カストア教会(コブレンツ/ドイツ) その1
note向きではありませんが、趣味の翻訳。カストア・バジリカ教会配布の案内書。1ユーロくらい。その1は歴史で、その2は内装です。
【歴史】最初のカストア教会は、紀元836年11月12日に聖別されました。聖別された記録は、「ウィーン古文書」と呼ばれるルードヴィッヒ1世(カール大帝の三男)の伝記の付録に記されています。この記録は、テーガン内陣司教という人物によって手書きされました。当時コブレンツは王国領であったため、ルードヴィッヒ1世は教会の所有者であり、建築者だったと考えられます。
1990年、考古学的調査によって、この場所がキリスト教伝来以前から数世紀に渡って、祭礼のために使われていたことがわかりました。古代ガリア=ローマ帝国時代であった1世紀には、この場所に寺院が建っていたのです。寺院は少なくとも7世紀初頭には、キリスト教徒の墓地に囲まれた墓所に変わりました。
最初の建物は、長方形のクワイヤ(内陣)のある集会所でした。おそらく紀元900年より前に、半円形のクワイヤが建て増しされました。同じ頃さらに増築され、参拝用、または屋外の円形墳墓が、先ほど述べたかつての墓所とつながりました。やがて円形天井が追加されることによって、構造物全体が拡大しました。今も教会の外側にある玄武岩の石組みが、円形天井の形跡です。側廊は10世紀に作られ、12世紀には現在の教会の大きさになりました。2回目の奉献は、増築の完成に伴って、1208年7月17日に行われました。
現在の西側入り口は1050年に作られ、塔の上段は1180年と1230年に完成しました。1496年から1499年にかけては、特筆すべき内装の変更がありました。夜空が描かれた後期ゴシック様式の交差天井梁が、側廊の中心と身廊の交差部に加えられたのです。その後、翼廊や側廊の残り部分、長方形のクワイヤにも施されました。教会は平屋根でしたが、梁天井にしたことで、以前よりも幅が減少しました。
最初の聖別のすぐ後から、教会では神聖ローマ帝国の歴史上で重要ないくつかの会合が行われました。842年、110人の王による評議会が行われ、フランク王国を3つに分割し、ルードヴィッヒ1世の3人の息子たちに統治させることを決議しました。1年後、ヴェルダン(北フランス)にて、これにかかる契約書面に署名がなされました。860年6月、カロリング王朝の人々は内政の不一致を協議するためにここに集まりました。922年、皇帝ハインリヒ1世はここで宗教会議を主宰しました。これに続く時代にも、多くの会合が開催されました。1138年、王たちの評議会はコンラート3世をドイツ王(事実上の神聖ローマ皇帝)に選出しました。1338年、神聖ローマ皇帝であるバイエルンのルードヴィッヒ4世とイングランド王エドワード3世との友好条約はここで破棄されました(100年戦争)。
神聖ローマ帝国が終焉を迎えた1803年まで、カストア教会は由緒正しい墓地でした。西側の墓地へと続く立派な回廊がありました。歴史ある教会の慣例に従って、墓地は教会の西側に配置されていました。墓地の入り口には、死者の世界への案内人であるミカエル天使に捧げられた礼拝堂がありました。入口付近にある1963 年に作られた退役軍人の記念碑に、このモチーフが使われています。このように、西端における芸術のテーマは”終末”を踏まえたものなのです。西側の窓もそうだと言えます。これは”最後の審判”で、口から出る剣が審判を表現しています。
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