ファロスの見える家 片想い その1
【これまでの経緯】
南海子をガンで亡くした壮介は、ひとり快速電車に乗り、海の見える家を見つけそこでスイーツの店を開いた。しかし、こんな辺鄙な店にやって来る客はひとりもいなかった。
壮介はカウンター越しに庭先の灰色の空と、深く沈んだ鉛色の海をぼんやり眺めていた。どんよりとした雲を抱いた夕暮れ時、夕日のかけらが西の空の雲間を黄金色に染めている。夜は雨になるかもしれない。ここに引っ越して三年、毎日キッチンの出窓から雲ばかりを眺めているうちに、これからの天気がなんとなくわかるようになっていた。
壮介は午後になり、陽が傾き始めるころに店を開ける。朝から昼までは下ごしらえのためという理由だが、本当のところは客が来たらどうしたらいいのかわからないからだ。店から出て、道路に面したところに申し訳程度に折り畳みの看板を出している。しかし、駅から離れた、ましてや道から外れ、こんな奥まったところの一軒家に訪れる客などいるはずもない。それもスイーツだけの店だなんて……。
昨日も一昨日も客はひとりも来なかった。開店してから尋ねて来る人さえいない。これからこんな日が何日続くのだろうか。早くも閉店を考えないといけないかもしれない。
壮介は、今日もカウンターの中ですることもなく、ハンチングキャップをかぶり直すと使ったことのないグラスを磨いた。ふーっとため息をつき、スイーツ作りの練習でもしようかとキッチンに向かいかけると、ドアベルがチリリンと鳴った。
鍔(つば)の広い麦わら帽子にイチゴのワッペンを付け、エプロンにはキャベツやダイコン、ゴボウにピーマンなどの野菜や、ミカンにリンゴ、バナナにパイナップルなどの果物のワッペンが所狭しと縫い付けられている。
「やあ、帆吏(ほり)さん。いらっしゃい」
中山(なかやま)帆吏は客ではない。軽トラの荷台に新鮮な野菜や果物を乗せ、露天商を営んでいる中山商店の娘さんだ。と言っても、お婆さんとのふたり暮らしのようだが。
壮介が帆吏と知り合ったのは、スイーツの材料を集めるためにK駅前にある小さなスーパーにいつものように買い出しに出かけたときだった。K駅前から離れたところで軽トラに掲げられたのぼり旗を見つけた。そこには、「新鮮な野菜と果物、中山商店」と書かれていた。軽トラの荷台には路地やハウス物の新鮮な野菜や果物が並べられている。
「いらっしゃい。何かお探しですか。この子たちは農家さんが心を込めて作った野菜や果物なんだ。おいしいよー」
麦わら帽子の女はにこにこしながら言った。
壮介は試しに買ってみようと思い、
「いま一番おいしい果物をください」
と、何気なしに訊いた。
「ここに並んでいるこの子たちはみんな新鮮だからね、今が一番美味しいんだ」
――だからこれがいいとは言えないのだろうか。
そんなことを思いながら眺めていると、
「お客さん、初めてだよね。いきなり選べっていうのも気の毒だから、今日は特別に教えてあげる。初物で、ちょっと値が張るけど、イチゴだね。この色と形と、香りを嗅いでごらんよ。最高だっていうのがわかるから。この時期にこんなに美味しいイチゴは奇跡だね。これが今日一番のお勧めだね。それと甲乙つけがたいのがこのリンゴだ。ミツがいっぱい入っているから美味しいよー」
結局、壮介は言われるままにイチゴとリンゴを買った。こんなにたくさん買っても僕ひとりじゃ食べきれない。
――どうしようか……。そうだ。
気まぐれに思いついた。
「僕は霧島(きりしま)壮介と言います。そこの坂を上ったところでスイーツの店をやっています。客は来ないのでこの材料があまっちゃうんです。だから食べに来ませんか」
――坂の上の店? なんだか怪しいなぁ。見たことも聞いたこともない。客が来ないということは、きっと不味いんだ。
帆吏は早々に結論づけた。
「ありがとう。でも、今日は忙しいから、またの日に。そうだ。今度からあたしが壮介さんのお店に果物を届けるよ。気に入ったら買ってくれればいいからさ。あたしは中山帆吏。よろしく」
帆吏は右手を差し出すと壮介と握手を交わした。
後日と言っていた帆吏だったが、自分のイチゴとリンゴがどんなふうに使われるのか、ちゃんと素材を生かしたスイーツになっているのか気になった。そう思うと居ても立ってもいられず、その日の午後に様子を見に壮介の店にやって来た。
――立派な大きな家だ。店の名前は、『ファロスの見える家』。ファロス? ファロスってなに。
店の中ではちょうどその時、イチゴをふんだんに使った壮介ご自慢のデコレーションケーキができたばかりだった。帆吏はさっそく試食させてもらうと、目を真ん丸にして、美味しい美味しいを連発しながら、一切れをあっという間に食べ終えた。
「イチゴが美味しい。こんなに美味しかったんだねぇ、君たちは」
帆吏は最後に残しておいたイチゴにたっぷりと生クリームを付けると、パクっとひと口でほおばった。
「帆吏さんはいつも朝採れの美味しいイチゴを食べているんですよね」
「ええ、もちろん、食べてるわよ。旬の時期(とき)なら毎日。ハウスで摘みたてを食べるのが一番美味しいと思っていたんだけど、こうして生クリームと一緒に食べると違うものになるね。本当に美味しいよ。クリームの優しい甘さがイチゴの甘酸っぱさを引きたたせている」
「ありがとうございます」
壮介は帆吏の率直な意見に、少し自信が出てきた。
もうひとついかがですか、と聞くと、帆吏さんはにっこりとうなずくのだった。結局、帆吏は三切れを平らげ、お腹をさすりながら帰って行った。それ以来、中山商店で季節の果物が手に入るたびに、帆吏がそれらを届けてくれるようになった。
帆吏さんが帰り、予想していたように空模様が怪しくなってきた。店を開けたばかりだが今日はこれで店を閉めよう、どちらにしても客は来ない。カウンターから立ち上がると、ドアベルがチリリンと鳴った。
赤いベレー帽をかぶり、淡いベージュのロングコートを纏(まと)った女がドアをくぐり入ってきた。記念すべき初めての客だ。壮介の心臓は高鳴り、どう声をかければいいのか、練習していた言葉が出てこない。
しかし、よく見るとコートのあちこちに赤や黄色の不思議な模様がある。女は左手に画板だろうか、右手には長四角の木箱を下げている。絵具箱か? 格好からして画家のようだが。肩からはふっくらと膨らんだ布製の袋をかけている。今まで見晴らしのいい丘の上で絵を描いていたのだろうか、日が暮れ雨宿りのつもりか、それとも疲れて一息つこうと思ってやって来たのかもしれない。
「い、い、いらっしゃい、ませ」
声がかすれ、喉の奥で引っかかる。自分でも緊張しているのがわかるほどだ。
つづく
【片想い その2】 予告
壮介は初めての客におたおたし、何を作ればいいのかわからない。そして出した飲み物とスイーツは…。
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