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選択的夫婦別姓に託す、私の願い

私は、切実に選択的夫婦別姓を求めている。

なぜ、私が別姓を希望するのか。そこにはさまざまな思いがある。

個人的な理由もあるし、社会的に選択的夫婦別姓が要請される理由もたくさんある。
ここでは、そのどちらにも触れているが、系統だった説明というよりかは、実際に数ヶ月前に結婚し、自分の姓を変えたことにまつわるもやもやとした思いを中心に語っている。

こういう思いを抱いている人がいるんだ、ということを知ってもらえればそれほどありがたいことはない。

1.自分の姓を名乗り続けたい

冒頭で、別姓を希望すると言ったが、「自分の姓を名乗り続けたい」という思いの方が正確だ。
生まれてから二十数年使い続けてきた姓には当然愛着があるし、大切なアイデンティティのひとつである。

とはいえ、自分の姓という存在は当たり前すぎて、私自身、結婚を考えるまでは意識してこなかった。でも、いざ結婚して姓を変えなければいけないとなった時、心の底から「嫌だ」という気持ちが沸き起こってきたのだ。

毎日毎日、数え切れないほどの回数、自分の名前としてこの姓を名乗り、紙に書き、人からも呼ばれてきた。

まさに姓は自己同一性(=アイデンティティ)なのだ。自分という存在を自分や他人が認識するために与えられた、大切な印だ。

私はありふれた苗字で、特別思い入れがあるわけではないと思っていたが、その大切な印が変えられてしまうということに強い悲しみと、なぜ、という気持ちを感じずにはいられなかった。

もうひとつ、感じた違和感がある。
家制度が廃止されてから、嫁に行く(夫の家族の一員になる)という概念はなくなったはずだが、結婚する、そして夫の姓になるということは、夫の一族の一員になるのだという考え方が今でも根強く残っている。

夫の家族が嫌なわけじゃない。でも、私は、夫と2人で新しい家族になるという意識はあるが(戸籍上も、2人で新しい戸籍を作るのだから)、夫の家族の一員になるという意識はない。
夫の家族はあくまで夫にとっての家族であり、適度な距離感で仲良くできたらいいなと思っている。
だから、大切な存在ではあるけど、夫の家族の一員として扱われるとしたらそれは違う、と言いたくなる。

2.「好きな人の姓に変わるんだから、嬉しいでしょう?」

大切な印を変えられてしまうのが嫌だ、と言ったが、好きな人の姓に変わるんだからいいじゃないと思う人もいるかもしれない。

もちろん、大好きなパートナーの姓に喜んで変えたいという人もいるだろう。それは素敵な考えだと思う。

でも、世の中にはいろんな人、いろんな夫婦がいる。

例えば、趣味や好みが似通っていて休日はいつもふたりで過ごすという夫婦もいれば、それぞれが好きなことに打ち込んで干渉しすぎないという夫婦もいる。

どちらがいいとか、どちらがより愛情があるということはもちろんない。

そして、後者のような夫婦に、「いや、夫婦はいつも一緒にいるべきだ。夫(妻)の趣味に合わせろ」と言う人はあまりいないのではないだろうか。
それは、合わせることがイコール愛なのではないし、お互いが心地いい形にするのが一番だということが分かっているからだと思う。

姓も同じことだ。
同姓にすることで家族として一体感を感じるから良いという夫婦もいれば、さまざまな理由からお互いの姓をそれぞれ名乗りたいという夫婦もいる。
ただそれだけのことだ。

3.断腸の思いで改姓しても、1ミリも感謝されない

現状、婚姻時に改姓するのは96%が女性側である。私もその一人だ。

本来は、家制度が廃止され、民法が改正されてから、夫の姓、妻の姓、どちらにしてもいいことに「一応」なっている。

ただ、96%女性が改姓し、それが当然とされている世の中で、4%に入ることを目指すのは相当厳しい。

私は姓を変えたくなかったので、夫の側に姓を変えてもらう選択肢も一応思い浮かべてみたことはあるのだが、あくまで私は自分で自分の姓を名乗りたいというだけで、夫に自分の姓を名乗ってほしいわけではない。それに、一番怖いのはやはり夫の両親に何と言われるか分からないということだった。

