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画家の心 美の追求 第89回「フランシスコ・ゴヤ『裸のマハ』1797年~1800年」
ゴヤの問題作、『裸のマハ』である。
何が問題なのだ。単なるヌードではないか。
そう訝(いぶか)る気持ちはわたしも同じだ。その謎を追ってみよう。
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先ず知るべきは、目の前に裸体を投げ出すマハとは、いったい何者なのか。
マハは人の名ではなく、「小粋な女」とか、「小粋なマドリード娘」という意味で、彼女らは今風にいうと、キャピキャピした女たち(朝ドラのギャルとでもいうのだろう?)で、ギャル語を使い男たちとも自由に楽しく会話ができた、そういう女たちを指す言葉。
ではこのマハは具体的には誰なのか。
ひとつには、ゴヤと親密な関係のあったアルバ女侯爵マリア・デル・ピラール・カイエターナだとする説がある。ゴヤが描いたアルバ女侯爵の肖像画があるが、マハとはまったく似ていない。さらに侯爵夫人がご禁制を破ってまで、言っては何だが貴族でもない一介の画家ごときに、自分の裸をさらすなどあり得ない。
もうひとつの説が、当時の首相であったマヌエル・デ・ゴドイの愛人、ペピータを描いたする説だ。
ところでこの絵が掛けられていた場所、すはわち発見された場所は、ゴドイの寝室。『着衣のマハ』はゴドイの執務室にあったという。着衣の方は『裸のマハ』を隠ぺいするためのものなのだろう。
ここまでくれば犯人は、いや依頼した主はゴドイ本人しかいない。
ところが、ゴドイは知らぬ存ぜぬと言い張り、白を切りとおした。
ゴヤも裸を描いた罪に問われ、宗教栽培にかけられ、厳しい詮議を受けたが、依頼主に関して口を開くことはなかった。
やがてこのゴシップはうやむやになり、絵はプラド美術館の地下室に移送され、そののち100年もの長いあいだ眠りにつくことになる。
ところでゴドイとゴヤの関係だが、この絵が描かれたときゴドイは33歳、ゴヤ54歳。ゴドイは仲間を引き連れ下町に出かけ、ギャルたちと一緒に憂さを晴らしていた。そんなマハたちの中からペピータと出会い、心を奪われる。そしてその思いが高じてゴヤにペピータのヌードを描くよう極秘裏に依頼した。
その依頼の内容を聞いてゴヤはとても驚いた。裸婦を描く。ご禁制を破ることになる。しかし、ゴヤは面白い。やりましょう、とゴドイと握手した。
裸婦像の絵が完成した。しかし容易に屋敷に持ち込むことはできない。裸婦像の上に『着衣のマハ』を重ねまんまと自室に運び込むことに成功する。
ゴドイはしてやったりとにんまりと笑ったことだろう。ゴヤはその横に立ち、出来栄えに満足げに頷いていた。
30歳の若者と54歳の初老の男ふたりは、悪戯坊主になり切り、してやったりとにんまりと顔を見合わせた。
以上のことはまったくの想像だが、ゴドイがゴヤに向かって「どうだ、いい女だろう」と鼻の下をこすりながら自慢する光景が目に浮かぶ。
さてこんなゴヤだが、彼の経歴を追ってみよう。
1746年サラゴサで鍍金師(ときんし)の次男として生まれる。1786年40歳で宮廷画家となり、89年には新王カルロス4世に仕える画人となり、43歳にして最高の地位を得る。
1792年(46歳)、不治の病から聴力を失ったという。これから以降にゴヤの代表作の多くが生み出されていく。この『裸のマハ』も聴力を失ってからの作品だ。
1807年(61歳)、ナポレオン率いるフランス軍と戦争になり、1808年7月スペインが負け、ナポレオンの兄ジョゼフが王となり、ホセ1世と名乗る。
スペインが崩壊したことによりゴヤは宮廷画家としての地位を失う。スペイン国内はフランスの支配から逃れるため、直ちに独立戦争をはじめ、1814年になってフランスから領土奪還に成功する。
このときに描かれたのが、『1808年5月3日 マドリード』であり、この絵は民衆から圧倒的な支持を得、ゴヤはスペイン一の画家として復活する。
1815年、69歳になり、40歳年下のレオガディア・ワイスと同棲。
1824年(78歳)、自由の束縛から逃れるためフランスに亡命。
1828年、亡命先のボルドーで死去。享年82歳。
このように波乱万丈のゴヤの人生だが、若いときは社会的地位や権力に執着していたようだが、晩年は己の感情の赴くままに生きる自由人であり、それを求める人であったように思う。