#気の実感ー合気道の不思議な体験2#
前回、自分が「気」を感じた時の一度目の事を書いてみた。
今回は2度目に感じた時の事。
約10年くらい前。
合気道歴も30年くらいになった頃だった。
それは横面打ち四方投げをやっていたときだ。
相手が右手で横面打ちをしてきたとき、
それに合わせて右足を軸に左半身を腰でまわして避けるのだが、
そのとき相手が打ってくる右腕とそれを受けようとする自分の左側面との間の空気がとても<密>に感じられた。
逆に相手の左側面と自分の右側面の空気が<疎>に感じられた。
しかも相手の左側面に自分の身体が引っ張られるように動いた。
それは<密>になった部分を避け、<疎>になった部分を埋めて、
相手と自分との間の感覚を元の通常の空気感に戻そうとするような動きだった。
それは、相手との<調和>をとるための動きの様に思えた。
このとき相手との間に感じた<密>や<疎>の空気感というのは<気>だったのではないかと思う。
そして後日、稽古のとき相手の<突き>にうまくあわせられるようになった。
相手が右の拳で突いてきたとき、それを「パチン」と手のひらで受け止めたり、弾いたりすることなく、吸収するように受け止めることが出来るようになった。
それは、相手が<7>の力で打ってきたとき、自分は<3>で受け、相手が<4>の力で打ってきたとき、自分は<6>で受ける、といったように相手とぶつからず吸収するような動きになった。
開祖が「5,5の十」、「6,4の十」と言っていたような言葉があったがこのことではないかと思った。
これが、合気道でいう<調和>ではないかと思った。
そのときの意識は相手と自分が、<相手>対<自分>という感覚でなく<相手>と<自分>がひとつになっているような感覚だった。
即ち、相手と<対立>して、相手の<突き>を避けたり、弾いたりするのではなく、相手の<突き>をそのまま受け入れるといった感覚だった。
今から考えると、それまで<呼吸投げ>も自分の力で「よっこらしょ」といった感覚で相手を投げていたり、<一教>や<二教>も相手の腕を自分の力で押していた。
それが、相手に<自分の技をかける>という意識でなく相手は自分の一部であり>、<自分は相手の一部>であるという意識で動くようになった。
開祖の直弟子だった先生は、相手と自分が<繋がっているような>気持ちでやりなさいといっていたのが何となく分かったような気がした。
相手と<対立>すると、お互いが反発し合うが、相手と<同調>すると<協力関係>になるのではないかと思う。
合気道は武道だから<必死>になって<真剣>にやらなければならないので、当然身体を緊張させて相手と対峙しなければならない・・・と考えていると、それでは相手と対立し、協力関係を築けなくなる。
相手との間にバリアーを張ってしまうと、相手との間合いも自分勝手な間合いしか分からないのではないだろうか。
心が開かれていると相手の気持ちや心の動きが判ってくる。
そして自分が緊張していないと、相手の動きにあわせて動く事が出来る。
嘗て本部道場の故佐々木(将人)先生は稽古の時に「楽しくなければ合気道じゃない」「笑え!」とよくおっしゃっていたが、それはひとつの真理だと思う。
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