![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/50837916/rectangle_large_type_2_76175da0b68d2e27264c0761eb13f95d.jpg?width=1200)
ファロスの見える店 闇の解放
【これまでの経緯】
詰襟の制服を着た細身の男の子が入ってきた。名前を北大路左内といった。左内はとんでもない天才だったが、人知れず大きな悩みを持っていた。
自分が高校生の時は、勉強もスポーツも中の中くらいで、いつも仲間とワイワイガヤガヤやっていた。思い出すのは仲間と遊んだことで、どうでもいいくだらない話ばかりしていたように思うが、今となっては青春時代の楽しい思い出だ。だが、目の前の青年は恐ろしいほどに孤独なのだ。そんなの青春でもなんでもない。まるで死を前にした老人のようだ。
渚沙さんや美咲ちゃんと知り合う前の、三年前の自分がそうだったように、この青年は生まれて物心がついたときから廃人同様の生活をしていたのだろうか。いくら天才でも、それは決して幸せなことではない。
「普通のひとなら、君のようになんでもできれば最高に楽しいはずなんだけどなぁ……」
「ところで、左内君。あたしの絵を見てみない。それで君の感想を聞かせてくれないかな」
渚沙は何を思ったのか、誰にも見せようとしなかった新作をこの悩める天才に見せるという。果たしてどんな絵を描いているのだろうか。壮介も興味がわいた。
「ええ、いいですけど……」
左内は戸惑いながらも年上の女に相槌を打つ。
渚沙は庭から描きかけのキャンバスを運んでくると、ふたりの前に掲げ見せた。
「これがそうですか」
「そうよ。どう、面白い?」
面白いと言われてもさっぱり理解できない。画面にはただ、赤と青の絵の具、それと黄色と白が所々に、ぼやけた形で、雲のような、それとも水の流れなのか、何とも表現できないぼんやりしたものがキャンバスいっぱいに描かれている、いや、塗りたくっていると言った方が正解だろうか。そういった感じの絵だった。
「すいません。ぼくにはこの絵がいいものか悪いものか判断できません」
左内はもう一度絵を見たが、首を横に振るだけだった。
壮介もぼやけた中間色の色の流れとしか理解できなかった。
「渚沙さん、これはまだ制作途中なんですよね。こんなこと言っちゃなんだけど、ぼくにも何を描いているのか、いや何を描こうとしているのかさえわかりません」
壮介と左内は渚沙の答を待っていたが、渚沙は何も答えようとしない。やがて、はぁーっとため息をついた。
「実は、あたしにもわからないのよ。何を描きたいのか、このあとどう描けばいいのか……」
「じゃあ、これは……」
左内が訊いた。
「さあね、あたしにも説明ができないの。気が付いたらこんなことになっていて、だからあたしにもさっぱりわからない。この絵はこれからどうなるのかしら。このままいけば単なるゴミ。いや、もうすでにゴミになってるかもね」
渚沙は他人事(ひとごと)のように呟くと苦笑いした。
「何を描いているのかもわからずに、絵を描いているんですか」
「そうね。よくないかもね。でもこの絵、いま見てみるとおもしろいと思わない。このもやもやっとした雲のような、魂の揺らめきのようなこの感じ、あたし嫌いじゃないけどなあ」
渚沙は、どこかの安っぽい評論家のようなもの言いをした。
「意味のないものを描いてゴミだとか、嫌いじゃないとか、そんなのおかしいですよ。第一、なんのために絵を描いているのですか」
左内は渚沙の意見に納得しなかった。
しばらくして壮介は呟くように言った。
「他人(ひと)から見ればおかしいかもしれない。変かもしれない。人生のすべてに意味があるわけじゃない。無駄なモノがあるから、何が有用なモノなのかが見えてくる。今の渚沙さんは絵描きとして生まれ変わろうとしているのだと思います。将来振り返ったとき、この一見無駄と思える時間が、実は貴重な時間だった、そういうことだってありますよ」
