学芸美術 画家の心 第37回「フィンセント・ファン・ゴッホ 鴉のいる麦畑 1889年7月作」
1889年7月29日、運命の日にゴッホは拳銃自殺した。
鴉(からす)が飛び交い、不穏漂うこの絵は自殺した同じ7月に描かれたため、心が乱れ自殺を予期するものと考えられている。
この絵は横1メートル、縦50センチの横長の絵だが、このキャンバスと絵具を抱えゴッホはいつものように麦畑に出かけた。
西の地平線に沈みゆく太陽が、東の空には月が厚い雲間に現れた。ゴッホはそれらを同じ画面に現した。
しばらくすると青空だった空に突然黒雲が現れ、突風のような風が吹く。その変化に驚いた何羽もの鳥たちが、その先にある森に向かって黒いシルエットとなり急ぎ飛び去る。それと同時に大粒の雨までも降ってきた。
ゴッホといえば「ひまわり」に代表される黄色だが、「テオの肖像画」で見たように黄色の補色である青とのコントラストに大きな関心を持っていた。
黄色の麦畑に真っ青な空が広がっている。出かけたのは天候が少し怪しくなってきた午後だ。まさしくゴッホはその時を待っていたのだ。いつもの麦畑に出かけ予定の場所にイーゼルを立てる。
それに計画通りにパノラマのような横長のキャンバスを立てかけた。
青かった空に分厚い黒雲が広がり、黄色の麦畑に強い風が吹きつける。今日は太陽と月が同時に見られる日だ。ゴッホがイメージした最高のシチュエーション。
敬虔なクリスチャンのゴッホは、願ってもないこの状況を神に感謝の祈りをささげただろう。
そう思う間も惜しむようにしてゴッホは腕と筆を動かし続けた。
「鴉のいる麦畑」とはいったい誰が名づけたのだろうか。わたしは想像する。それはゴッホ自身ではなく、ずっと後になって評論家か、画商の誰かが見たままに名づけたのだ。
後世言われるように、ゴッホは精神を病んだ末にこの絵で自殺をほのめかしたのではなく、ゴッホ自身は狙いどおりの状況に最高の喜びを感じ、この横長のパノラマ絵を一気の描き上げたのだ。
それは模写することで伝わって来た。
これまでにも述べてきたが、もう一度言おう。ゴッホの死は自殺ではない。偶然起きた拳銃事故により、その弾がゴッホの腹に命中した。ゴッホはその犯人を庇(かば)いつつ、彼自身もまさか死ぬとは思っていなかったのだろう。だが、状況は急変し、そして死んだ。
ゴッホは今流に言えば極度の発達障害者、もしくはギフテッドだった。ゴッホが生きた時代は19世紀の最晩年に当たる。発達障害もギフテッドという言葉も概念もない。ただ気の触れたひと、狂人として気持ち悪がられるだけだった。牧師であった親からも他の兄妹からも見放されていた。
だが弟のテオだけが兄の天才を見抜き懸命に兄を守ろうとした。
テオを扇の要(かなめ)とするならば、もうひとりの天才ゴーギャンがいた。
そのゴーギャンもテオが亡くなると糸の切れた凧のようになり、南の島で枯れ枝のごとく朽ち果て死んだ。
テオドール・ファン・ゴッホ。彼こそは絵を描かない絵の天才であることに間違いはない。