アーサー王と神様
先日、「キャメロット」を観劇してきた。
アーサー王伝説が元となっているミュージカルで、坂本君がアーサー王を演じてる。
いやすごかった。
なにせ見終わって、涙が出てきて座席から立ち上がれなかった。
なんでこんな風になったんだろうかと考えた結果、アーサー王の感情がどうしようもなく私の心に流れ込んできたからだと分かった。
元々、アーサー王伝説は、ふんわりとしか知らなかった。
イギリスの伝説の王様、エクスカリバー、FGOに出てくる友人の推し(?)。
それくらいだった。
だから何となく、アーサー王=英雄のイメージがあった。
だけどそれがこの舞台で、いい意味で覆された。
坂本くんが演じたアーサー王は、とても人間味あふれるアーサー王だった。
若さゆえに、どんな王になるのかのビジョンがまだ持てなくて、結婚に対して不安を抱いていて、そこから愛する人=グィネヴィアが出来てどんな王になりたいか目標ができて。
争いのない理想の国にするために迷いながらもまっすぐひた走って、自分の理想に共鳴してくれる仲間=ランスロットができて、その仲間と愛する人が惹かれあってしまって、それに気づいて苦悩して。
王として法を遵守することと、人として愛する人を救うことの間で苛まれて、そして、起こしたくなかった争いが起こってしまって、仲間と愛する人と今生の別れをして。
絶望の中、理想の夢を託せる希望の存在に出逢って、戦いに向かっていく。
特に、グィネヴィアとランスロットが惹かれているところと、それについて苦悩しているところ、そして、グィネヴィアを火あぶりの刑に処すか苛むところ。
アーサー王の苦しみが、本当に本当に辛かった。
あれから、アーサー王についてずっと考えているのだけど、アーサー王にとって、グィネヴィアは同志でもあったのかな、と思う。
円卓の騎士のアイデアを、アーサー王が最初に話したのはグィネヴィアだった。
そして、王と王妃という、特別な立場。
二幕でグィネヴィアが、重圧に押しつぶされそうになる時、普通はどうするの?と二人で歌い踊るシーンがある。
普通の人ならこうするって聞いたよ!とアーサー王が提案して二人でやってみるけど、なんだか上手くいかなくて、最終的に、民衆は自分たちの生活を想像しているんだって答えに辿りつく。
崇め奉られて、敬われている、特別な立場。
それは、この世で2人にしか分からない、重圧。
そして、自分の理想に共鳴して、海を渡ってやってきてくれたランスロット。
自室にいれてるくらいだから、相当な信頼があったんだと思う。
だけど、グィネヴィアがランスロットと惹かれあっていって、アーサー王はそれも含めて独りで抱えるようになる。
たしかに、他にもアーサー王を支える人は沢山いる。
でも、皆アーサー王を敬う存在で、隣に立ってくれる人じゃない。
アーサー王の隣に立ってくれる存在。
それが、グィネヴィアとランスロットだった。
だけど、2人が惹かれあってしまって、別れを選択するより他無くて、アーサー王の隣に立つ存在はいなくなってしまった。
孤高の存在といえばカッコいいかもしれないが、それはつまり、隣に誰もいないということ。
そう考えた時、私はある一作の少女漫画を思い出した。
「フルーツバスケット」だ。
主人公の本田透が、異性に抱き合うとそれぞれ十二支の動物に変身してしまう草摩家の人達と出会い、進んでいく物語。
こう書くとほのぼのファンタジーみたいな感じがするが、全く真逆だ。
詳しくは読んでほしいのだが、透や草摩家の人々を取り巻く人間関係がとにかく重い。
その中で、草摩慊人という人物が出てくる。
慊人は草摩家の当主で、十二支憑きの皆は、どこか慊人に対して恐れのような感覚を抱いているようだった。
実は、透と関わる草摩家の人々は十二支の伝説に出てくる動物たちの生まれ変わりで、慊人は伝説で宴を開こうと言った、十二支の頂点に立つ神様の生まれ変わりだった。
そして、十二支は神様、慊人に逆らえない。
そんな慊人だが、生育環境故に、十二支たちとの絆に酷く執着していて、それが壊れないよう必死だった。
物語の最終盤の透のモノローグで、慊人に対してこんな言葉がある。
それに気づいた透は、慊人のすぐ隣に座って、言った。
「友達になりませんか?」と。
似てると、思った。
アーサー王と慊人。
違うのは、慊人は透が隣に座ってくれたけど、アーサー王は隣から2人が去ってしまった。
それでもアーサー王は、2人を赦した。
心が広いというだけでなく、このあたりは、キリスト教的な考えが根底にあるかもしれない。
フィクションではあるものの、アーサー王に隣に誰かが立ってほしいと、心から願った。