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ファロスの見える家         足止め 2

【これまでの経緯】
 渚沙はこの店には何かあると言い、その証拠に傷ついた人たちが、ほんの少しの憩いを求めやってくると言った。そして、渚沙は壮介にキスをした…。


 チョッチー、チョッチー。チョッチー。
十数羽のスズメが庭の芝生の上で群がり、何かをついばんでいる。梅が咲き、桜の花もすでに散った。キッチンの窓からは薄い霞の先に、青い空と淡い色の海が白く輝いている。
 美咲は愛之助を連れて丘の上に散歩に出かけた。渚沙はいつものように庭先で絵を描いている。いつもと変わらない穏やかな日常と風景がそこにある。


 突然ドアを突き破るような音がした。壮介はカウンターから入口を見ると、美咲がゼーゼー息を切らしながら入って来た。その後ろで愛之助が尻尾を勢い良く左右に振っている。
「た、大変です」
「美咲ちゃん、どうしたの」
「あいのすけが、愛之助が……」
「落ち着いて、この水を飲んで」
 壮介はグラスを差し出すと、美咲は一気に飲み干した。
「愛之助が、鳴きました」


 壮介はカウンターから庭に飛び出した。
「渚沙さん! 早く来てください」
 何事が起きたのかと、渚沙は小走りで戻ってきた。
「どうしたの」
「愛之助が、ワンって、鳴いたんです。愛之助、ワンって言ってごらん。愛之助! 丘の上で鳴いたでしょ。壮介さんと渚沙さんにあなたの声を聞かせてあげて」


 美咲は愛之助のそばにしゃがみ込み、愛之助の声を聴かせようと必死に促す。愛之助はキョトンとしたまま小首をかしげるばかり。
「どうしたの、愛之助。ひらひら飛んでる蝶々を見てワンって鳴いたじゃない。海を見て鳴いたじゃない。どうしちゃったのよ」
美咲は愛之助の背中を撫でると、壮介と渚沙をかわるがわる見上げた。
「本当に鳴いたのよ、ワンって。信じて」
「美咲ちゃん。美咲ちゃんが嘘をついているなんて、壮さんだって、あたしだって、そんなこと思わないから」


「そうですよ。愛之助だって、ひと声出したわけだから、そのうちにまた、鳴きますよ。急にワンワンワンって鳴いたりしませんよ」
「そうよ。壮さんの言うとおりだよ」
 渚沙はしゃがみ込んでいる美咲の肩にそっと手を置いた。
「何か飲み物を作ってきますね。愛之助の第一声に乾杯しましょう」
 壮介はキッチンに入って行く。
 美咲は立ち上がり、真ん中のスツールに腰を下ろした。悲し気にうつむいたままだ。渚沙に顔を向けると、ポツリとあの言葉を漏らした。


「愛之助が鳴いたら、愛之助が鳴いたから、あたし、ここを出て行かないといけないですよね。約束だから」
「確かに、そういう約束だったわね。覚えているわよ」
 美咲はスツールから降りると、愛之助を抱き上げ、膝に乗せるとそっと背中を撫でた。
「どうして鳴かないの。君の喉はとっくに治っているんだよ。ワンって言ってごらん」
 美咲は愛之助に優しく声をかける。愛之助は美咲の指示に従うように顔をしかめ、声を絞り出そうとする。グゥァー、何かがこすれるような耳障りな音は出てくるが、ウーともワンとも犬らしい鳴き声にならない。美咲は何度も声をかけたが、愛之助は声を出さない。とうとう、疲れてしまったのか、しっぽを丸めてしまった。


 キッチンからあまーい香りが届く。固くなっていた体がほぐされていくようだ。
「お待たせしました」
 壮介がタフェッタフラワーのティーカップとプレートをふたりの前に差し出した。
 カップには赤い液体が入っていて、かすかに湯気を上げている。あまーい香りはここから立ち昇っている。シナモンの香りと柑橘系の匂いが混ざっている。赤い色はワインの赤だろうか。
 明るい空色のプレートには、これはリンゴだ。リンゴのコンポート、赤く色づいている。シナモンとレモンを加え、赤ワインで煮たものだ。コンポートの横には真っ白なホイップクリームが、その上に緑のシナモンリーフが添えられている。


