怖いお婆さん
従兄弟のマンションに遊びに行った時のこと。
マンションの下、駐車場の横を歩く私の前を一人のお婆さんが歩いていた。ジャカジャカ音を立てるイヤホンを外して「こんにちは」と挨拶をして、そのまま横を通り過ぎる。エレベーターまで辿り着けば、待っている間にお婆さんも背後に並んだ。
なんとなく居心地が悪くて、お婆さんと二人で静かにエレベーターを待つ。そうするうちに、チーン、とエレベーターが到着して、中からはご夫婦だろうか。二人の男女が降りてきた。ペコリと挨拶をして、私は先にエレベーターに乗り込んだ。お婆さんのために「開く」ボタンを押して待っていれば、お婆さんはすぐさま乗ってきた。ドアが閉まって、ヴィーンとエレベーター特有の振動音が聞こえる。
どうやらお婆さんの階は、私の目的地の一階下らしい。ドアの前にぴたりと立ったお婆さんの背中をぼーっと見つめていると、突然お婆さんが、キリッとこちらを振り返った。
「……アンタ、見た?」
……アンタ、見た? である。なにを……?と思う間もなく、お婆さんは眉を顰めて、私を睨みつけて言った。
「あの、降りてきた二人。まぁ本当に、恥ずかしい。良い大人が、挨拶もできない。みっともない」
どうやらエレベーターから降りてきた二人に、怒っているらしい。お辞儀はしてくれたけどな。と思いながら、私は「あはは」と笑い返した。
どうしていいかわからなかったからである。
もしかしたら、私も怒られるのかな。耳からジャカジャカ鳴らしやがって。とか、なんとか。
少しだけ背筋を伸ばして、出来るだけ目を開いて、こう、キラキラとした子犬みたいな感じをイメージしながらお婆さんを見つめていると、ぶつぶつ文句を繰り返していたお婆さんの目が、きらりと光った。
「アンタ、ちゃんとしたね」
「挨拶」と、倒置法でニヤリと笑ったお婆さんに「えらい」と褒められた。
怖いお婆さんに褒められて、ちょっとだけ嬉しくなった。挨拶、しといてよかったぁ。と胸を撫で下ろすが、もしかすると私が挨拶をしたせいで、お婆さんの挨拶魂に火をつけてしまったのかもしれないと思うと少し複雑だ。
愛想笑いでなんとかやり過ごそうとしていれば、お婆さんは、またエレベーターの扉の方を向いた。
よかった。終わった。と安心した矢先である。今度は反対向きに体を捻って、もう一度私の顔を睨みつけてくる。うわ、今度こそ怒られるかも。
アンタ、今安心したね。なんて言われたらどうしよう。怖すぎて、ホラー小説もかくやの展開に突入してしまう。
息を止めて、お婆さんとじっと見つめ合っていれば、お婆さんはゆっくりと口を開いた。
「アンタ、顔が白いね」と、さっきと同じ声色。
「顔が白い。元からかね」
お婆さんは斜め下からじっと私を見上げて、ほとんどガンをつけるみたいにねっとりと、いろんな角度から顔を覗き込んでくる。
「いいよ。そのまんまでいなさい。あんまり塗りたくるな。わかったね?」
矢継ぎ早にアドバイスされて、褒められているのか貶されているのか判断する間もない。とりあえずお婆さんの言うことに「はい」と頷いていれば、お婆さんの降りる階までやってきた。長かった。ほんの数十秒なのに、まるで数十分にも感じられる時間だった。
お婆さんは「じゃあまた、お先に」と言い放つと、鋭い瞳をエレベーターの外に向けて、ゆっくりと外に出る。「開く」のボタンを押している私に、扉の向こうからひらりと手を振った。
あんまり怖かったので、気づけば私はエレベーターの中でお辞儀をしていた。
「ありがとうございました!」
綺麗に挨拶した私にお婆さんは「ん」とだけ言って、そのまま廊下の向こうに消えてゆく。
私は目的の階に到達するまで、エレベーターの中で一人ずっと頭を下げていた。お婆さんは「また」と仰ったが、正直もうなるべくお会いしたくない。
兎にも角にも言えることは、挨拶は大切だと言うことだ。