学芸美術 画家の心 第46回「トゥールズ・ロートレック 赤毛の娘 1889年作」
ロートレックの本名は、アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールズ・ロートレック・モンファという。まるで落語の寿限無に出てくる長及名の長介のようだ。
ロートレックはフランス南部トゥールズ地方に領地を持つ伯爵家の出身で、とても裕福な家系に育った。
ところが、8歳の時左足を、続いて右足を骨折し、それが原因で両足とも伸びなくなってしまい、身長138センチメートルで成人した。
気位に高い貴族の出だ。父親からも罵(ののし)られ、自分の姿をどれほど呪(のろ)ったことだろうか。
それを母親のアデールが必死にかばい、慈しみ育てた。
のちになるが、ロートレックのことで父と母は離婚している。
そんな彼が絵画に目覚め、アカデミックな絵画を習い始め、その才能を開いていく。その頃の最先端の絵画はアカデミズムではなく、インプレッショニズに、すなわち印象派の絵画に移りつつあった。
18歳になったロートレックは当然のようにパリに出て、ドガの絵に影響を受ける。この時のドガは48歳で、劇場でバレーダンサーを描いていた。
ロートレックはドガの絵を見、そして劇場の中に、サーカスの世界に、画家たちが屯(たむろ)する場末の居酒屋に自分の居場所を見出した。
ドガ以上に影響を与えたといわれるのが、日本の浮世絵だ。遠近感のない色による表現。それと浮世絵の画面から語りかけられるドラマ性だ。
ロートレックは自分の画題をサーカス小屋と娼婦宿に行き着くのだが、彼の生い立ちを振り返ってみれば当然のことだったかもしれない。
サーカス小屋では、自分の異形は目立たない。むしろ好ましいともいえる。
娼婦小屋では、自分のゆがんだ醜い心も隠しとおせる。
ロートレックにとってこの二つの場所は、とても居心地がよかったのだ。
この「赤毛の娘」は彼が25歳の時に描いた絵で、アトリエの前にあるベルフォレスト公園で知り合った、ローザという娘。
かわいい赤毛の娘に一瞬のうちに虜(とりこ)になり、モデルにと申し込んだ。
もしロートレックが貴族の出でなく、お金持ちでもなく、普通の若い成人男性だったら、その場でローザに結婚を申し込み、もっと違った絵描き人生があったに違いない。
その後のロートレックは独特の画風から劇場ポスターなどで、現代風に言うとポップアートで成功を収める。
当然のごとく稼いだ金は酒と娼婦につぎ込まれ、梅毒で意識が混濁する中、母アデールの胸に抱かれ36歳という短い人生を終える。
この時母は一人息子に詫びていた。
「わたしがもっと丈夫な子に産んでいれば…、あの時もっと気を付けていれば…。ごめんね、愛しい息子モンフファ…」
母の悲しみは、その後癒されたのだろうか。そのことを歴史は語らない。
しかしたった一度だけだったが、ロートレックは純愛をした。ローザに恋をしたのだ。
ローザの唇はおちょぼ口になっている。
浮世絵の美人画をまねたのだ。
ロートレックにとってローザはかけがえのない人だった。
哀悼の心を籠(こ)め、そう信じよう…。
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