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ファロスの見える家          雨上がり

【これまでの経緯】
 初めての客がやって来た。女流画家のようだがその正体はよくわからない。その女の客にイチゴのシフォンロールケーキを出した。本降りの雨になり女は壮介の店に足止めを食らった。


 ピーピョロピー、ピーピチ、ピーピョロピー。
キビタキの鳴き声だろうか、ぼんやりとした頭が覚醒していく。窓から明るい朝日が差し込んでいる。今朝は昨夜の嵐が嘘のようにすっきりと晴れ渡り、真っ青な空が天空に広がっている。壮介が一階のオーナー室からフロアに出てくると、女画家はいなかった。今朝早くに出て行ったのだろうと思ったが、そうではないようだ。布製の袋が昨日と同じ椅子の上に置かれたままになっている。袋以外の画帳と絵具箱は姿を消している。

 昨夜の嵐で帰れなくなった女はソファーで寝てしまい、無理やり追い出すこともできず、そのままにしておいた。
――でも、どこに行ったのだろうか。
心配したところでどうにもならない、そう思いなおし、庭に続く、高さが二メートルを超える四枚ガラスの掃き出し窓に目をやると、庭に明るい日差しが降り注いでいる。さらにその先の庭の端で女はすっと背筋を伸ばし、画帳を立てかけ朝日の中で絵筆を振るっていた。


――あんなところで絵を描いて、お気楽な人だな。
そんなことをのん気に考えていた。
女はカウンターの中に壮介の姿を見つけると、絵筆を片手に庭を駆けながら戻ってきた。そして、
「お腹がすきました。朝ごはん、食べさせてください」


「いや、それは、ここでは食事のご用意ができないのです。駅前に行かれたらモーニングを出す店がいくつかありますのでそちらでお願いします」
 壮介は慇懃(いんぎん)に断りを入れた。
「そう。ところであなたは何を食べるの」
「いつもはトーストとあとは適当なものを作って、それをいただきますが」
「あたしもそれでいいから、お願い。できたら呼んでください」


そう言って絵を描いていた庭の方に歩き出した。ふっと立ち止まると、何を思ったのかすぐに戻ってきた。
「お昼と三時のスイーツもお願いします。昨日のが美味しかったから。でも、できたら別の何か、適当にお願いします」
 言いたいことだけいい終えると、画帳を立てたファロスの見える庭先の方へ戻っていく。


「えっ、そ、それはぁ……」
 去っていく女の後姿に声をかけたが、もはや女の耳には届いていない。
 そして、三時になると待ちかねたように、
「おやつ、まだですか」
 真っ赤に染まった絵筆を持った女が、掃き出し窓から顔を覗かせた。
「いま声をかけようかと」
女はにこっとほほ笑むと、さっさと庭に近い手前のスツールに腰を下ろした。


「抹茶を使ったレアチーズケーキを作りました。『雨上がり』と名付けました」
「雨上がり?」
滑らかな生地のレアチーズケーキの真ん中から、同心円状にいくつかの白い輪と緑の輪が蛇の目模様に描かれている。しかもケーキの真ん中に三つ葉のクローバーが添えられている。女はその蛇の目模様を興味深げにしばらく眺め睨んでいたが、わかったわ、と声を出した。そして、目を輝かせると壮介に顔を向けた。


「これ全体が昨日の雨でできた水たまりなのよ。その水たまりに庭の緑が映り、緑色の水たまりになっている。そこに三つ葉のクローバーが飛んできて、緑の水たまりに白い波紋が広がった」
そうでしょう、女は壮介とケーキを交互に見ながら、したり顔でにんまりと笑う。


壮介はにっこりとほほ笑み返すと、首を縦に振った。
「クローバーの花ことばは『幸運』です。いいことがありますようにって、祈りをこめました」
 そして、壮介は続ける。
「真ん中からこうしてナイフを入れるでしょ」
 壮介は一切れを扇型に切り分けた。その扇形に切り取られたスイーツの断面は、いくつかの緑と白の線が中心に向かっている。まるで急流を流れ下る美しい川の流れのようにも見える。
「きれい……」
女の喉がゴクリと鳴った。


