蜂が迷い込むほどのボサボサ
ニューヨークでわたしが宿泊していたのはバックパッカー向けのホステル。他の宿泊客と部屋を共用し、日々ルームメイトが入れ替わる。
ある日、カフェで遅めの朝食を取って散歩してから部屋に戻ると、初めて見る女性がいた。床に荷物を大きく広げている。本格的な撮影の機材が見えた。おそらく昨日か今日に到着したのだろう。軽く挨拶してわたしは洗面所に行った。
ニューヨークに来て数日たったが、実は1度しかシャンプーをしていない。本当の理由は寒いし面倒くさいからなのだが、「アメリカ人は毎日髪の毛を洗わないらしい」とか「汗をかいていない」といった言い訳を並べて、毎朝顔と身体を洗うだけにしていた。そのせいもあって、わたしの髪はボサボサだった。
洗面所の鏡で自分の顔を見た。髪を梳かして、リップを塗りなおしたらまた出かけようと思っていた。ところが、何か違和感がある。散歩しているときから何か聞こえるような気がしていた。耳元に何かついている。鏡をよく見た。蜂がいる。わたしのボサボサの髪の毛に、小さな蜂が迷い込んでブンブンいっているのだ。今すぐ追い払いたかった。でも、冷静さに定評のあるわたしは、ここで追い払うべきではないとすぐにわかった。洗面所で蜂を逃がせば、蜂は、洗面所かドアの先のわたしたちのベッドルームに留まるだろう。寝ているときにまたブンブンを聞くは耐えられない。
わたしは髪の毛をそっと手で覆い、蜂が逃げないようにして洗面所を出た。ホステルの外で逃がす計画だ。さっき挨拶した女性は、わたしが頭を抱えて慎重に歩いているので、不思議そうな顔でこちらを見た。「髪の中に蜂がいる」わたしはその女性に言った。迷惑がられるかと思ったが、彼女は一歩近づいてわたしの髪を覗き込んだ。「本当だ」と言って少し笑っていた。そのまま私は慎重にベッドルームを出て、蜂を刺激しないように忍び足で歩き、フロントの女性にジロジロ見られながらホステルの外に出た。ドアの外で、髪を覆っていた手を放し、髪の毛を少しずつの束にばらして蜂を逃がそうとした。しばらく髪をばらし続けた。いつ逃げてくれたのかわからないが、もう耳元で羽音が聞こえなくなった。確実に逃げただろう。アウターを着ずに出てきてしまったので寒かった。すぐに部屋に戻った。
部屋に戻るなり、先ほどの女性が「解決した?」と聞いてきた。彼女の髪は真っ黒なロングヘアで少しだけウェーブがかかっていて綺麗だった。普段わたしは知らない人とあまり話さないのだが、蜂がいなくなって安心したので饒舌になっていた。彼女はベルギー出身で、ニューヨークに撮影をしに来たと言う。「ニューヨークで現地の人を撮りたいんだけど、こっちの人って歩くのが速いし、わたしはシャイだから声をかけるのが難しい」それから、日本の文化にも興味があって、いつか京都でも撮影したいとも言っていた。わたしが冷静に蜂を逃がしに行った姿がおもしろかったそうで、彼女は禅の精神と絡めてわたしの冷静さを褒めてくれた。たかがボサボサの髪から蜂を逃がしただけでクールジャパンの一翼を担うことが出来て光栄だと思った。彼女はわたしにこの後の予定を聞いてきた。「今からセントラルパークでヨガのレッスンを受ける」と答えたが、もしかしたら撮影させてほしいと頼むつもりだったのかもしれない。でもこんなに髪がボサボサの女をモデルにするかな、と考えながらヨガのレッスンに向かった。