 壮介は牛乳に生クリームを溶かし込み、その中にリンゴのコンポートと、喉が良くなる美声玉を三つ入れる。それを愛之助の前に置いた。
「愛之助、お疲れさま。今日はよく頑張ったね、特別のご褒美だ」
壮介は自分の分も用意し、カップを手にした。
「お待たせしました。愛之助の一声に、カンパーイ!」
「乾杯」
「かんぱい……」
 三人はカップを合わせ、薫り高いホットワインを口にした。そして、リンゴのコンポートの甘酸っぱいような切ないシナモンの香りをかいだ。
「う~ん、おいしい~」
 渚沙の第一声だった。


 美咲はホットワインをひと口啜るごとに、リンゴのコンポートをひと口食べる。感情が込み上げ、涙があふれ、泣き黒子を濡らした。
「美咲ちゃん……」
 壮介は涙を流す美咲に声をかけた。
「愛之助が鳴いたからよ。愛之助が鳴いたら美咲ちゃん、ここを出て行く約束じゃない。だからよ」
 渚沙は美咲に代わって涙の理由を話した。
 壮介は、ああ、と声をもらすと、
「でも、ぼくは、愛之助の声を聞いていません。ワンって鳴いたと言うけど、美咲ちゃんは海鳴りを聞いて、それを愛之助の声と間違えたのかもしれません。それとも鳥の鳴き声だったかもしれない。もちろん、美咲ちゃんがここを出て行きたいのであれば、ぼくはそれを止めることはできませんが」


「壮さん、海鳴りだの、鳥の声だのと何を言いだすのよ。どうして犬の……。あっ、そうね。あたしも聞いてない。海鳴りとか鳥の声とは思わないけど、たまたまうろついていた野良犬だったかもしれないし。美咲ちゃんの勘違いってこともあるじゃない。ねえ、そうでしょう」
「ぼくもそう思います。愛之助に声が戻り、ちゃんと鳴くようになれば、ぼくたち三人が一緒に、愛之助の声が聞けますよ」
壮介は、そうだろう、と愛之助に語りかけた。
愛之助は無心に尻尾を振っている。


「あたし、ここに居たい。居ていいんですよね」
「もちろん、いいわよ。居てちょうだい」
 渚沙はここの家主になったかのように、嬉しそうににこにこしている。
 美咲は返事をする代わりに、大粒の涙をポロポロとこぼした。
「美咲ちゃんは本当に泣き虫なんだから」
 渚沙は美咲の涙を手のひらで拭う。


「それで、壮さん。このスイーツは何ていう菓銘にしたの」
「ホットワインとリンゴのコンポートのセットで、『足止め』にしました。美味しすぎてここに居続けたいと思うでしょう」
「美味しすぎて、『足止め』。美咲ちゃんを足止めにするってこと。ば~か。壮さんの気持ちそのまんまじゃない。いつにもまして、安直な名前だこと。ナイーブな乙女に捧げるような、もう少し詩的でロマンチックにお願いしたいわ」
 渚沙のいつもの台詞だが、渚沙も瞼に涙を溜めていた。
「いやだ。涙なんか出てきちゃった。美咲ちゃんの泣き虫がうつったみたい」
 そして、三人は声を上げて笑った。

   『足止め』
  雨が降り、雷も鳴り出した
  あなたは震え、ぼくにしがみつく
  やがて寝息がかすかに聞こえ
  ぼくもそっと目を閉じる
  明日はきっと晴れになる
            宇美 
                         つづく
 【行かないで】予告
 渚沙は人が変わったように、夜明け前から庭に出て絵を描いている。そして、絵筆の動きが止まった…。

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