どんなに嫌でも自分が姓を変えるしかない、と決定的に思い至った出来事がある。

同じようなタイミングで、知り合いに結婚を考えていたカップルがいたのだが、彼女の側が家庭の事情からどうしても姓を変えたくなかったらしい。そこで2人で話し合い、了承のうえで彼の側が改姓することにしたそうだ。
ところが、その話を彼の両親にしたところ、猛反発をくらい、大喧嘩になり、結婚を白紙に戻されたという。
結局全く折り合いがつかず、そのカップルは別れることになってしまった。

彼女は、彼と住んでいる場所が離れていたため、彼と一緒に住むべく彼の家の近くの職場に内定までしていたのに。彼女の気持ちを考えるとあまりにも悲しくつらい気持ちになった。同じくらい、強い憤りも感じた。

もちろん、彼の家にも何か苗字を継がなければならない事情があった可能性もある。だから、一番悪いのは選択的夫婦別姓制度がないことだし、それを作ろうとしない政府である。

でも、仮に彼の家にそういう事情があったとしたら、彼の両親は猛反発するのではなく、「うちにもこういう事情があるんだ」と懇願しないとおかしいのではないだろうか?なぜ怒るのだろう?

答えは簡単である。「女が姓を変えるのが当然だ。それを男に変えさせるなんて何事だ、とんでもない。」ということだ。

私含め、中にはかなりの痛みを伴って改姓している女性がいるのにも関わらず、それが当然だとされ、感謝や労りの言葉をかけられることすらない。

私について言えば、夫には私が姓を変えたくないことを散々言ってきたので、結婚して私の側が姓を変えることになった時、とりあえず感謝と労りの言葉をかけてもらった。

しかし、夫の両親は、特にこちらから夫の姓にしたと報告したわけではなかったが、当たり前のようにそうだという認識でいたし、それに関して特に何のコメントもなかった。

もちろん現状、女性の側が96%改姓しているのだから、恐らくそうなのだろうと認識されること自体はおかしくない。

だが、そこにどんな痛みや葛藤があったかということ、そして現在進行形でいろんな不便を抱えている人がいるということまで、どうか当然だと切り捨てないでほしい。

4.改姓による損害と、ややこしい旧姓使用

姓を変えることはつらいことだ、ということを述べてきたが、とはいえ私はまだ、改姓によって被るダメージがマシな方だ、と感じている。

家を継がねばならないという事情もないし、珍しい苗字でもないし、キャリアがあるわけでもない。だが、そのような人達ははるかに大変な思いをしているのだ。

前述の通り、家庭の事情で姓を変えたくなかったがゆえに、結婚が破談になってしまった女性もその一例だ。

その他にも、自分の姓でキャリアを積み上げてきたのにも関わらず、姓が変わったことにより認識されなくなり、甚大な損失を被ることもある。(学者や弁護士など自分の名前で独立して仕事をする人を想像すればわかりやすいだろう。)
社長ともなれば、そういった損失に加えて、とてつもなく面倒な手続きと費用がかかることもある。

現在では旧姓使用がある程度認められており、損失は多少カバーされているようにも見えるが、むしろ余計な混乱と新たな不便を生んでいる。

仕事で旧姓使用するとしても、法的に根拠があるのは戸籍姓の方だから、さまざまな公的書類において怒涛の改姓手続きをしなければいけないことに変わりはない。保険証など、大事な場面で通用するのは戸籍姓だ。
ちなみに、住民票やマイナンバーカードに旧姓併記ができるようになったが、実質的意味があるのかはクエスチョンだ。それを提示して、旧姓で銀行口座等を作れるかどうかは、各企業の裁量に委ねられている。現状、結局戸籍姓でしか作れないところも多い。企業にとっても利用者にとっても、事務が煩雑になり混乱を招くだけであり、旧姓と戸籍姓の使い分けという新たな不便も発生する。

そもそも、旧姓に法的効力を持たせようとするくらいなら、シンプルに別姓を認めればいいのに、なぜ旧姓使用を拡大するというややこしい方法を政府が推進するのか、意味がわからない。