「意味がなくてもいい、無駄になってもいい、そういうことですか」
壮介は、ああ、そうだ、と答えた。
「中国の荘子の言葉に、『人は皆、有用の用を知るも、無用の用を知らず』というのがあります。単に『無用の用』とも言います。これは、ひとはみなひと目見て明らかに役立つものの価値は知っているが、無駄に見えるもの、無用なものが人生において真に役立つものだとは知らない、という意味です。もし、荘子の言うことが正しいなら、この世に存在するすべてのものに、無駄というものが無くなるということです」
「じゃあ、今は意味がなくても将来きっと何かの役に立つ、そういうことですか」
「将来、きっと役に立つかどうか、それはわかりません。無駄は単なる無駄のままで終わるかもしれない。けれど、人生に無駄なものは何ひとつないと信じるならば、それは無駄ではなく有用なモノになる。まっすぐ前を向いて、今を一生懸命にやっていれば、その先に光明を見いだすことができる。荘子はそう言っています」
「光明を見いだすかどうかもわからないのに」
「例えばだけど、荒れ狂う真っ暗闇の海に、そのはるか先の灯台の明かりを探し求めるような……」
――はるか先の灯台の明かりを探し求める……。いまは、それを信じるしかない……。
渚沙は壮介の言葉を心の中で反芻(はんすう)した。
左内は壮介の話を聞き、再び渚沙の絵を見た。やっぱり理解できなかったが、
「ぼく、高校を卒業したら、大学に行くのをやめます。大学に行くことに意味を感じてなかったから、これですっきりしました」
「やめてどうするの」
渚沙は左内の突然の宣言に驚いた。
「日本や世界を放浪します。自分の『無用の用』を探しに行きます」
きっぱりとそう言い切ると、にっこりと笑った。この店に入って来た能面のようだった左内の顔に、わずかだが若者らしい精気が宿っている。
「放浪だなんて、そんなことをしたら、ご両親が嘆くんじゃないの」
「きっと母親は泣き叫ぶでしょうね。親父はどう言うかな、それはわからないけど、でも、それも仕方のないことです。いつかはそういう時が来る。それはわかっています。それが今だっていうだけのことです」
左内はスツールから立ち上がると、『青春』美味しかったです。またきっといつか来ます。ごちそうさまでした、と言い残し店から出て行った。
壮介は、去って行く左内の背中を見送りながら、夢を見つけられるようにと祈った。天才左内も悩めるひとりの青年だった。この青年に幸あれ。これからの君が本当の『青春』だ。そう心の中で願った。
左内を見送ったあと、壮介は肩を落とし考え込んでいる渚沙に声をかけた。
「急にしょんぼりしちゃって、どうかしたのですか」
「あたしね、左内君ほどの天才でもなければ秀才でもないけれど、彼の気持ちがわかるような気がする」
そう言うと渚沙は遠い昔のことを話し始めた。
「あたしもね、子供のころは絵の天才少女と言われたこともあったの。当然のように美大を出て……」
「画商の言葉に傷つき、そのあと何を描いたらいいのかわからなくなった、と」
「ええ、そう話したけど、その続きがあるの」
渚沙は、そこまで話すと口を真一文字に結んでしまった。
壮介は渚沙が話す気になるまで待とうと思い、キッチンに入った。
しばらくするとチョコレートとココアの甘い香りが漂ってくる。
――なにかしら。
渚沙の心がざわざわと騒ぐ。
「はい、お待ちどうさま。生チョコのフィナンシェです」
チョコレート色の四角いケーキ。
「壮さんこれは?」
「『黒』、いや、『闇の解放』かな」
壮介はカウンター越しに土色の四角い陶製の皿に載った『闇の解放』を渚沙の前に置いた。
『闇の解放』
手が足が見えない
漆黒の闇
気が狂いそうなほど
遥か彼方に灯台の光
助かった! 闇よさらば
宇美
つづく
【底知れぬ恨み その1】
渚沙は自分の過去を壮介に初めて告白し始める。そんな折、産婦人科医の陶子が眼窩を落ちくぼませてやって来た。