Twitterを貫く冷笑の構造

Twitterには三種類の冷笑がある。
ステレオタイプの冷笑冷笑だと指摘する冷笑Twitterで現実の物事について言及するという冷笑の三つだ。
前提として冷笑には対象が存在する。また、冷笑は位置関係において見出される。
そのため、位置関係に着目すれば自然と冷笑の構造が浮かび上がる。
ステレオタイプの冷笑における「冷笑とその対象
冷笑だと指摘することにおける「冷笑の指摘冷笑

Twitterで現実の物事について言及することにおける「Twitter現実」は全て同じ位置関係にある。
これがTwitterを貫く冷笑の構造だ。
この文章では三種類の冷笑の分析を通して冷笑とは何か、なぜTwitterに冷笑が蔓延しているのかについて考えていく。

俯瞰に潜む罠/冷笑について

冷笑について分析する上で避けては通れないのは、冷笑は一種の俯瞰的な見方だということだ。
一般には物事を俯瞰することは良いこととされている。しかし、高い視座を持ったからと言って均等に情報が目に入るわけではない。
むしろ情報の選択が生じるため、目に入る情報は個人に最適化されてしまう。

俯瞰と客観はよく同一視されるが、実際には正反対だ。客観は主観を排する努力に始まるのに対し、俯瞰は単に高い視座を持った主観にすぎない。
そのため、俯瞰的な見方に固執するならば、主張は最終的に単なる感情論になってしまう。
しかし、感情的な意見であっても俯瞰的な見方をしていれば一見正しいそうに見えるため、反論を封じ込めることができてしまう。

レッテルとしての冷笑/冷笑の指摘について

冷笑は辞書的にはさげすみ笑うこと・あざけり笑うことと定義されている。
この定義に則れば、冷笑は態度に対して使われる言葉だ。
そのため、主張が冷笑とみなされれば主張は単なる態度の表明として扱われ、中身は意味がないものとして無視されてしまう。
この点において、冷笑だと指摘することは事実上レッテル貼りである。
本当に中身がない、単なる態度の表明であれば正当な指摘かもしれないが。

主張の場としてのTwitter/現実の物事への言及について

Twitterは"俯瞰"の問題点がそのまま具現化したような場だ。
Twitterでは現実を俯瞰できる。また、フォロー・おすすめなどの機能により、個人に最適化された現実だけを見ることができる。
なにより、Twitterから現実の人について言及しても現実にいるその人から反論されることはない。反論するには同じようにTwitterという場に上がらなければいけないからだ。
現実とTwitterを連続したものとして捉えることによって、Twitterの内側からでは見えない冷笑の構造が浮かび上がる。

冷笑という行為

ここまで説明してきた三種類の冷笑には、他者の主張あるいは反論の封殺、メタな視点への移動が共通点として挙げられる。
遡って考えると、冷笑という行為の目的は他者の主張や反論を排除すること、またはそれ自体を回避することだと推測できる。
不快なものの排除や回避という、本能的な欲求が冷笑としてTwitterを貫いている。そのため、Twitterに冷笑が蔓延するのは必然である。

冷笑ブーム

Twitterには以前から冷笑が蔓延しているが、冷笑という文字自体を目にする機会が多い現状は冷笑ブームとでも呼ぶべき異常事態だ。
しかし、わたしは冷笑ブームは冷笑の終わりの始まりだと考える。
Twitterは主張の場だが、単なる娯楽でもある。
冷笑ブームの本質は冷笑の消費だ。冷笑という言葉は単なるネットスラングに成り下がり、いずれ忘れ去られるのだ。

あとがき/冷笑の時代の終わり

色々と書いていますが、冷笑の時代はそのうち終わるだろうというのがわたしの解釈です。
冷笑という言葉が特定のコミュニティに留まらず、一般のユーザーにも浸透しつつある状況でのこのような主張をすることは逆張りに見えるかもしれません。

しかし、Twitterの根底にあって全体に薄らと広がっていた冷笑が、可視化され消費され始めていることは、Twitterの新しい時代の到来を示唆しているのではないでしょうか。

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