旧姓使用は、選択的夫婦別姓の代替案になりうるものでは到底ない。

5.子どもが可哀想?家族のあり方は、いろいろ

選択的夫婦別姓制度に否定的な方の意見には、「子どもの姓はどうする、そこで揉めるんじゃないか」「親子が別姓だと子どもが可哀想」というものが一定数見られる。

夫婦が別姓になれば、子どもの姓はどちらかを選ぶことになる。
確かに、そこで揉める夫婦が出てくる可能性はある。
しかし、ここで気づいてほしいのは、それは選択的夫婦別姓を導入したことで「今まで全くなかった問題が、急にぽこぽこ出現する」というわけではないということだ。

現状の強制的同姓制度の下でも、そもそも婚姻時にどちらの姓にするかで揉める、それによって結婚できない夫婦や、どちらかが(主に女性側が)損害を被るという問題が起こっている。他にも、離婚時に旧姓に戻すかそのままの姓でいくかの選択を迫られたり、子どもの姓をどうするか選択を迫られたり、再婚時にはまた姓を変えなければいけないなど、強制的同姓だからこそ起きている問題もたくさんある。

であれば、選択肢を増やす方が遥かに良いし、合理的ではないだろうか。
別姓を認めれば、ここまで述べてきたような多くの問題は解消する。新たに発生するかのように見える問題も、選択的夫婦別姓をまるごと否定するほどのデメリットではない。
同姓も、別姓も、どちらの選択肢も用意したうえで、「あとは夫婦次第」というのはいいが、そもそも別姓を名乗りたい人は、現状選択肢すら与えられていないのだ。

親子の姓が違うと、子どもが可哀想、という意見に関しては、そんなことで親子の仲の良さや子どもの幸不幸は決まらない、と一蹴したいところだが、きちんと述べるのであれば、まず、選択的夫婦別姓が導入されれば、別姓の夫婦が増え、親子が別姓ということも増えるのだから、珍しいことではなくなるだろう。(そもそも友達の親の姓など確認することもあまりないだろうし。)

現状でも事実婚や国際結婚などで親子が別姓という家庭はあるが、当然その家庭の子どもの多くが不幸な目にあってるなんてことはないし、反対に同姓の家族が皆幸せだということもない。
同姓か別姓ということで家族の幸せは決まったりはしない。

少し話はそれるが、「別姓だと子どもが可哀想」だという人は、“家族は普通こうあるべき”という自分の型に他人を押し込めていることを自覚してほしいなと思う。
「片親だと子どもが可哀想」「保育園に入れるなんて子どもが可哀想」というのと同じである。
“普通こうあるべき”という正義の型に他人を押し込め、それ以外はおかしなことだとする考えは、いろんな人を苦しめている。

“こうあるべき”にとらわれすぎたがゆえに、精神を病んだり、その矛先が子どもに向かって虐待に繋がることもある。
急に話が飛んだな、と思われるかもしれないけど、やはりこれらは繋がっている事だと思う。

6.初歩的な“多様性”

現代では、多様な価値観や生き方を尊重しようと、よく言われている。
“多様性”という言葉を上辺だけで使用していることも多い気がするが、本当に多様な価値観が併存しようと思えば、なかなか上手くいかないこともあるし、面倒なこともあるし、衝突も起きるだろう。

ただ、選択的夫婦別姓は、選択肢を増やすだけなので、今まで通り同姓を選択したい人には何の迷惑もかけないし、誰かに負担を強いたり誰かを傷つけるものではない。

そういう意味では、非常に導入しやすい、“初歩的な多様性”と言えるのではないかと思う。

逆に言えば、これさえ出来ないのであれば、多様性を尊重し合う社会など到底実現できないであろう。

なぜ多様な選択肢や価値観のある社会がいいのか、ということをきちんと話し出すとかなり壮大になってしまうので、ここでは少しだけにして、まとめにしたい。

世の中には、多数の人間が選択する“普通”の枠には収まらない人たちがいる。その人たちは、苦しい思いをしている。人並みからはじかれて、気づかれにくいところで、泣いている人がいる。
その人たちに、どうか呼吸のしやすい選択肢を与えてほしい、理解はできずとも、その人たちにとって心地いい形で存在することを認めてほしい。

それが私の願いであり、選択的夫婦別姓を望む気持ちの根幹にあるものだ。

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