マグカップの女
コロナ禍で緊急事態宣言が出された頃から、欲求のままに観葉植物を買いまくったせいで、部屋がジャングルみたいになっている。最近我に返り、やっぱりあの頃はちょっとおかしくなっていたんだなと思う。たぶん、癒やしを求めていたのだ。
癒やしブームは90年代だったろうか。以来、癒やしという言葉はすっかり生活に根づいている。
私たちは日常の中にほっとひと息つけるような安らぎを求める。それも癒やしだろう。
でも、深いレベルで癒やすとか癒やされるというのは、なかなか難しいのかもしれないと思うことがある。
とあるカフェでの話し。
40代とおぼしき貫禄のある女性が、ドリンクをカップで出されたことに、
「あたし、マグカップでって頼んだんだけど?」とクレームをつけていた。
ぺこぱが言っていたけど、間違いは、ふるさとだ。誰にだってある。
要はミスしたとき、どう対応するかだと思う。その点で、店員はていねいに詫びていたし、低姿勢で、とても好感が持てた。
それに対し、謝られてなお、客の女性は「あたし、マグカップでって言ったよね? なんでまちがっちゃった?」と詰め寄った。このアタシのオーダーをミスするなんて許せない、キー! みたいな自意識の強さと責めるような言い方が鼻についた。何様だよ。
店員は「申し訳ございません。お席でお待ちください。すぐにお持ちします」と言って、本当にすぐ、私の隣の席で待つ女性のもとにマグカップ入りのドリンクを運んで来た。
再度、ていねいに頭を下げる店員に、「あたし、マグカップでって言ったよね。 なあんでまちがっちゃった?」と、その女性は再び問い詰めた。
しつこいわ! まるで、ダメなあなたに、ミスを振り返って成長する機会を私が与えてあげているの、と言わんばかりの上からの物言いが、いやらしいと思った。
情報伝達がうまくいかなかったという説明に、ふうんとバカにしたように鼻をならしたあと、彼女は指に髪をくるくる巻きつけながら言い放った。
「あたしってさぁ、マグカップで飲みたい人なんだよね」
知らんがな。もういちど言う。知らんがな!
隣の私が心のなかで激しくツッコんでいることなど知る由もなく、彼女はおもむろにノートを取り出しテーブルに広げた。何かの勉強をするつもりらしい。ちらりと目に入ったテキストのタイトルにびっくりした。
人を癒やすための本だったからだ。
ヒーラーになることを目指しているみたいだった。
おいおい。ツッコミどころ満載だな、と思う一方で理解できるような気もした。
人を癒やすことを目指す人の中には、案外、切実に自らが癒やされることを求めている人が少なくないように思う。そして、そのことを自覚していない人も多い。(だから、癒やされていないヒーラーには用心したほうがいい。)
さっきの出来事は、マグカップで飲みたい彼女に対するパーソナルな攻撃でも何でもなく、たまたま起こったことだ。それに対して、「〜なアタシ」を主張せずにはいられない彼女。心が満たされていて、承認欲求と折り合いがつけられていたら、そんなことはしなかったはずだ。
彼女もまた、癒やされていない人なのだ。
そのことに気づいたら、うっすらだけど、彼女に対して少し優しい視点が持てたような気がする。
それに、私だって似たようなもんなのだ。イライラしちゃってるんだから。私のイライラは、たぶん彼女の言動がトリガーになっただけ。私が抱える鬱屈したモノが表面化したにすぎない。
私だって癒しを求めている。
まずはちょっとしたことから。日常の疲れを癒やそう。そんなわけで今、私は温泉地へ向かう高速バスに揺られている。