最後の真珠をいただきました
15年前うちに来てくれた家族が亡くなりました。忘れたくないから文章としても残しておこうかなと思います。
それはそれは、わたしの中でいちばん可愛い存在でした。ついついみんなにも見てほしいと思っちゃうくらい!
正直、最初に母から「犬を迎えよう」と聞いたときは反対の気持ちが強かったです。犬は人間より早く居なくなってしまうし、悲しい気持ちになるとわかっているのに嫌だなぁと思ってました。
初めて会ったとき、ペットショップで一緒のケージに居たマルチーズちゃんに押しつぶされてる君を見て、「はやく救出して一緒にお家に連れて帰らねば」と思ったのを覚えています。手のひらサイズの君は新しい家族を迎えるのを渋っていたわたしの意地なんて吹き飛ばすくらい可愛かったなあ。
すごく小さくて可憐な姿なのに、一緒に山登りに行ったときは誰よりぐいぐい前を進んでいたね。山道でも普段の散歩道でも、一緒に歩いてる人が遅れてると心配して振り返ってくれる心配性で優しい子でした。
すごく小さくて可憐な姿なのに、道で「可愛いね」と言ってくれる人に対しても吠えちゃうびびりで内弁慶で困ったちゃんなところもありました。
寂しがりやなのに両親ともに共働きで、わたしも弟も学校があったから日中ひとりにしてしまうことも多くてごめんね。家帰るとすごく熱烈に出迎えてくれて、そのまま毎日10分くらい一緒に大騒ぎしていたこともいい思い出です。
亡くなってしまったときは、今までと同じ姿には思えなくて、手の届かないところに行ってしまったようで呆然としたけど、何日かみんなで昔の写真を見返しながら思い出を話しているうちに、これまでもいろんな姿を見せてくれてたことを思い出しました。別物に感じても、これも絶えず変わっていく姿のひとつなのかもしれない。
アンデルセンが書いた『最後の真珠』では、生まれた子どものために妖精があらゆる幸せの真珠を贈ります。でも、たったひとつだけ足りない真珠がありました。
足りなかった最後の幸福の真珠は「悲しみ」で、ずっと昔はじめて読んだときには幸福と悲しみが繋がらず、今ひとつ納得できなかったのを覚えています。
今、周りを見渡してもひなたは居なくて、それがとても悲しくて。正直まだ涙も鼻水も止まらないし、ごはんもなかなか味がしない。でもだからこそ本当に今までの日々がとてもかけがえのない満ち足りたものだったと、この悲しみが改めて教えてくれている気がします。15年前のあのとき、家族になる選択をして本当によかった。
何かを選択した結果、苦しかったり悲しかったりすることがあるかもしれないけど、同時にそれ以上の得がたい喜びがあるかもしれないことを知りました。
わたしに最後の真珠をくれたのかもしれないね。お別れは悲しくても、今まで一緒に暮らせたこと幸せでした。
目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、歩きづらくなってもいつも一生懸命わたしたちの姿を探してくれたし、楽しみを見つけてたこと忘れないよ。またどこかで会える日を楽しみにしているね。
選びきれなかった写真たち
ここからは選びきれなかった写真を置いておこうと思います。