ファロスの見える家 片想い その2
【これまでの経緯】
壮介はブランデーとオレンジキュラソーを入れたココアとイチゴのロールケーキを出した。そして、女画家は不気味な絵を描いていた。
女の客は店にただ一つある、三メートルほどの長さの楕円形のテーブルの横に、抱えていた荷物をたてかけ、ほっと一息つくと壮介に端正な横顔を見せるようにして腰を下ろした。そして、布製の袋を隣の椅子の上に置くと、両肩をガクンと落とした。
壮介はタンブラーグラスの縁にレモンの輪切りを添えたミネラルウオーターを客の前にそっと置いた。
「いらっしゃいませ。何かご注文はございますか」
客はその問いには答えず、目の前の小さな出窓に置かれた黄色い花をぼんやりと眺めている。
「注文が決まりましたら、お声をかけてください」
女は無言のままうなずく。
壮介は女の傍を静かに離れようとすると、
「あのう……、何か、適当なものを、お願いします」
「か、かしこまりました」
と、答えたものの適当なものと言われるとかえって困る。壮介は、何かを作らねばと考えれば考えるほど頭の中が真っ白にフェードアウトして行く。
(壮介さん)
南海子の声だ。
――お客が来たよ。どうしよう。何を作ればいい。
(彼女が今日一日をどう過ごしていたのか、それを考えてみたらどうかしら。きっと何か思いつくわよ)
――そうだな。えっと、春になったとはいえ、今日は一日中曇りで、肌寒さを感じるくらいだった。丘の上で絵を描いていたのだとすると、客の体は冷えきっているだろうし、心もぐったりするほど疲れているはずだ。
壮介は冷蔵庫から脂肪分の多い牛乳を鍋に移す。ここにグラニュー糖とココアパウダーを加え、勢いよく混ぜる。ココアが均一に混ざり、程よく暖まったところで、ブランデーとオレンジキュラソーを加える。芸術家はアルコールに強い人が多いと聞いたことがあるからだ……。
これをお湯で温めておいた、梅の花柄をあしらった乳白色の肉厚の碗に注ぐ。女性客の前に藍(あい)染(ぞめ)紬(つむぎ)のコースターと栗の木でできたスプーンとともにそっと置いた。
女は差し出された碗に目をやると不思議そうに眺めた。ゆっくりとした動作でお碗を両手で包み込むようにして持ち、冷え切った手を温める。そして、お碗を唇に近づけた。わずかに鼻孔が開く。ココアの香りの中に魅惑的なブランデーの芳香と、甘いような柔らかいオレンジの香りが鼻の奥に届く。
女は眉間に小さなしわを作りひと口啜(すす)ると今度は大きく目を見開いた。これまで緩慢だった女の動きが嘘のように、お碗を抱えるとゴクゴクとココアを一気に飲み干した。女は上唇がココアで汚れているのを気にする風もなく、梅花が散らされた茶碗の底を見つめている。そして、顔をこちらに向けるとカウンターの壮介を見た。
壮介も女の顔を見、初めて視線が合った。
「い、いかがでしたか」
壮介は実のところ、ブランデーが多すぎたのではないか、オレンジキュラソーはどうだったかと気になっていたのだ。
女は視線をすっとかわすと顔を横に向けた。大きな窓越しに暗く沈んだ庭を見たまま何も答えようとしない。壮介は黙って女の答えを待っている。しばらくして、女は横を向いたまま、こっくりとうなずいた。
「ブランデーが入っていまが、大丈夫だったでしょうか」
女は横を向いたまま再びこっくりと顔を上下させた。
「何かご希望はございますか」
女は首を左右に振る。
「適当で……、いいわ」
「承知しました……。ではこちらで適当なものを。しばらくお待ちください」
壮介はキッチンに入ると、スイーツは決まっていた。オーブントレイに型紙を敷き、そこに黄色い生地を流し込むと、それを熱く熱したオーブンに入れる。焼かれた黄色の生地は一センチ五ミリほどの厚みでふわっと膨らんでいる。白ワインにハチミツを溶かし込んだシロップを表面に塗り、ここにホイップクリームを分厚く載せていく。生クリームにはごくわずかだが白ワインを含ませている。
