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【AI時代の哲学】 身体性・感性への回帰

AIの技術がますます発展し、私たちはかつてないほど膨大な情報にアクセスできる時代となった。

料理のレシピから複雑な医学論文まで、数回のクリックで知識を得ることができる。

一方で、スマートフォンやPC越しに眺める知識だけでは捉えきれない「身体的な感覚」や「生きるための知恵」が、どこか遠ざかっているように感じられる。

そんな折、私は小学生から中学生のころに毎年参加していた沖縄での夏の体験を思い出す。

その地域には電気もガスもなく、深い密林と青い海に囲まれていた。

食器は竹を割って作り、砂浜でヤドカリを捕まえて釣りの餌にし、夕食の準備には火を起こすところから取りかかる。

私の人差し指には、その頃ナタで作った傷跡がいまだに残る。


夜になると頭上に広がるのは満天の星空だけで、エアコンなど存在しないため、島の湿り気のある空気を全身で浴びながら汗をかくしかない。

こうした環境下では、「自分がいま、生きもの一個体として何を感じているのか」という問いが、いっそう切実に身体へ迫ってくる。まさに文明化される前にプログラムされた遺伝子にスイッチが入るように。

熱さ、冷たさ、眩しさ、痒さといった感覚が五感を刺激し、身体を通じて世界と結びつく実感が芽生えるのだ。


明け方、日差しが指すその前にオキナワオオコオモリが岩場へと帰っていく。

オオコウモリが翼を広げて羽ばたく様は、沖縄独特の冷ややかな緊張感を与える。都会で飛んでいるちっこいのとはちがう。その漆黒の瞳と目が合ってしまってから、東京に帰ってからも夢にみた。

夜、砂浜に足を突っ込めば太陽の温もりを感じることができる。

高床式の寝床ではヤモリが「キュッキュッキュ」と合唱している。

今日も家屋を守ってくれてありがとうとヤモリに感謝。


火種が足りなければアダンの枯れ枝(これがよくパチパチと燃える)を探し、蚊に刺されて痒いときには海水で洗ってみる。

大げさに聞こえるかもしれないが、こうした小さな試行錯誤の連続が、頭で理解するだけの“知識”を超えた“知恵”を育む契機となる。

自然や身体の信号に対して自ら動き、感じ取ることによって、「自分は生物として生きている」という実感が深まっていく。

砂浜で咲くグンバイヒルガオ
小学生の頃、育てていたアサガオに似ている
朝顔には昼の顔もあったのか、
夜の顔はどんなもんだろうと純粋な疑問を浮かべた少年時代だった



あれから時が経ち、私は医師として働くようになった。

医療現場は、ある意味「身体性」をフル活用する場である。

患者の体に浮かび上がるさまざまな異常を診察し、触れて、評価し、治療へと結びつける。

発熱している患者の肌に触れると、身体がウイルスや細菌と戦うために体温を上げ、脈を速めている様子がダイレクトに伝わってくる。

呼吸音や心音を聴診器で確かめると、そこで鳴り響くのはまさに“生”の躍動である。

一方、息を引き取った方の身体は冷たく硬く、静まり返っている。

その姿に触れると、魂が抜け落ちたかのような空白を指先でまざまざと感じる。

モニターを見れば、電気信号がなくなっていることに気づく、でもそれ以前に生々しく死がそこに在ることを理解する。

「生」と「死」の境界を、数値化できない身体の感覚をもって知るとき、そこには筆舌に尽くしがたい畏敬の念が生まれる。

この人は一体どんな物語を紡いで来たのだろうか____。

死に様は生き様である


データベースやマニュアルがいくら豊富であっても、身体を通じてしか味わえない理解や感覚がある。

こうした医療現場での体験は、沖縄での生活を思い出させる。

自然の猛々しさと美しさを身体で体験したあの夏の日々と、熱を帯びた皮膚や死の静けさに触れる日常は、一見まったく違うようでいて、どちらも“身体を媒介に世界と向き合う”という点で共通している。

知識のうえでは把握できない微細なシグナルを読み解き、それを知恵へと昇華させるためには、自らの身体を通じて感じ取ることが欠かせない。

情報化社会では、確かにあらゆるデータが手に入りやすい。

医師の立場から見れば、難解な症例や治療法を検索すれば多くの論文やガイドラインに簡単にアクセスできるし、AIによる診断サポートの精度も高まっている。

しかし、患者の声のかすかな震えや、脈拍のリズムに宿る緊張、あるいは家族の表情といった“数値化しきれない部分”にこそ、医療の本質があると感じる。


最終的な意思決定を下すときには、身体を通じて得られる手応えや違和感が重要な手がかりとなる。

沖縄での体験と医師としての日常は、どちらも「身体性と感性」の意義を教えてくれる。

AIがいくら進化し、膨大な情報が簡単に手に入るようになっても、最後にものを言うのは、人間が身体と感性を通じて得る“生きる知恵”ではないだろうか。

データだけではわからない、汗の滲む熱帯夜の感覚や、冷たくなった身体を前にしたときの言いようのない喪失感。

それらは決して効率や数値化だけでは語り尽くせない。

身体を通じて世界を知るという営みこそ、人間が古来より脈々と続けてきた学びの原型である。

自然の中の過酷さや、医師として生と死に触れる日常を経て得たその実感が、私にとっては何よりの知恵となる。

熱帯の中で滴り落ちる汗。服もベッタリ張り付く
そんな身体性に満ちた経験も美しい。     


AI時代のいまこそ、身体と感性が与えてくれるメッセージを素直に受けとめ、そこから得た気づきを、知識の蓄積だけでは到達しえない“知恵”へと高めていきたいと強く思う。


スマホからはなれて、今週は森にでも行こうか。



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