 壮介は扇型に切り分けた『雨上がり』の一切れを茶色の素焼きの皿に載せた。そして、モカブレンドコーヒーを山茶花(さざんか)が絵付けされた白磁の茶碗に注ぎ、『雨上がり』とともに女の前に供した。
 芳醇な深い香りのコーヒーとほどよく冷やされたチーズケーキ。女は木のフォークを上手に使いこなし、ひと切れをそっと口に運ぶ。懐かしい抹茶の香りが鼻腔に届き、レモンの香りと酸味が、絵を描き疲れていた体と心を癒してくれる。それに少しばかりの甘みが口の中でコラボする。


 次のひと切れを口に入れる。チーズケーキのしっとりとした柔らかさと滑らかさが舌の上で蕩(とろ)けていく。チーズの優しい風味が心憎い。
――これは大人の味。あたしが好きな味だ。
 女はモカブレンドをひと口含む。コーヒーの甘い香りとまろやかな酸味が口の中に広がる。そして、『雨上がり』の最後の一切れを惜しむようにして食べ終えた。


――なんだろう、清々しいこの爽やかな感じは……。
そして、山茶花の絵が描かれた茶碗のコーヒーをズズズっと飲み干すと、ホ~っと息を吐いた。
「ああ~、美味しかった。昨日食べた『片思い』もそうだったけど、洗練されたスイーツというより、いかにも男のパティシエが作りました、って感じね。でもひと口食べるとふわーっと心と体が包み込まれるような、不思議と気持ちが落ち着くのよね。それがとってもいいの」


「そうですか。ただ心を込めて作っているだけなんですけどね。そう言っていただけると嬉しいです」
 壮介はにっこりとほほ笑んだ。食べてくれるひとのことを思い、その時に自分が感じたままのスイーツを作りたいと思っている。それがどう受け入れられるのか、不安なところだが、女の素直な感想は嬉しいもので、壮介に再び、小さな自信を与えてくれた。


 壮介は余韻に浸っていると、女は「お願いがあるの」と言い出した。
「もう少しであの絵が完成するから、それまでここに居させてください」
 あまりにも唐突な話しに驚いたが、壮介はためらいもなく首を横に振った。
「それはできません。ここは男の僕ひとりだけですから」
「あと一日か二日あればきっと完成します。だからお願いします。迷惑はかけないから……」


その後も何度か押し問答したが、半(なか)ば女の強引さに押し切られてしまった。仕方なく壮介は女を二階の客室に案内した。客室は三部屋あり、手前から白の部屋、緑の部屋、奥の部屋が青の部屋と名付けられていた。各部屋ともに海に面しており、テラスがあり、窓からは海が一望できる。三部屋はともに同じ十二畳間で、セミダブルのベッドと化粧台兼事務机が供えられている。入口の左側にバスとトイレがあり、その横に並んで洗面化粧台になっている。女は奥の青の部屋を選んだ。


女の望み通り、数日のつもりで青の部屋に泊めることにしたのだが、三日が過ぎ、四日が過ぎ、そうこうするうちに一週間が過ぎようとしているが、女は出て行く気配をみせない。そのままずるずると居続けるつもりだろうか。
                              つづく
『雨上がり』
  雷、嵐、過ぎていく
  青い空と緑の山
  足元に小さな水たまり
  クローバーが飛んできて
  小さな波紋を広げてる
            宇美

【次回 子犬のワルツ】予告
 真っ白なティーシャツにインジゴブルーのデニムパンツを履いたショートカットヘアの若い女が、茶色の子犬を胸に抱きかかえ入ってきた。子犬はある大きな悲劇をかかえていた。

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