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画家の心 美の追求 第81回「ピエール・オーギュスト・ルノワール レースの帽子の少女 1891年」

 前回(第80回)のルノワール作「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」から11年が過ぎた作品でルノワールは50歳になり、絶頂期に入ったといわれるころの作品だ。

模写「レースの帽子の少女」

 今回の話はこの作品から前回紹介した11年前にさかのぼる。サロンに入選し、画家としてデビューを果たし、これから立派な絵を描いて稼ぐぞと意気込んでいた時に伯爵家のダンヴェール家から「イレーヌ嬢の肖像画」の依頼が舞い込んできた。ルノワールは天にも上るほどに嬉しかっただろう。
 「イレーヌ嬢」の絵はしっかり画けた自信作だった。ところがダンヴェール夫人からもモデルとなったイレーヌ嬢からも不評で、受け取りを拒否されるほどだった。

 何故だ。何故、それほどまでにこの絵がダメなのだ。あれ以上どう描けというのだ。いったい何が気に食わないのだ。サロンに入選したオレの絵が、オレの腕が未熟だとでも言いたいのか…。理由はさっぱりわからなかった。
 しかし、待てよ…。まっ、まさかと思うが、オレの貧しい労働者階級の出のせいか…。

 まさしくそれが理由だった。
 当時の絵画は上流社会のものであり、画家自身も多くは上流階級に認められた人たちだった。絵の出来を判断するのもサロンに属する上流階級の貴族たちで、多くの一般大衆は絵の良し悪しを判断する目を持っていなかった。
 中産階級の人たちが絵を購入する際の基準はサロンでの評価評判が基本であった。だからサロンが評価する絵をもっぱら購入する、そういうのがこの時代の当前のことだった。

 だから、労働者階級が上流階級の人びとの肖像画を描くなどまったくもって考えられないことだったのだ。
 このように庶民と上流階級の間にはとても分厚いガラスの天井が存在した。その分厚いガラスをぶち破らない限りルノワールが認められ、のし上がれる術(すべ)はなかった。

 しかしその瞬間がついにやって来た。
 1879のサロンに「シャルパンティエ夫人とその子どもたち」を出品すると目立つ場所に展示され、大きな話題と称賛を受けた。これは、モデルのシャルパンティエ夫人の知名度と夫人の影響力によるところが大きかった。
 ルノワールは念願の上流階級にシャルパンティエ夫人というパトロンを得たことで貴族階級の画家の一員として認められることになった。

 ルノワールは画商のデュラン・リュエル(第56回)に以下のように書き送っている。
 「私がなぜサロンに作品を送るのか、あなたに説明しようと思う。サロンを通さずに絵画と結びつき得る美術愛好家はパリには15人もいない。サロンに入選しない画家の作品を1点も買おうとしない人は15万人はいます」
 だからサロンに出品し、入選を果たすのだと。

 そのためルノワールは(庶民画家集団の)印象派展には作品を出さなくなる。
 サロンに入選し、上流階級の画家仲間に入ったルノワールにとって、もはや印象派展に出品することは自分の評価を落とす恐れがある、そう判断したのだ。

 第1回印象派展に集った新進気鋭の仲間たちだったがしばらくする内に小さなグループに分かれていき、各人が悪戦苦闘しながら独自路線を導き出すと派閥を構成することはもはや難しくなり、やがて消えていく。

 ところで実質的な妻のアリーヌは労働者階級の出身であったためか、内縁の妻としてしか扱われなかった。しきし、ルノワールが貴族社会の画家になれたと確信できた1890年正式に結婚する。新居はモンマルトの丘にあった。
 ルノワールは貴族社会に入るためには、妻をも犠牲にした。アリーヌもそれは仕方のないこととして納得していたのだろう。ふたりは夫婦であると同時にのし上がるための同志でもあったのだ。
 ふたりの間には、3人の息子が生まれ、長男は俳優に、次男は映画監督になっている。

 さてルノワールだが、1905にサロン・ドートンヌから名誉総裁の称号を授与される。
 そして1911、レジオンドヌール勲章4等勲章を受章し、さらに1919年2月にレジオンドヌール勲章3等勲章を受章した。しかし同年12月3日、カーニュのレ・コレットで、肺充血で亡くなる。
 ルノワールは死の間際になり、「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」とつぶやいたというが、真偽の程はわかっていない。享年78歳。

 妻のアリーヌはルノワールより4年先の1915年糖尿病が悪化し亡くなっている。

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