存在証明。
私のすきなワークショップの一つに、「NVC共感サークル」というものがある。初めて出会ったのは3年前くらい。
すごく簡単に説明してしまえば、少数人グループで「最近の感情が動いた話」をしながら、私が大切にしている価値観はどんなものなのか、相手と一緒に考えていくワーク。人間関係のあり方やコミュニケーションの取り方を考えるワーク。だと私は理解している。
先日も、この自粛ムードの恩恵を受けてオンラインのワークショップに参加した。
どうやら私は「感情が動いた話」をストックするのが得意なようだ。
よく、気にしすぎだ、考えすぎだと言われてしまうけれど、正確には、きっと、毎日の中の小さな小さな出来事に感情を動かされることが多いのかなと思う。
一見 多くの人 が気にも留めないようなことに違和感を持ってしまうのも、もう一度自分の頭で考えてしまうのも、それゆえに ゆっくり なのも、それが私なのかもしれない。
“The power of people against poverty”
私のこれまでの短い人生の中で、やはり特別に思い入れのある組織の国際NGO OXFAM が大事にしている言葉。構造的な社会の不公正に対して、人々の力で変えられると信じているところが、私がオックスファムの好きなところ。
オックスファムと出会って、活動を共にしてきて4年。私はオックスファムが「人々の力」を大事にしていることを知っていて、惹かれているのに、どうしても私自身の力 を信じることができない。
私が「NVC共感サークル」が好きなのも、(今よりもっと)知識がなく、根拠もなく、社会や社会を変えようと唱える人々への言語化できないモヤモヤだけを持っていただけの私が「感情の動いた話」をするだけで、ワークショップの登場人物になれたからだ。今まで、不必要だと思っていた私の「気持ち」が、メインだからだ。
でも同時に、私が「NVC共感サークル」が楽しめる人だとしても、インフルエンサーでもないし、いつも目の前のあの子の選択を変えられるわけでもないことを知っていた。
今この瞬間も、少しづつ、リアルタムで変化する世界の状況に対して、最前線でせっせせっせと応急処置をし、顔を見て寄り添って、頭を悩ませる人たちが王道のアクティビストなのだと思う。
私はそういう人たちをたくさん知っているし、リスペクトの気持ちを持っている。でも、私は王道じゃなくて良いのかもしれないな。そういうやり方で戦う人になろう。もっとゆっくり考えてもいいんじゃないか。
セブンスター7ミリソフトの40円のお釣りで肯定されてきた大学生活のおかげで、私は自分の力なんてすぐ信じられなくなるし、友達 が分からない、家族 が分からない。
だけど、「NVC共感サークル」で出会った人、オックスファム界隈で出会った人、その話で一緒に議論できる人たちのことを思い出して、私は今少しだけ「自分を肯定する力」を取り戻している。
本当に毎年毎年、誕生日前に「人に祝福されていいのだろうか」「祝福される人間なのだろうか」と不安でたまらなくなってしまうけれど、今年はたくさん投資して頂いて、十分すぎる祝福をもらってしまった。何年後か、分からないけれど、みんなが「投資してよかったな」と思えるように私はキラキラしていたいな。
自信がなければ、それを埋めにいけばいいじゃないか!とギラギラしていた留学前の自分を思い出しました。私はやっぱり、考えるのが好きで、人で悩むのだなあ。
私の大事な大事なM2の春。戻ってこないなら、無駄にしたくない、オーストラリアの海を添えて、
肯定されたくてたまらない と思いながらギリギリ生きています。