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画家の心 美の追求 第91回「エル・グレコ『ヘロニマ・デ・ラス・クエバスと言われる肖像 』1570年台後半」

 皆さま、明けましておめでとおうございます。
 本年も『画家の心』引き続きよろしくお願いいたします。

模写「ヘロニマ・デ・ラス・クエバスと言われる肖像」

 エル・グレコは1541年ギリシャのクレタ島で生まれ、本名はドミニコス・テオトコプロスという。
 エル・グレコと名乗るはイタリア滞在中、ギリシャ人を意味するグレコにスペイン語の男性定冠詞エルが付いて、エル・グレコと呼ばれるようになる。
 しかし、エル・グレコ自身、作品の署名はギリシャ語の本名を用いていたそうだから、そういう意味では自分の出自にプライドを持っていた。
 そしてエル・グレコと言えば、人体が長く伸びたマニエリスムの大家で、赤黄青茶などの原色で彩られた宗教画で有名だ。
 ところでエル・グレコは16世紀のスペインで大活躍するのだが、それまではイタリアのルネサンスの中心都市ヴェネツィアで頑張っていた。しかし、1572年(エル・グレコ31歳)パトロンのファルネーゼ枢機卿から解雇され、その後はローマへと移り住む。
 世の政情はヴェネツィアからローマへと移っていたこともあるが、エル・グレコがヴェネツィアを出た原因は、ヴェネツィアの絵画の神とも尊敬されるミケランジェロを相当辛らつな言葉で罵倒したことにより、ヴェネツィアにいられなくなったという話がある。
 ではその酷評したという内容とはいったいどういうものだったのだろうか。中身は明らかにされていないが、以下のようなことを想像してみた。
 ミケランジェロの晩年はシスティーナ礼拝堂の天井画と壁画をたったひとりで描いており、あまりの多さにミケランジェロ自身、いい加減飽きていた。そうなると自然と手抜きの絵になる。それがマニエリスム(マンネリの語源)へとつながる。
 エル・グレコはこの画法を批判したのではないか。 
 その結果、神とあがめられていたミケランジェロの弟子や大切なパトロンのファルネーゼ枢機卿からも嫌われた。そのためにヴェネツィアにいられなくなった、そういうことではなかったか。
 それを証明するかのようにこの時期に『ヘロニマ・デ・ラス・クエバスと言われる肖像 』が描かれる。マニエリスムからはまったく対照的な写実的で、後に現れるバロック絵画的な絵になっている。
 因みに右手を前に出しているこのポーズは、ラファエロの『ラ・ヴェラータ(ヴェールの女)』(第84回)を真似ている。
 彼自身ミケランジェロの後追いではなく、先進的な絵画を目指していたのではないか。

 そして1577年(36歳)スペイン・マドリードへ移住する。理由は不明だが、この当時コロンブスがアメリカ大陸を発見するなど、スペインが勢力を増し、経済力もヨーロッパで一位となる。エル・グレコはスペインの王宮に認められ、宮廷画家になることを目指した。 
 ところで繫栄するスペインに移り住み、宮廷画家になるためにはどういう絵を描かなければならならなかったのだろうか。
 エル・グレコは思案に沈み、選択を迫られた。
 スペイン王宮の求めるの絵とは、文化の先進国であるローマ、ヴェネツィアで流行っている絵を描くことか、それとも自分が目指す絵か。
 エル・グレコは思案の末ローマ、ヴェネツィアで流行っている絵を描くことを選択した。

 エル・グレコは立身出世するために、自分の信念を曲げた。スペインの地で成功する。そのためにはマニエリスムを極める。ローマやヴェネツィアの画家以上のマニエリスムの絵を描く。やがてカルロスⅠ世に認められ、サント・ドミンゴ修道院や大聖堂の壁画の受注に成功する。
 
 前置きが長くなってしまった。この絵の、ヘロニマ・デ・ラス・クエバスの話をしよう。
 ヘロニマはスペイン・マドリードの南西郊外にあるトレドの街の職人の娘と言われており、同棲を始める。1578年に長男が生まれている。
 この絵は1570年代の後半とされているので間違いなく同棲を始めた時期と一致する。同棲する切っ掛けは、エル・グレコが彼女にモデルになって欲しいと頼んだのちからではなかったか。
 それを機に同棲を始めた。そして、37年もの間妻のような存在として生活を共にしていた。同棲というからには、戸籍上妻とはなっていない。
 それは何故か。単にエル・グレコが自堕落だったからか。
 ヘロニマは1614年に亡くなるのだが、それまでの間本妻が生きていたからだという説があるが定かではないそうだ。

 さらに想像を膨らませると、エル・グレコはギリシャのクレタ島の出身。その後36歳までヴェネツィアとローマで生活していた。その間に結婚していたのではないだろうか。ローマやヴェネツィアで結婚していたなら、その戸籍は必ず残る。
 ではどこか。それは生まれ故郷のクレタ島だ。小さな島なこと、戸籍の管理など十分ではなかっただろう。あったとしても、相次ぐ戦争や騒乱の中で戸籍そのものが紛失してしまった可能性は否定できない。
 そうであったかもしれないが、スペインとギリシャはあまりにも遠い。しかし、妻がいるという事実は、ふたりにとって秘めたる事実であったのだ。
 ヘロニマとグレコにとって、宗教上重婚は許されない。正式な妻とは名乗れなかったかもしれないが、優しい夫とかわいい子供たちがそばにいる。
 ヘロニマはそれだけで十分だったのだ。

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