
画家の心 美の追求 第86回「アルフレッド・シスレー『ポール=マルリーの洪水』1876 年」
1900年頃マティスがピサロにあった際、「典型的な印象派の画家は誰か」と訪ねると、「それはシスレーだ」と答えたという。
それはわたしが良く知るモネやドガ、ルノワールではなかった。印象派の典型とされたシスレーとはいったいどんな画家だったのだろうか。

シスレーの両親は絹を扱う商人で裕福なイギリス人。本人はフランス生まれで、国籍はイギリス。18歳になるとイギリスに行き、叔父からビジネスを学ぶが、ターナー(第53,55、57回)やコンスタブルの絵に触発され、パリに戻る。
バジール(第85回)の紹介でシャルル・グレールの画塾でモネやルノワールと出会い、戸外での写生を勧められ、後の印象派たちの仲間になっていく。
そのためか、サロンに出品するも入選することはなかった。しかしこの当時のシスレーは親の商売も順調であり、経済的に困るようなことはなかった。
1866年(シスレー28歳)4歳年上のウジェニー・レクーゼクと結婚し、男の子と娘のふたりの子を授かる。結婚もし子もできたことから経済的に自立しなければならなかったが、意に反して絵は売れない。
これはシスレーだけに限ったことではなく、戸外で描く多くの印象派の画家たちの宿命でもあった。
1870年フランス人にとって悪夢の時と言える普仏(ふふつ)戦争が勃発する。シスレーはイギリス人であるため徴兵は逃れたが、ブージバル(パリ西部郊外)にある自宅や家財が敵兵により奪われ財産を失う。
さらに不幸は重なり、翌1871年父親の商売が破産し、経済的後ろ盾を失う。絵を売り生活を立て直す必要に迫られたが、戦争不景気もあり絵は売れなかった。
シスレー一家の生活はこれ以後貧困に苛(さいな)まれ、住む家も転々と移り替わらざるをえなかった。ボンボン育ちのシスレー、生活力はほぼゼロだ。それをしっかりと支えたのは4歳年上の妻、ウジェニーではなかったか。
そんな中でもシスレーは懸命に絵を描き続け、移り住んだ土地の風景を何点も描き残している。今となっては当時を知る貴重な資料となっている。
そんな中で1876年パリ西部を流れるセーヌ川が氾濫し、ポール=マルリーの街を水没させた。嵐が去った翌日の情景を描いたもので、7枚の連作が残されており、そのうちの1枚がこれだ。
この作品は第2回印象派展(1876年)に出品され、好評価を受けたが絵が売れることはなかった。
このようにシスレーの生活は困窮の連続であったが、ポール・デュラン(第56回)や後援者からの援助により、3度ほどイギリスに旅をしている。
そして3度目の旅の前にシスレーはウジェニーに言った。
「もう一度イギリスへ行こう。そこでぼくたちの結婚式を挙げるんだ」
「うれしい。でもそんなお金どこにもないわ」
「金ならぼくが何とかする。デュランにここにある絵のすべてを渡して金に換える。それを持って行こう。きっと何とかなるさ」
シスレーは大きな決意を胸に秘め宣言するように言った。このとき、ふたりの体は重い病魔に侵されていた。
1897年妻ともにイギリスを訪れ、遅ればせながら婚姻届けを出し、ふたりは正式な夫婦となる。ウジェニーは63歳になっていた。しかしウジェニーの心は18歳の乙女に戻り、赤いバラのブーケを胸元に抱き喜びを顔いっぱいにして笑っている。
ふたりは病を抱えながらもイギリスのホテルを転々とする。そのわずかな間にもシスレーは何枚もの風景画を描き続けた。
そして1898年の末、妻のウジェニーは癌で亡くなる。シスレーは穏やかな顔で眠る妻を見送ると、それからわずか数か月後の1899年1月、喉頭癌により妻の後を追うようにしてこの世を去る。
イギリスへの旅は、ふたりの死出の旅。道行きではなかったか。ふたりはきっと手と手を取りお互いをいたわり合いながら最後の写生の旅を続けたに違いない。
最愛の夫はホテルの外で絵を描いている。妻は夫のそんな後ろ姿をホテルのバルコニーから飽きもせずずっと眺めている。
たまにはティーポットとビスケットを持って一緒に写生に出かけたかもしれない。ふたりにとってもっとも穏やかで幸せな時間だった。
シスレーとウジェニー。ふたりは間違いなく人生を生き抜く最高の相棒であり、友であり、そして最愛の妻と夫であった。
永遠なれ、シスレーとウジェニー。