涙もろい
年齢は年齢だし、したいことはする。
そんな風に思って過ごしている。
けれど、年齢相応だ…と最近思うのは、涙もろさだ。
子どもたちの合唱で、泣ける。
子どものマーチングバンドで、泣ける。
子どもの運動会の行進で、泣ける。
知らない土地の知らない子どもの事件を耳にして、泣ける。
え?これで?今?と自分自身が戸惑いつつ、涙がじんわり浮かんでくる。
それにプラスして、老いていく人の姿にも涙もろいのだ、と知った。
日曜日のミサでの事だった。
子どもに洗礼を授けてくださった神父様のミサだった。
とてもゆっくり歩かれ、ゆっくり立ち上がられる神父様の姿に、ずいぶん足が不調でいらっしゃるのだな…痛みがおありなのかしら…?と、思いつつ、ミサに与っていた。
神父様は、これまでと変わらないステキなお説教をされ、美しい所作でミサを進められた。
そして、最後の退堂の時、歌詞が3番までの聖歌が終わろうか…の時点で、歩みのゆっくりな神父様は控室である香部屋へまだお入りになっていなかった。
すると、オルガンは終わらずにまだ1番の歌詞に戻って、聖歌は続いた。
あぁ、ダメだ。
もう声が詰まって歌えなかった。
あんなにステキなお説教をなさる神父様もそろそろ神様に呼ばれる順番が近くなっているのだ、とか、神父様のことを大好きなみんながゆっくりでもいつもルートを歩かれるのを見守っていることとか、それを聖歌を途切れさせないことで表すのとか、哀しさと優しさと心遣いとオルガンと歌と聖堂に入る光の美しさが相まって、声が詰まり、涙が浮かんだ。
思い返すと、あのミサは始まりから完璧だった。
何一つ欠けることなく、全部揃っていて、美しかった。
日常は繰り返されるのだけれど、永遠に続くものなんて、ないのだ。
私たちは金色の砂粒を無頓着にキラキラと撒き散らしながら、日常を過ごしている。年齢を重ねるにつれて、この金色の砂粒が見える瞬間が増えてきた。
どんどん、じんわり涙ぐもうと思う。
この世界の美しい瞬間をたくさん目にして、感動していこう。
世界は金色の砂粒で満ちている。