冷蔵庫から朝採れのイチゴを取り出した。中山商店の帆吏さんご自慢のこの子たちだ。ヘタを落とし、まるごとのイチゴを一列に並べる。それを手前から巻き寿司のように丸めていく。そして、巻き上がったロールケーキを冷蔵庫に入れ、しばらく休ませる。
壮介がキッチンに籠(こも)っている間、女は記憶を辿り始めていた。自分はいつからここに座っているのだろうか。そうだ、ここへ来る前は冷たい風が吹いていた。そして、あたしは海を見ていた。暗くて悲しい色をした海だった……。
壮介は冷蔵庫で寝かせていたロールケーキを取り出し、厚さ五センチに切る。輪の真ん中には真っ白なホイップクリームに包まれた、ぷっくりと膨らんだつややかなイチゴが収まっている。すっと立ったケーキの頂上に艶やかなホイップクリームをたっぷりと塗る。クリームの上に縦割りにしたイチゴを、開花したチューリップのように左右に開きそっとのせる。イチゴチューリップの真ん中に、小指の先ほどに丸めた黄色の練り切りと、イチゴの両脇に緑の葉っぱを模した練り切りを添えた。
花柄のプレートの真ん中にブランデーを溶かし込んだチョコレートソースを丸く流し、その上に仕上がったイチゴのロールケーキを静かに置いて完成だ。
壮介は菓(か)銘(めい)を考える。
――何がいいか……、そうだ。『片想い』、これにしよう。
南海子が口にすることがなかったロールケーキ。僕はいまでも南海子に恋してる。僕の南海子への『片想い』。
「長い時間お待たせしました。『片想い』をお持ちいたしました」
女の背中に向かって話しかける。ブルーの花柄のティーカップに注ぎ入れたダージリンティーとともにテーブルに置いた。ティーカップからふわふわと湯気が上がり、マスカテルフレーバーの香りが鼻の奥をくすぐる。
女は顔を上げることも壮介の顔を見ることもなく、差し出された『片想い』だけをじっと見ていた。
壮介はカウンターに戻ると中から女の様子をそれとはなしに伺っていた。
女は紅茶の香りをかぐと、ずずっとひと口啜る。フォークを手に取る。ロールケーキの上に載っている二つ割れのイチゴにホイップクリームを絡め口に入れた。う~んと声が漏れ、ゴクンと飲み下す。別の片割れのイチゴにフォークを刺すと、花柄のプレートに添えたチョコレートソースをつけ口にした。女の目が下弦の月のように丸く細くなる。今度はふっくら膨らんだ黄色のスフレ生地とクリームを切り分け、スプーンでチョコレートソースをかけ、ゆっくりと口に運んだ。
壮介は女の横顔から目をそらすと、虚空を眺めた。南海子が僕の作ったケーキを初めて食べたときの驚いた顔、そして嬉しそうに笑った顔が蘇ってきた。
――南海子……。
南海子が口にすることはなかったバナナのシフォンロールケーキ。壮介は南海子が死んでからもロールケーキを何度も作った。上手に美味しくできれば南海子が喜んでくれる。そんなありえない夢想を抱きながらスイーツを作り続けている。
女は最後まで残しておいたロールケーキの真ん中のイチゴにクリームをたっぷりと羽織らせ、その上にチョコレートソースを最後の一滴までスプーンで掬(すく)い取って垂(た)らしかけた。そして、ホイップクリームとチョコレートソースをまとった最後のイチゴを大きな口を開けパクっと放り込んだ。女は目を閉じる。イチゴの香り、クリームの滑らかさ、チョコレートの風味をゆっくりと味わっているようだ。カップに残ったダージリンティーを飲み干すと、女の丸まった背中がすっと伸びる。ゆっくり首をひねり、カウンターの壮介に視線を向けた。
「う~ん、なんて言えばいいのかよくわからないけど……。優しい甘さがふんわりと、ここに届くというのかしら、美味しいです」
そう言うと、女は胸に手を当てた。
「そうですか。それはよかったです」
女はそれだけを言うと、また、ぼんやりと暗い庭を眺め、口を堅く閉ざした。
壮介はカップとプレートを片付けるためにテーブルに近づいた。
ロールケーキが載っていた花柄のプレートは舐(な)めたようにきれいになっている。
「紅茶のお代わりはいかがですか」
「ごちそうさま。本当に美味しかったわ」
女の客は壮介と目を合わせない。
