が、「良いもの推進運動」によって「良いものパンデミック」を起こし、次のファンを獲得しようとします。
…ネットワークビジネスが相まって、「良いもの」はビジネス化・ブランド化によって、どんどん高価なものとなり、稼ぎまくっています。いわば成功状態なので、カルト化しやすい分野です。
するとどうなるでしょう。「良いもの」を手に入れたいのに、高くて手に入れられない人たちが出てきます。( わが家もそのひとり。)
一方で、ある人たちは、「良いものを高く売る」のではなく、”たくさん”生み出す術を開発しました。よりたくさんの人に買ってもらうためです。
たくさん作り出されたものは、比較的安価な値段で手に入れられます。
しかし、「体に良いもの」を知っている人から見れば、それらは「体に良くないもの」に値します。(すべてがそうではないけれど。)
でも低所得者にとって、それほど有難いものはありません。
わが家も、財産を打たれてからは、「良いもの」を知っているのに、買うことができなくなっていました。
それなのに聖書は、「貧しいものに施しをせよ」と教えるのです。
貧しい人へ、良いものを
貧しいと、良いものが手に入らない人がいる。
良いものを高値で売って、良い暮らしをし続ける人がいる。
いやもう、そりゃ僻むよね。笑
でも、それなら良いものを知っている貧しい私は、貧しい人のために何ができる?って考えてみることに。
結論は至ってシンプルです。
__私は、貧しい人たちに、良いものを提供したい。
貧乏育ちからちょっと余裕ができて、また貧しくなってを繰り返してみると、「貧しいと、良いものを選択することができない」ということがわかった。
でも、もとはすべてが神様のもの。だから、貧しくても良いものを手にいれる道が、必ずあるはず。
その道を、新たに模索したい。
そして、貧しくても豊かに暮らせる道を、照らし出せたらいいなぁって思う。
そんなことを考えてると、途上国もいよいよ近いのかなーとか、次はどこの町かなーとか、何のための今かなーって、眠れなくなっちゃうんだけどね。