自分の姓を使えない不便さは、雨の日のお出かけと似ている
自分の姓を使えない、もしくは旧姓と戸籍姓を使い分けなければいけない不便さは、雨の日のお出かけに似てるな、と思う。
雨の日に出かけるのは、多くの人が大なり小なり憂鬱になる。
屋外での活動は制限されるし、傘をさしてても濡れるし、荷物が多いと大変だし、風が強いと傘が煽られるし、バス停で濡れた傘を閉じるのに手間取るし、いつもより混んでる電車で他の人の濡れた傘が当たったりするし、どんより暗いので、気分的にも落ち込むし……
一つ一つは些細なことだ。
余程の大雨ではない限り、目的地に辿り着けないということはないだろう。
でも、目的地の屋内でぬくぬくと待っていた人に、雨で大変だったんだ〜と言ったら、「別にたどり着けたんだからいいじゃん」としれっと言われたらつらいものがある。
自分の姓を使えない、旧姓と戸籍姓の使い分けが必要になるという不便は、ひとつひとつが小さくても、いろんな場面でぶつかるものなので、つもり積もるとなかなかのストレスである。
そして、「余程の大雨でない限り」と注釈をつけたが、シャレにならない大雨が降ることもある。
そうなれば、目的地にたどり着くどころか、洪水が起こって命の危機にさらされたりする。
どちらの姓にするかで折り合いがつかず結婚できなかったり、仕事で大いなる損失を被ることだってある。
自分の姓が使えないということは、こうやって雨に降られたり、時に大雨で存在の危機にさらされたりするようなものなのだ。
そんなことを思った、雨の日の朝でした。
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