「ありがとうございます。長い間お待たせした上、そのように喜んでいただけると嬉しいです。失礼ですが、絵を描いておられるのですか」
「ああ、絵ですか……」
「拝見させていただいてもよろしいでしょうか」
女は四十センチぐらいの大きさだろうか、ソファーの上に立てかけていた画帳を手に取った。壮介はキャンバスかと思っていたが、それは二枚の薄い板に挟まれた画集だった。女は黙ったまま、画帳を持ち上げると壮介に見せた。
暗い背景に濃い藍色の服を着た女性と思われる半身の肖像画だった。顔はこちらを向いているのだが、額の下にあるはずの目が書かれていない。鼻筋と唇はぼんやりと塗り分けられ、何とか見分けがつくのだが、ただ暗く影のように沈んでいる。悲しみだけが漂っているような寂しい絵だった。
壮介は絵画のことはわからないが、エドヴァルド・ムンクの「叫び」、いや「マドンナ」の女性像を、暗い背景に青い服を着せ、顔から表情を消し去ったような絵だった。正直、恐ろしいような、薄気味悪さを感じた。それにしてもここに描かれた女性は誰なのだろうか。このモデルは架空の人物だろうか、それとも彼女自身の心の内だろうか。
いや待てよ、この人物は果たして女性なのかどうか、それすらもあやしい。それよりも肖像画なら普通、アトリエで描かれていいはず。しかし、彼女は屋外で描いていた。風景画じゃなくて、こんな気味の悪い絵を屋外で、何故……?
よくわからない謎だらけの女だった。
「この絵を描いていらっしゃったのですか」
壮介は女画家に問う。
女は描きかけの絵に目を遣ると、あっさり首を左右に振る。
――ああ、違ったんだ。違っていてよかったような気もするが、それじゃあ、外で何を描いていたのだろう。
壮介の疑問は膨らむばかりだった。そして、無言の時間が過ぎていく。
「さっきのケーキだけど」
女の声がした。
「形を整えたつもりかもしれないけど、全体的に歪(いびつ)だし、甘みも足らない。味も飛びきり美味しかったわけではない」
さっきは美味しいと言ったのに、今度は貶(けな)すつもりだろうか。それとも自分の絵が褒められなかったことへの仕返しかと、壮介は身構えた。
「形も味も普通なのに、なんでだろう、ひと口食べたらここがふわっとあったまるような、気持ちが満たされ優しくなるような、そういうスイーツ。だからとても美味しいと思う」
女は再び胸に手を当てた。
壮介は女の言っていることがよくわからなかった。描いている絵もよくわからない。謎の多いひとだと思った。だが、彼女が最後に言った、「美味しかった」、という言葉に救われほっとした。
外はすっかり暗くなり、鉛色の雲に覆われていた空から、とうとう冷たい雨が降り始めた。雨は時間とともに強くなり、バシャバシャと音を立て勢いを増した。春にはまだまだ早い嵐の様相を呈してきた。海からの風はビュービュー唸り、雨粒とともに大きな窓をたたきつけた。
「これじゃあ、外に出れないわねぇ」
女は誰に言うともなくぽつりと呟いた。
「すいません。もっと早くにケーキをお出しできればよかったのですが。初めてのことで、手際が悪くて……」
壮介は正直に話した。
「初めてって、ひょっとして、あたしが初めてのお客さんってこと」
「じ、実はそうなんです。僕の作ったケーキを食べて下さった最初のお客さまです」
壮介は神妙な顔をして苦笑いをした。
女は、そうなんだ、というと、ふふふ、と小さく笑った。壮介は女の笑い声につられるようにして、ははは、と笑った。
壮介は南海子が死んでから、初めて声を出して笑った。それは女も同じようなものだった。ふたりは決して大きな声を出して笑ったわけではない。やがてふたりはお互いの顔を見合わせた。
――南海子。初めてのお客さんに喜んでもらえたよ。ありがとう。
つづく
『片想い』
あなたに会いたい
何処にいるの
ふたつに別れたイチゴ
白いクリームの中で
いつか、きっと
宇美
【子犬のワルツ その1】 予告
女画家は壮介の家から出て行こうとしない。そんな折、子犬を抱いた若い女が入ってきた。そして、この犬はどうしたことか泣かないと話した。