学芸美術 画家の心 第63回「メアリー・カサット 母と子 1903年 」
メアリー・カサットは1844年アメリカ・ペンシルベニアで生まれ、父は株の仲介業で財を成し、アレゲニーの市長を務めるほどで裕福な家庭に育つ。幼少のころよりデッサンを学び、カサット自身は画家になることを夢見ていたが、父親は終生反対していたようだ。
22歳のとき、固い決意とともに母親とともにパリに移り住み、ルーブル美術館にかよい熱心に模写し、腕を磨く日々を送る。戦争により一端アメリカに帰国するが、翌年再び渡欧し、ヨーロッパの美術館を巡り大きな刺激を受けると同時に模写に励んだ。
1872年、カサットはショーウインドーに飾られた一枚の絵に釘付けになった。ドガのパステル画だった。
そして彼女はつぶやいた。
「わたしは芸術を見た。わたしが見たいと願ってい芸術を」
1874年(カサット30歳)、憧れのエドガー・ドガに会う。このときドガは独身で、40歳の紳士だった。
憧れの君に会ったカサットはたちまちのうちに恋に落ちる。しかしこの恋は、決してかなうことのない恋だったのだ。
そんな未来が待っているとは露ほもども思わなかったカサットは、ドガから印象派の画法を積極的に学び、1879年の印象派展に出品する。そして、1886年まで印象派に属し活動する。しかしその後は印象派を離れ、単独で行動することになる。その興味の矛先は女性の解放運動だった。
いっときと言えど女性解放運動に向かわせた原因は何だったのか。そしてこのときカサットに何が起きていたのだろうか。
画集の解説書には何も記されていない。ただただ妄想するしかないのだが、憧れていたドガに失望したからではないだろうか。
カサットは自分の気持ちを知っているはずのドガからの求愛を長い間ずっと待っていた。でも求婚されることはなく、ドガ自身は独身を貫いていた。
じりじりした気持ちを振り切ると、カサットはドガに向かい「結婚してほしい」と頼んだ。
しかし帰ってきた答えは、「君とは結婚できない……。ぼくは男しか愛せない…」
もしやと思っていたことだったが、やはり…、そうだったんだ。
本人の口からそんな答えを期待していたわけではない。とんでもないショックが襲ってきた。
そして絵の道から遠ざかるには十分すぎるほどの理由だった。
カサットが絵の世界に戻ってくるは、1890年代の後半になってからで、画風は印象派の荒い筆跡を残すタッチではなく、前時代のロマン派を思わせる優しいものに変わっている。
ドガに対する反骨だろうか。いや、そうではないだろう。乱れていたカサットの心のうちが穏やかになり、すべてを認める優しい気持ちが芽生えていたのだ。
それを表すこと、絵にすることができるテーマが母と子、母子像だった。
この「母と子」だが、この絵はまるで聖母子像、マリアとキリストを描いた古典ではないか。
優しさと慈しみ。愛があふれ、世界の人びとに愛がふりまかれる。
カサットは生涯独身を貫きとおした。結婚を断れたのちもきっと、ドガを愛し続けていたのだろう。